第2話 160.4300MHz
彼女は白い袋を下げていたせいで、たぶん、買い物帰りだと思った。
青い花柄のワンピースの上に白いシャツを羽織っていた。サンダルをつっかけた足の指にはマニュキアはない。顔にも化粧気はなかった。近所に買い物にきた主婦といういで立ちで、恐らく、ここから200メートルほど離れた場所にあるスーパーから帰ってきたのだろうかと思ったが、方向が逆だ。両肩に垂らした黒髪の間に見える顔は生白くて、アスファルトと外壁の間には目立ちすぎている。住宅街にも、この街にも不釣り合いなせいで、目立たぬよう、あえて化粧を落としているように見えた。
僕は彼女に見とれていた。それは確かだ。
けれど、彼女も確かに僕を見ていた。
車から降り、ドアを閉めて振り返る。立ち止まっていた彼女と目があった。ばたきもせずにこちらを見ている。何が気になるのかわからないが、美女に見られるのは悪い気はしないはずだった。
けれど首筋に痛みが走り、僕はすぐに目を反らし、車からタオルと軍手を取って、息を吐き、振り返る。彼女はまだ僕を見ていた。瞬きすらなく、少しも目線を反らそうという素振りもない。見つめているというより、覗かれているような気がする。僕は直ぐにその場を離れようと歩き出したが、背中越しにも彼女が見ているのがわかる。それとも本当に近づいているのか?後頭部に冷たい指先が触れようと伸びてきている。少し小走りに倉庫にもどり、タオルで顔をふいて、ようやく振り返るともう彼女はいなかった。
けれど、作業中も彼女の目が脳裏にちらつく。
売れるかと思い、年代物の錆びたミシンを引き出し掴んだ時も、彼女の視線が後ろにあるような気がして何度が玄関の向こうを眺めた。
彼女はなぜ僕をそんなに見ていたのだろうか?僕がそれほど目立つ容姿に見えるとも思えない。顔もいたって普通だし、身長は174㎝、身なりだって薄汚れた作業着にタオルをクビに撒いている。車だってボロボロ。そんな自分に惹かれる要素など何もないはずだった。
とすれば───と、ミシンを運びながら車に向かいつつ考える。もしかしたら昔の知り合いだったろうか?それなら一体だれかなのか考えを巡らせる。前の会社の同僚にはまず居ない、あんな美人など居る会社じゃなかった。それなら大学の頃はと思い返すが、やはりあの顔はいない。サークルでも見た記憶はない。それならアルバイト先だろうか?昔働いていた喫茶店の客か?
そんな風に考えるうちに、トラックの荷台についた。しかし、ハッチバックはしまったまま。間抜けな自分に舌打ちをしつつ、片腕でミシンを支えながら荷台を開けようと手を伸ばす。途端に自分の一目ぼれである可能性に行き着いてしまい、手に持ったミシンを足に落してしまった。
激痛と共にうずくまる。折れたかと思い指先を触るも、やはり激痛が走る。
本当に折れてしまたったかもしれなかったが、嘆いているわけにもいかず、すぐにミシンを拾った。淡い恋の思いは痛みに消え、次に金が脳裏をよぎる。この手の仕事での旨味は手に入れた処分品をリサイクルショップに売ることだ。しかし、確かめてみるとボビンを止める金具のほうが見事に折れてしまっていた。
最低だった。
何もかもうまくなんていかないのはわかってるが、それにしても、上手くいかなすぎる。大学の頃も、会社が潰れてからも、この仕事をはじめてから、先輩が消えてからも、なに一つ上手く行ったことなんてない。それにも慣れはじめていたと思っていたし、人生なんてそんなものだったはずが、今日という今日は自分を誤魔化しきれなかった。
足は痛みを残したままだったが、幸い折れてはいなかったようだ。遅れたぶんだけ残業を追加し、作業報告をすると、遠藤家の老婆は残業時間は無視した。代わりに、いつもの無愛想さでサインをしつつ、明日はきちんと来なければ返金してもらうと言い出す。僕はなんとか平謝りで通し、車に乗った頃にはすでに日は落ちきっていた。
痛む足でポンコツ車を走らせ自宅についた頃にはすでに夜の8時を回っていた。軋む階段を上り、目にしたポストは探るまでもなく封筒が剥き出しで入っている。どうせ請求書だろう。何が送り付けられたのか見たくないので、そのまま封筒を手に取り部屋に入った。
帰宅し、事務所の明かりをつけるとゴチャゴチャとした事務所の風景が僕を出迎えた。ただいまは無い。なにせ、彼らは喋らない。
