第10話 粛清
11月も押しせまったある日、一人の男が、街の小さな釣具店を訪ねてきた。男は店内を一回りすると、店の主人にこう尋ねた。
「ご主人、船釣り用のキス竿を見せてもらえないだろうか」
店の主人はその男の風貌に、すぐ返す言葉が出ないまま、男の顔を見上げる。
風貌と言っても、特別な顔身なりをしているわけではない。華奢なようだが身長も180cmぐらいはあるだろうか、その店の主人よりもちょうど頭一つ分ぐらい大きかった。
ただ一つ、その異様に抜けるような白い肌が、主人にはおおよそ釣り人とは似つかわしくないものとして映ったのである。
「ご主人、キス竿を・・・」
もう一度言われて、店の主人は、いつものような愛想の良い口調に戻った。
「年が明けると、また船釣りのシーズン到来ですな。まあ、ここの海でしたらこれなんぞは如何でしょうか」
店の主人が手にした竿は、比較的安いカーボン製のもので、二本つなぎの短竿である。
「このあたりのキスなんぞはバカですから、このクラスの竿でも十分ですよ」
と言いながらも、主人はその男の反応を透かし込むような目でのぞき、すかさずもう一本別の竿を取り出してきた。
「まあ、お客さんのようにベテランの釣士ともなると、やはり和竿の一本でもお持ちになりますかねえ」
当然店の主人の手には、先程の竿よりも数段高価な竹製の竿が握られている。
「ほう、和竿ねえ。そんなに違いますか?」
「違うなんてもんじゃありませんよ。こいつにかかったら、キスの奴がパクっと食いついただけでも、竿先がググンときますよ」
男は、それには何も答えず、別の質問を返す。
「この辺りのキスは、そんなにバカですか?」
その言い方が、先程までに比べてぶっきらぼうだったためか、それともその男の口元が少し尖ったように見えたためなのか、今度は主人の方がそれには答えず、竹竿をケースにしまい始めた。
男は、銀色に光る財布からお金を取り出すと、
「ご主人、二本ともいただきましょう」
と、また以前のような紳士的な口調に戻り、その二本の竿を、やはり抜けるように透き通った細い手で握りしめる。
店の主人は、思わぬところで高価な和竿が売れたことよりも、むしろ、その男が店を出る時にニヤッと笑った顔が、何とも言えない記憶として頭に残ることとなった。
次の週、その男はまた釣具店を訪ねて来た。
今度は、仕掛けを見せて欲しいと言う。
仕掛けとは、魚を釣るための針が付いた先糸のことで、当然、釣果にも一番影響する。釣士の中には、色々と工夫を凝らしたものを、自分で作る人もいると言う。
店の主人は、心のどこかに少しの疑念を抱きながらも、二つ三つキス釣り用の仕掛けをその男に手渡した。
「シーズン始めのキスは、水温も低いので、少し小さめの針の方が食いが立つかもしれませんねえ。まあ、もっともこの辺りのキスは・・・」
と、言いかけて店の主人はハッとした。なぜなら、この前のことを思い出したからだ。
男はそんな主人の心配をよそに、少し微笑みながらも
「バカですもんねえ、このあたりのキスは・・・」
と、逆に相槌を打って見せる。
「まあ、キスの奴にとっても生活がかかっているんだから、そう簡単には食ってくれませんがね」
などと、妙な講釈を並べつつも、店の主人にはその男の口元が、この前よりもいっそう突き出ているように感じられた。見れば目だって人間のそれとは少し違うように見えてきた。
丸いのだ。
いや、決して目が丸いと言うわけではなく、切れ長の目のふちの奥が、まるで大きな水晶玉でも入っているかのように、丸く無機質なのである。
店の主人は、あまり瞬きをしないその男の目を、ついのぞき込んでしまった。
「ご主人、その仕掛けを全部いただきましょう」
男は、この前と同じように、丁寧な落ち着いた口調で、店の主人に薦められた仕掛けを手にすると、また銀色に輝く財布をポケットから取り出した。
男は、この前もそうであったように、店に来てからものの十五分もしないうち、また店の外へと消えて行く。
男が店を出て行くのと肩を合わせるように、この店の馴染みの客が入って来た。
「徳さん、この前預けておいた竿だけど、もう出来た?」
徳さんとは、当然この店の主人のことで、竿の修理を頼んだ山ちゃんとは、もう、うん十年という顔馴染なのだ。
「ちょっと徳さん、どうしたの。狐につままれたような顔をして」
「狐なんかじゃないよ・・・ ありゃキスが化けてんだ」
「キス?・・・ キスって魚のかい」
「そうだよ、キスだよ。いま出てったお客の顔を見ただろう。ちょうど今、山ちゃんと入れ違いに出て行った奴だよ。ありゃ人間なんかじゃないね、人間に化けたキスの奴さ」
「何で、キスが人間に化けて、ここに来るのさ?」
