de ludus ~幼女の余暇の過ごし方
@unoji
第1話
まったく、
さらにいえば、兵隊どものそれをプライベートな発散と切って捨てることは出来ない。社会人にとってアフター5は自己のメンテナンスの一環であり、同時に同僚や上司との関係強化の場でもある。社内営業は軽視されがちではあるがサラリーマンにとって欠かさざるべきファクター、蔑ろにしていると後でしっぺ返しを受けることになる。「苦労していた私がなぜ出世できず、上司におべっか使っていただけのあいつがなぜ」という恨み言は前世で良く耳にしたものだが、そう思うならば身の振り方を正せ、と言いたい。与えられた業務のみを果たし周囲の人間とコミュニケーションを厭う人間と、働きはそこそこでも上意下達を意識し組織運営を意識している人間、どちらを管理職に引き上げたいかと問われれば、悩むまでもなく答えは自明であろうに。
「どうです、大隊長殿も御一緒に」
そんな思索に耽っていたからこそ、かけられた言葉に一瞬反応が遅れかかる。しかし、狙いにはすぐに気づく。上司が一緒ならば、その奢りとなる。さて、肝心の懐事情はどうだろう。労働量に対して適正かと言えば疑問が多々あるが、現状況では使うあても無く、禄には多少余裕がある。されど、無為に放出していては、忽ち緊急財政に陥るのは火を見るより明らかだ。ならば、ウィットに富んだジョークで撃退することが本作戦の嚆矢となろう。
「貴様の頭蓋骨には藁でも詰まっているのか、私は幼女なのだぞ」
片眉を上げ、「何を馬鹿なことを」という表情を作って見せる。拒絶するのではなく、提案そのものをジョークとして扱う。
されど、その本人は狐につままれたような表情。何かしくじったか。
「はい、いいえ、大隊長殿の年齢を完全に失念しておりました……つまらない事を言って、申し訳ありません」
恐縮する様子を見るに、失念していたのは事実のようだ。頭蓋骨に詰まっているのは、本当に藁だった模様。なるほど戦場に喜び勇んで馳せ参じるわけだ。とはいえ己を
そうなるとここで取りうる選択肢は二つ。彼の誘いをあくまで冗談として受け流すか、本気のものとしてそれに応えるか。前者を採れば、この場は恙なくやり過ごせるだろう。
疲労に心を苛まれ、一瞬そちらに気を惹かれかけた刹那。脳内で危険信号の警鐘が鳴り響く。何だ、何か今間違いを犯そうとしている。…「社内営業」。先ほど思索に耽っていた時に弄んでいた言葉がふと甦る。そうだ、彼は彼なりに、それに取り組んでいるのだ。彼の提案は「社内営業」の一環なのだ。日頃はこういう時、上司がいては気まずかろうと私は身を引いている。財布が痛むこともないという副次効果もある。しかし、帰ろうとしている上司をあえて飲みに誘う、それは意欲に溢れる社内営業の一手と評価すべきものだ。断ればどうなるか。彼は、上司に対する積極的な働きかけはご法度であると結論付けよう。かくして彼我の間に生じる壁は、今後の意思疎通の妨げとなろう。しかも最悪の場合、それは隊全体に波及しかねない。「あの上司には何も言わない方が得策だ」、そんな風評が出回るとしたら……。冗談ではない!某国陸軍の轍を踏む気は無い。ならばここは、部下の社内営業を重視し声掛けを躊躇わない立ち居振る舞い、それをこそ評価すべきものであろう。信賞必罰は本人の為だけでなく、組織全体を賦活するものである。ならば、答えは決まっているのだ。「ふむ、それは致し方あるまい。偶にはご同行仕へ奉るとしよう」財布への被害は残念だが、これは必要経費と受容しよう。ついでにいよいよ酒も飲めるとあれば、忌避すべき謂れはもはや無いではないか。
*ある隊員の告白
うかれていた。
しょうがないだろう?
誰だって、あの無慈悲なる最前線から帰ってきたら、ほっと一息つくものさ。
しかもそこに、あの畏るべき大隊長から休息が告げられる。訓練でなくて良かった、心底そう思ったものさ。油断したところでの過酷な訓練、既に何回経験したことか。
たちまち周囲を巻き込んで、どこに「出撃」するか議論が始まる。この最前線にもかかわらず兵営の周りは賑わいを見せている。さながら城下町だ。軍の采配か民草の根強さか知らんが、ありがたいことだ。いついかなる時どうなるのか分からんこの身としては、外せる時に羽目を外したいと願っても、
そんな浮かれが、口を滑らせた。
「どうです、大隊長殿も一緒に」
視界の端に止まった帰り支度をしている大隊長に、俺は声をかけた。他意はなかった。こういう時、大隊長はいつも席を外される。上官がいては気を緩められないと我々を気遣ってのことだろう。だがしかし。命をすり減らしたこんな時こそ、生きている実感を共に味わうのも大事なことだ。そんな思いから出た一言に、しかし冷や水が浴びせられる。
「貴様の頭蓋骨には藁でも詰まっているのか、
! そうだ、そうだった。過酷極まる最前線で、遺憾なく発揮される愛国精神と苛烈極まる命令にいつしかそれをすっかり忘れていた。我々の奉るターニャ・デグレチャフ中佐は、見目でいうならば幼女と称されておかしくない年頃なのだ。いや実際そうなのだが、今や我々の中にそんなことを思う者はだれ一人いない。けれど、たしかに、軍関係者の外ならば、そのように気まずい思いをすることも少なくないだろう。
「はい、いいえ、大隊長殿の年齢を完全に失念しておりました」
竦みそうになる気持ちを振り切り、背筋を伸ばし、教本に採用されんばかりの敬礼を披露しながら大隊長に視線を向けると、わざとらしく片眉を上げている。しまった、大隊長殿は冗談を口にされているのだ。正直、大隊長殿の冗談はわかりにくい。戦闘前には軽口を叩いて戦意を向上させるものと聞いてはいたが、大隊長殿は有言実行とばかりにいつもそれをご自身で成し遂げてしまう。すぐに悟った。あれは軽口ではなく、本気なのだ、と。しかも、一度や二度ではない。常にそうなのだ。
「つまらない事を言って、申し訳ありません」
機転も聞かない、それこそつまらない言葉。しかし幸いにして、それは正しい答え方だったのだろう。大隊長は、年相応ならぬ、しかし実に大隊長らしい表情でにやり、と笑った。「ふむ、それは致し方あるまい。偶にはご同行仕へ奉るとしよう」周囲で湧き上がる歓声と裏腹に、俺は窮地を乗り越えたという思いで一杯だった。まったく、最前線より怖ろしい大隊長様様だ。
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