物はただの物だと、手にしていたタオルと携帯、タバコ、さっきの白封筒を机の上に投げ、作業着を脱いだ。
ここにある家具は今車の荷台にあるような仕事の残り物ばかりだ。知り合いの店はなんでも買い取ってくれるが、そうじゃないものは金がかかる。そこで、この事務所の肥やしになる。このガラス机も、破れたソファーも、窓際の事務机も全てそうだ。
今日も車につんだ荷物は明日の朝一番にリサイクルショップに運ぶが、ロクなものはない。どうせ良い稼ぎにはならないが、あのミシンがあれば別だったと後悔するような気分にはなれず、ソファーにもたれ、蛍光灯を見上げながらタバコに火をつける。唯一の安息。肉体労働で疲れ切った頭に浮かぶ切れ切れのワード。今夜の食べ物。冷蔵庫の中のビール。足の痛み。ソーセージ。今月の家賃。蛍光灯の点滅。ただよう埃。孤立した部屋。ガラクタ。リサイクル。処分できない自分。
その時、急に電話がなった。
慌てて飛び起きたせいで、加えていたタバコを落としてしまう。まずいと思い、タバコを急いで灰皿に戻して携帯を見るが、画面はロックのまま。これじゃない。事務机の上の電話を見ると、滅諦に見たい赤いランプがともり、久しぶりの悲鳴を上げていた。
この電話が鳴ることは滅諦になかった。
店のホームページのフリーダイヤルは全て携帯にかかるようになっていたし、そうじゃない電話は全て携帯にくる。なら誰からだと訝し気に電話を掴みかけ、手を止める。ナンバーディスプレイには『非表示』の文字。もしかしたらまた請求だろうか?消費者金融か、それとも年金か、もしかしたら無視し続けている両親からの電話かもしれない。
僕がうだうだと迷っている間にも電話は鳴りやむ気配はなかった。気のせいだろうが、さっきよりも音が大きくなっている気がする。どちらにせよ、この番号を知ってかけているなら、無視するとひどい目に遭いそうな気がして、恐る恐る受話器を取った。
「もしもし?」
暗闇に耳を傾けているようだった。応答はない。もう一度訪ねる「もしもし?どちら様ですか?」すると、受話器の向こうからカサカサと、何かをこするような音が聞こえた。
「あの、どちら様でしょうか?悪戯だったら切りますよ?」
無言電話かもしれない。すこし語気を強めると、大きく息を吐く音がする。何かを言い出そうとしている。
「どちら様ですか?その、何かご用件でも?」
不可思議な耳元の闇への問いかけ。向こうからようやく喋りだしたのは、それから数秒が経ったあとだった。
『あの・・・その、もしかして、此方はなんでも屋さんですか?』
声の主は驚くほどに線の細い声で尋ねた。女性だ。てっきり、質の悪い悪戯か何かだと思っていた僕は思わず声につまったが、すぐに自分が屋号を名乗り忘れていたことを思い出す。
「ええ、そうです。こちら゛よろず西宮”ですが・・・その、ご依頼のお電話ですか?」
相手はまた黙ってしまった。よほど警戒しているらしい。
『その、あの…』と、舌足らず子供のように途切れがちにしゃべりはじめる。「お仕事の電話だったんですけど、こちらの番号であってましたか?』
「ええ、こちらは会社の番号ですが、フリーダイヤルのほうがよろしければかけ直しますが?」
『いえ、そのかまいません、電話をしたんですが、なぜか繋がらなくて』
繋がらなかった?はっとして、慌ててテーブルの上に視線を走らせる。携帯電話会社からの通知。そういえば、午後から一度も電話を使っていなかった。
「あの、申し訳ありません、少し仕事の依頼が立て込んでおりまして」
携帯料金を支払っていなかったとは言えない。おそらく、通帳の残高がとっくにゼロだったのだろう。しかし「そうですか、お忙しい中申し訳ありません」と、無理のある嘘に騙されたのか受話器の向こうで彼女が頭を下げる気配がする。カサカサと、またあの音が聞こえた。
「それでご依頼というのは?」
尋ねると、彼女はまた躊躇いがちに口を閉ざしかけたが、フレーズにスタッカートでも付いているかのように、とぎれとぎれに語りだした。
「ストーカーに、狙われてるんです」
鮮烈だった。
まるで受話器から飛び出た細い針が、鼓膜の間を一気に差し込んできた気がして、おもわず受話器から耳を離しそうになる。
彼女はその後も奇妙な一語を発するごとに考え込ながら、また次の単語をつないでいく。彼女は時折長い沈黙のあと、大きく息を吐き、部屋の中を動き回るような気配を漂わせた。その度に、先ほどの何かがこすれるような音が僕の耳を逆撫でる。何の音かはわからない。布ではない。紙。それも、とても渇いた何か。