徳さんは、先週から始まったあの不思議な男との出会いを、山ちゃんに話して聞かせた。
山ちゃんは別に不思議がるわけでもなく、かと言って、旧友の徳さんのことを馬鹿にするわけでもないといった素振りで、この何とも不思議な珍客についてのイメージを、一人膨らませていたのである。
そんな話から、また一週間が過ぎた。
今日は山ちゃんも店にいる。もちろん徳さんが前もって呼んでおいたのだ。
何やら今日の徳さんには、例のお客の正体を解き明かすための秘策があると言うのだ。二人はは固唾を飲むようにして、時間が少しずつ過ぎ去るのを待った。
「・・・で、徳さんはそのお客がキスの化身だったら、いったいどうするんだい?」
「どうするって、丘の上じゃ竿で釣るわけにもいかんしなあ。ただなあ・・・」
「ただ・・・」
「ただ、何で奴が人間なんぞに化けてこの店なんかに来たんか。それだけが知りたいんだ」
徳さんは、柱にかけてある楕円形の時計に目をやると、別に気負るわけでもなく、しかし十分に自信のある顔付きでその時を待つ。
午後も三時を少し回った頃だったろうか。その例の男は、店のドアを音もなく開けると、スッと現れた。
「来たっ!」
思わず山ちゃんが声を上げる。
が、男は別にそれを気にすることもなく、店の主人に、今度は道糸と仕掛けとを結ぶための天秤を見せて欲しいと言ってきた。
この前と服装も同じなら、申し訳程度に六四に分けられた髪の毛の縮れ具合まで、寸分も違わぬようである。
ただ違いを一つあげるとするならば、その右のほおに、大きなバンソウこうが貼られていたことぐらいであった。
徳さんは山ちゃんに目配せをした後、勤めて冷静に、それでいて、いつもと変わらぬよう愛嬌たっぷりの笑顔でその男に応対する。
「お客さん、キス釣りの天秤と言ってもたくさんありましてね。それぞれ、キスの奴の誘い方も違えば、合わせ方も違うんですよ」
徳さんは終始笑顔を絶やさないものの、明らかにそのもの言いは、これまでとは違っていた。
「キスなんぞは・・・」とか「キスのくせに、人間様の知恵に勝とうとは、百年早いわ・・・」などと、明らかに挑発とも思える言い方をしている。
その上、どこで覚えてきたのか、天秤についての薀蓄を、次から次へとまくしたてるようにしゃべった。
これには、その男よりも山ちゃんの方が驚いた。
「おい徳さん、そんなにしゃべったらのどが枯れて・・・」
徳さんは、ニヤッとその小さな目を輝かせると、その男のほおからひたいにかけてを、なめるように見上げる。
(やっぱり汗をかいてやがる。この前もそうだったが、奴は店に十五分以上居たことがない。きっと、そろそろ水が切れてくる頃に違いない・・・)
徳さんは、うっすら脂汗を浮かべた、その男の生え際をさらにじっとにらんだ。
「すみませんがご主人、水を一杯もらえませんか」
(そら、きたっ!)
徳さんがにらんだように、本当にその男は水を要求してきた。
男は、店の暖房が熱くってたまらんと、言うような手振りをしながらも、少し青ざめた顔色でこう頼んできた。
徳さんはすかさず、あらかじめ用意しておいたコップの水を男に差し出した。
山ちゃんも、その様子を、まるで息をするのを忘れたかのようなおもむきで、じっと見詰める。
男は、コップの水をほんの少し口に運ぶと、店の主人の方にチラリと視線を落とし、そして一気にその水を飲み干した。
「あっ!・・・」
店の主人は、うめきにも似た声をもらした。
「何か?・・・」
「いえ、もう一杯いかがですか?」
「いいえ、もうけっこう。それよりご主人、それらの天秤を全部いただきましょう」
男はひたいににじんだ汗を薄茶色のハンケチでぬぐうと、主人が包んだ紙袋を、ジャケットのポケットに入れ、また音もなく店をあとにした。
「やっ、やっぱりキスか?・・・」
山ちゃんは、いま男が出て行った出口から少しも目を離さずにボソっとつぶやく。
「いや、違う」
徳さんは、その男が、いま水を飲んだコップを手に、一点を見詰めるような眼差しでしゃべり始めた。
「最初に店に来たのが夕方で、次に来た時が朝の十時を少し回ったころだったんだ。そして、今日は午後の三時半」
「ああ、俺も徳さんが、例のお客が今日は三時過ぎに来るって言うんで、何でわかるんだろうって、不思議に思っていたんだ」
「潮回りだよ。満潮の時刻なんだ。この前も今日も、必ずあの男が現れるのは・・・」
「そんなら徳さん、間違いないじゃないの。やっぱりあいつはキスの化身だよ」
「いいや違う、あいつは俺の出した水を、全部飲みやがった」
「それだって当たったじゃないの。徳さんは、あいつは、必ず水が欲しくなるはずだって・・・」
「ああ、俺も最初はそう思って、塩水を用意しようとしたのさ。でも塩水じゃあの男に悟られちまう。そこで、普通の水を飲ませたんだよ」
