摩訶不思議短編集

鯊太郎

第1話 平塚クリーニング

 平塚駅を南側に降りると、駅前からは海岸まで真っ直ぐに一本の道が走っている。ロータリーには数台のタクシーとバスが。

 バスはここから海岸線を走り、再び駅まで戻るという、いわゆる循環行きというやつだ。

 私はさっそくそれに乗り込むと海まで出た。


 バス停から海まではほんの十数分。防砂用の竹垣を越えると、私の目の前には、一面の青い海が広がった。

 もうじゅうぶん春だというのに、風が少しだけ冷たく感じられる。

 海岸では釣り人が、長い竿さおを器用に振っては、海に向かって小さなおもりを飛ばしている姿が見える。


 帰り道、私は大きな松の枝が、道ばたから軒先へと覆いかぶさった小さな商店街を通ってみた。

 その一角に、「平塚クリーニング」と書かれた小さなクリーニング店がひっそりとたたずんでいる。

 別に何の変哲もない小さな店ではあるが、私には入り口の横に掛けられた、これまた小さな看板が気に止まったのである。


 そこには黒い墨で、『命の洗濯、うけたまわります』と書かれている。私は妙にそれが気になり、その店のドアーを開けてみた。


 「こんにちは?」

 私の声の問いかけに、店の奥から声がする。

 「はーい、いらっしぃませ。今ちょっと手が放せないので、少し待ってて・・・」


 しばらくすると、奥から中年の女性がやって来た。

 クリーム色のセーターに巻きスカート。化粧こそしてはいないが、目鼻立ちのすっきりした、いかにも清潔そうな女性である。


 「洗濯物は何かしら?」

 彼女の問いかけに、私はジーパンの後ろポケットから一枚のバンダナを取り出した。バンダナと言っても、普段はハンケチ代わりに使っているものだ。

 彼女は嫌な顔ひとつするわけでもなく、私のバンダナにタッグをつける。


 「他は、よろしいですか?」

 彼女は見ず知らずの私にも、満面の笑顔で答えてくれる。


 私は意を決して、先程から気に掛かっていたあの質問をしてみようと思った。と、その時、店のドアーが静かに開く。

 見るとそこには、五十代ぐらいの男の人が立っていた。

 相当疲れているのだろうか、無精髭が生えたほおはこけ、目の下にはクマができている。それに見たところ、手には洗濯物を持っている様子もない。


 男は女性にひとつ頭を下げた。


 女性はなおも満面の笑みをたたえては、その男を手招きする。

 見ると、カウンターの左奥には、もうひとつ別の扉がある。男はうながされるまま、その扉の中へと入って行った。

 女性は静かに扉を閉めると、何事もなかったかのようにまた私を見つめる。


 「今のは何ですか? 外の看板とも何か関係が?・・・」

 私は質問ともならない質問を矢継ぎ早に口にした。

 彼女は別に慌てることもなく、なお私をじっと見つめている。


 「今のあなたには、関係ないと思いますよ。それでも、もしこの後、人生に行き詰まったら、その時はもう一度ここを尋ねてみて下さいね」

 私はこれ以上質問することをためらった。彼女の大きな目が、私にそうさせたのかもしれない。

 私は店を出ると、駅までの道を歩き始めた。


 しばらく歩いたところで、私はふと気付いた。私があずけたバンダナの引き替え券をまだもらっていなかったことに。

 戻るならば早い方がよい。それにまだ、十分ぐらいしか経っていないはずだ。


 私は、今来た道を戻ることにした。

 遠くに先程のあの松の木が見えている。

 その先をよく見ると、あのクリーニング店の赤いひさしが見え、今そこからひとりの男が出てくるのが見える。


 私はとっさに、その男が先程店で出会った男のように思えた。

 私は走った。息を切らせて走った。


 しかし、その男は、私に背中を向けたまま路地へと消えて行く。

 私はもう一度クリーニング店へと戻ってみた。ところが、そこにはすでにCLOSEDの表示が・・・


 しかたなく、私はまた駅への道を引き返した。



 時は流れ数十年後、会社の事業に行き詰まった私は、あのクリーニング店をたずねてみることにした。もちろんこれまでにも会社の再建のため四方八方手を尽くしてはみたが、どうにもならなかった。

 一度は自殺も考えたが、どうやら私にはその勇気もなさそうだ。


 そんな時、ふと若かりし頃に立ち寄った、あの不思議なクリーニング店の事を思い出したのだ。

 どうせもう、わらをもすがる思いの私だ、多少のことでは驚かない。

 私は、大きな松の木が覆い被さったそのクリーニング店のドアーを静かに開けた。


 私の目の前には、若い青年がひとり。すでに先客があるようだ。青年は頭に巻いたバンダナをつかみ取ると、店の女性に黙って渡す。

 店員の女性は嫌な顔ひとつするわけでもなく、その青年のバンダナにタッグをつける。


 「他は、よろしいですか?」

 女性は青年に、また満面の笑顔を送っている。


 驚いたことに、その女性店員の笑顔は数十年前、私が初めてこの店で見た彼女そのものであった。

 青年は後から入ってきた私に気付いたのだろう。コクっと頭を下げると、カウンターの前を少し開けてくれる。


 私は彼女にひとつ頭を下げた。


 彼女はあの時と同じ満面の笑みをたたえ、そして私を手で招く。

 私はカウンターの左奥にある、もうひとつ扉へと向かった。そして、私は促されるまま、その扉の中へと入っていく。

 彼女は静かにその扉を閉めながら私にささやいた。


 「命の洗濯、承りました・・・」


 扉の向こうでは、先程の青年が何やら質問をしている声が聞こえる。

 「今のは何ですか? 外の看板とも関係が?・・・」

 女性は別に慌てることもなく、その青年の質問に答えているようだ。


 私は薄れ行く意識の中で、扉の向こうで青年に語りかける彼女の言葉を確かに聞いた・・・


 「今のあなたには、関係ないと思いますよ。それでも、もしこの後、人生に行き詰まったら、その時はもう一度ここを尋ねてみて下さいね・・・」

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