「それで、お仕事を受けてもらいたいんですけれど、お願いできませんか?」
語り終え、彼女は尋ねた。
躊躇ったが、残高のことがとにかく頭をよぎった。それに、この仕事は何時もの雑用とはわけが違う。自分にできるかどうか迷ったが、知り合いのあの男に頼ればなんとかなると思い、とにかく返事をした。
「お受けさせて頂きますが、まずは面談とご契約をさせてもらって良いですか?そのほうが、そちら様もご安心してもらえると思うのですが」
『わかりました、それじゃぁ、そちらの事務所にお伺いすればよろしいですか?』
そういわれ、つい事務所の中を見渡し、穴の開いたソファーが目に付く。何時もの依頼者はこんなソファアなど気にはしないだろうが、この依頼者はこの事務所に呼ぶわけにはいかなかった。
「どちらにお住まいですか?」
「その、原北町です」
原北といえば、今日の仕事場の近くだ。ならばと、僕は相手の気が変わらないうちにまくしたてる
。
「それなら近くの駅にカラオケ屋さんがありましたよね、確か「ブラーノ」っていう店です」
「はい、確かにありますけど」
「そこで面談をしましょう。場所も遠いですし、ここは近くに駅もないですから。こちらからお伺いさせてもらえれば、そこで面談をさせてもらいます」
『カラオケ屋さんで、ですか?』
「ええ、そのほうが一目につきません、個室なら周りに話も聞かれません。このご依頼の相談なら、そちらのほうが良いでしょう?うちに出入りしている様子をみられるのもなんですから」
咄嗟にもっともらしい口上が出てきたのが嘘のようだ。僕にしては上出来すぎる。彼女は納得しきらなかったようだが『ええ、そういうなら・・・』受話器の向こうでカサリと音。頷いたのかもしれない。
「それでは明日の夕方にでもお会い出来れば良いんですが、仕事の都合で6時頃になるんですが」
『かまいません、それでお願いします』
彼女の返答は早かった。内容が内容だけに、すぐにでも頼みたいのかもしれない。しかし、平日の夕方六時の面談を即決するということは、会社員ではなさそうだ。
「それでは明日の六時にプラーナで。もし契約ということになれば必要ですので、印鑑をご持参ください」
「わかりました」と彼女が答え、それで電話が終った。
受話器を起き、僕は落ち着かず、部屋の中を歩きはじめた。
興奮していた。こんな依頼は初めてだったのもある。少し変わっているが、綺麗な声の主だったこもしれない。それも、そんな人物のために初めて為になる仕事が出来る気がしていたかもしれない。とにかく、僕はいてもたっても居られず、部屋をでて通路に出ると、再びタバコに火をつける。
事務所の外は人気の無い田園地帯になっており、この時期はいつもカエルの声が聞こえる。家の明かりはまばらで、遠く離れた場所にある成鳴の駅前の輝きが人の群れを感じさせた。風は少し冷たかったが、それが今は心地よかった。足の痛みはなぜか消えていたし、脳裏にはもう今日の嫌な出来事はない。この依頼さえこなせば、請求書とも少しは縁も切れるだろう。明日の仕事はとにかく早めに切り上げないとならない。口うるさい遠藤のすぼんだ口元を思い出したが、カエルの鳴き声しか聞こえない、ありきたいりで静かな成鳴の景色を見ていると、それすらも何とでもなる気がした。
視界の隅で何かが動く気がした。
駐車場だ。このマンションの駐車場には明かりがなく、一階の廊下を照らす電灯しかない。しかし、確かに自分の車の裏がわに何かが蠢いていた。車泥棒かと思い、目を凝らすが、もはや動きはない。心配になって階段をおりて駐車場にまわるが、やはり誰もいなかった。
ただ、車の裏になぜか一枚のマスクが落ちているのを見つけた。僕のものではない。確かに埃の酷い部屋の片づけなどでマスクをつけるときもあるが、最近はそんな依頼もない。気味がわるいので、触らずにその場を立ち去った。
とにかく今はどうでも良い。マスクなんて関係はない。明日、僕ははじめて大仕事をするのだと、その夜はカップラーメンとビールを急いで食べて横になったけれど、なかなか寝付けず、ようやく眠れたのは深夜の12時を回った頃だった。
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