そう言うと、徳さんは、また握ったコップを蛍光灯に透かすように回し始めた。
「奴が水を残してくれれば間違いなかったんだが・・・」
やっと山ちゃんにも徳さんのその真意がわかった。海の魚の化身と言うのなら、海水は飲めても、真水を欲しがるわけがないのだ。
「でも徳さん、良かったじゃない。キスの化身じゃないなら、お得意さんがひとり増えたんだからさ」
「・・・」
「だけど、あのでかいバンソウこう、いったいどうしたんだろうねえ・・・」
しかし、その男は次の週も、そしてその次の週も、やはり店の主人が言うところの時間通りにやって来た。
そして、それぞれ道糸と鉛のおもりを数種類ずつ買っていった。もちろん、店の主人の講釈がサービスとしてついていたのは言うまでもない。
店の主人も、この一風変わったお客に対して、嫌悪感を持っていたわけではないので、次の週には、また持ち前の愛想良い徳さんへと戻っていた。
年も明け、いよいよ海ではキスの船釣りが解禁となった。
ところが、なんとも不思議なことに、あれ以来男はパタッと店を訪れなくなってしまったのだ。
「大手の釣具店に、鞍替えしちまったのさ」
と、山ちゃんは少し不機嫌そうであったが、徳さんには、もうあの男が、二度とこの店に来ないような気がした。
そんな街の小さな釣具店にも、やがて待ちに待った春が来た。さまざまな釣のシーズン到来と共に、山ちゃんはもちろん、徳さんも少しずつあの男のことが少しずつ記憶の箱から消えていった。
そして夏、例年より少し早く、日本列島に近づいた台風のうねりと共に、今年もキス釣りのシーズンが終わった。資源保護のためとかで、毎年七月いっぱいで船は引き上げてしまうというのだ。
「あー、今年は全然ダメだったな。キスの奴どこへ行っちまったんだろう?」
真っ黒に日焼けした山ちゃんが、愚痴をこぼしながら、竿の修理にやって来た。
「腕だよ、腕。半島の向こう側じゃ、型の良いキスが結構あがってたって話だよ」
そんな会話の中、店のドアーがスーと音もなく開いた。
なんと、あの男だ。
以前店に来た時よりも少しやつれただろうか。ほおにあった大きなバンソウこうはもちろん、目の上と鼻の脇にも引っかいたようなキズがあったが、相変わらず抜けるように色の白い、紛れもなくあの男であった。
「旦那あ、少しは釣れましたかい?」
山ちゃんが、懐かしさを込めて愛想良く訪ねると、男は初めて見せる満面の笑顔で答える。
「ええ、おかげさまで」
男は軽く頭を下げ、左手にぶら下げていた包みを、店の主人に手渡した。
包みからは油の香ばしい香がし、すぐにそれが天ぷらであるということがわかる。
店の主人は少しためらったが、別に断る理由も見つからず、結局その包みを、横で手際よくお皿を用意している山ちゃんにあずけた。
「すみませんねえ、こんなに気を使っていただいちゃって」
言うが早いか、山ちゃんはその包みを開ける。
「やっ、あんた、これは・・・」
徳さんは、思わず大きな声を上げた。
「ほう、こりゃあ立派なキスの天ぷらだねえ」
店の主人は、真っ白い歯を出して喜んでいる山ちゃんを尻目に、その男の顔を澄んだ目で真直ぐに見上げる。
皿の上には、大小合わせて五十匹近い数のキスの天ぷらが並んでいた。
店の主人は正直言ってほっとした。心のどこかでずっと引っかかっていたあの疑念に、いま終止符を打つことが出来たのだ。
隣では山ちゃんが、何やら指を三本立てながら、ニヤニヤとこちらを見ている。
(そうだ、そう言えば賭けをしていたんだ)
半年前、どうしても煮え切らない気持ちを少しでもいやすため、徳さんと山ちゃんとはこの男のことで賭けをしていたのだ。もちろん、キスの化身であるはずがないと言った山ちゃんが、勝ったことは言うまでもないが・・・
賭けに負けた店の主人は、むしろ嬉しそうに財布から三千円を取り出すと、小首を傾げながらそれを山ちゃんに手渡した。
男は、目の前でやり取りされていることに少し戸惑いながらも、事情をすぐに飲み込んだのか、また目を細めて笑う。
帰り際、店の主人は何度も何度もその男にお礼を言った。
男は別に振り返るわけでもなく、いつもと同じよう音もなくドアーを開いた。
その男はポツリとつぶやいた。
「なあに、お礼を言うのはこっちの方さ。なにせ、あれやこれやと詳しく教えてもらったおかげで、たくさんの仲間が生きのびることが出来たんだから」
そしてフッと笑う。
「まあ、私の言うことを聞かなかった反対分子を、ちょっとだけ粛清することにはなったがね・・・」
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