夏のタイムシフト
記憶とはつくづく奇妙で不思議なものだと思う。僕は昔、記憶が人生の全てなんじゃないかという考えに取りつかれたことがある。後で調べてみると、百年くらい昔のフランスの作家も同じことを言っていた。その考えは僕を一時的に激しく不安な気持ちにさせたが、やがてそんなことは忘れてしまい、その後で思い出しても何てことはないように思える。
そんなことはどうでもいいが、僕の心に今でも重く残り続けているショックなことは長い間、共にした彼女を失ったことだった。それは今でも心の底に釘を打たれたような感覚が、朝目覚めて夜布団の中で眠りにつくまで続く。それはまるで激しい恋のようだった。そんな表現は適切ではないような気もするが、他に僕の感情を揺さぶったことが思い浮かばない。
僕は今までに何度か恋に落ちて失恋をしたこともあったが、それは時間と共に癒されていく。恋人を失うということは僕には初めてのことで、僕はまだそこから立ち直れずにいた。些細なことで彼女のことを思い出し、彼女がこの世界に存在しないと実感することで激しい不安と悲しみに陥るのだった。
僕は彼女が死んだ日の夜のことを覚えている。同棲していたマンションの中で僕は必死にこらえていた涙を流した。普段から泣くことは少なかったし、人前では絶対に泣かなかった。僕は冷蔵庫からウイスキーを出して、ベランダに出た。冬の冷たい風が吹き付け僕の体を震えさせた。
空には雲一つなく、銀色の星が散りばめられていた。ウイスキーを飲みながら僕は彼女のいない世界を眺め続けた。酒は僕の意識をより鮮明にするだけだった。いくら酒を飲んだところで悲しみから逃れることはできなかった。
ウイスキーの瓶が空になったころには僕は立っているのもおぼつかなくなったが、徐々に酔いは覚めていった。真冬の寒さはアルコールを飲んだせいで普段以上に僕の体を冷やしていったが、僕にはそれがどこか被虐的で気持ちがよかった。涙の中に奇妙な快感すら感じた。
夜が明けるとき、街は青い光に包まれた。それはまるで昔見た映画のワンシーンのようだった。人も車の姿もなかった。息を吐くと白くなり、それはゆっくりと辺りに広がり消えていく。僕はその場にしゃがみこみ、太陽が昇るのを待った。徐々に明るさが増していき、僕の生活がまた始まりを告げる。
会社に勤めていた僕はその日も仕事があった。ウイスキーの空っぽの瓶をベランダに置いたまま、僕は立ちあがった。太陽が遠くに輝いているのが見え、幾台かの車が遠くの道路を横切って行った。街には徐々に音が増していく。そしてその中に彼女はもういない。彼女がいるのは僕の記憶の中だけだ。
それはあまりにもちっぽけで哀しいことに思えた。なぜなら彼女の生きた証というものが、本当に何もかもなくなってしまったからだ。人ひとりの人生というものがこんなにもあっけのないものだと僕はその時思い知った。
僕はその時までいろいろと勉強をしてきたせいもあって、生や死に関しては冷めた見方をしていた。小さい頃、自分が死んだらどうなるのだろうと思い、怖くなった思い出がある。生まれ変わるのか、それとも死んだらそれで終わりか。僕は小さい頃、永遠にこの宇宙に存在し続ける怖さに比べれば死ぬのは怖くないと思った。そしてそんなことを考えることもいつの間にかなくなってしまった。
日々の生活で忙しくてそんなことはまるで自分と無関係のことのように思えたのだった。いろいろと本を読んできた結果、僕は人が死んだらそれで終わりだと知った。もちろん来世もないだろうし天国もないだろう。そして僕は社会人になってから彼女という存在を失った。彼女の病はこれだけ医学が発達した現代でも治すことができなかった。
日々衰弱していく彼女の手を取りながら、「いつかまた二人で旅行に行こうね」と約束した。それから数日して彼女はこの世から消えた。肉体は火に焼かれ、煙となり、わずかな骨と灰だけになった。僕は彼女の遺骨を見てもそれが彼女だとは到底思えなかった。記憶の中に刻まれている笑顔も愛おしい仕草もそんなものはどこにもなかったのだ。
僕はその時彼女の生まれ故郷にいた。彼女と付き合っていた頃、一度訪れたことがあった。彼女の実家に僕は数日泊まった。両親は気さくな人達で僕のことをとても歓迎してくれた。彼女も僕をまるでお客様のようにもてなしてくれて、それがいまでも鮮やかに印象に残っている。
二人で夏の畦道を歩き、どこまでも広がる田んぼや緑の木々に覆われた山を見た。空には白い入道雲が浮かんでいて、本当に落ち着くところだった。「いつかもっと大人になったらこの辺りに住みたいな」と僕は言い、彼女も「そうなったらいいわね」と言ってくれた。
僕達は川沿いを歩きながら将来の話をした。川の周りは草に覆われていて、青い水が流れていた。家々がその奥には広がり、どこかその光景は映画のワンシーンのように懐かしさを感じさせるものだった。将来の話は僕がどんな仕事をやりたいかとか、二人でどんな場所に住みたいかとか他愛もないものだった。僕は打ち解けた相手にすぐ将来の話をしてしまう。彼女はそんな風に話をする僕の横を並んで歩きながら時々何かを言って、僕が冗談を言うと笑った。
サンダルを履いて膝丈のジーンズと黄色のワイシャツを着た彼女は子供っぽく振る舞っているのにどこか大人っぽくてそれが僕の胸を揺さぶった。僕はその時、彼女ときっとこの先もずっと一緒にいるのだろうなと思っていた。そうなることが当然のように思えたし、それは現実的なことだった。
途中に彼女が通っていたという高校のすぐわきを通った。彼女はその時昔の恋人の話をした。高校を卒業するまで付き合っていたけど、僕と知り合う前に疎遠になって別れてしまったらしい。僕は切ない気持ちと少し嫉妬したけれど、彼女にはそんなこと悟られまいとしていた。そうやってどこか大人びた雰囲気を出すのが彼女は得意だった。
そして彼女よりも背が高くて体つきはしっかりしているけれど、僕はそんな話を彼女がするたびに少し自分が子供っぽく思えて悔しくなるのだった。でもそれで彼女に対して冷たくしたら彼女はきっと僕のことをいつもみたいに笑うだろうなと思って、僕はそんな気持ちを隠しながら昔の恋人の話をした。僕にも高校の頃、恋人がいたと嘘をついたのだ。
すると彼女はちょっと今までとは話し方のトーンが変わったように思った。それで僕の気持ちはまるでシーソーのように揺れ動いていった。僕はそんなことには気付きもしないようなふりをして彼女が通っていた高校の校舎を眺めていた。そこは細い道で片側は木の生えた崖になっていて、その反対側には白い砂のグラウンドと大きな四角の建物が見えた。
僕の彼女に対する思いはまぎれもなく恋で彼女の僕に対する思いも間違いなく恋だった。だから複雑に絡み合う二人の心はこうしていてもまだどこかぎこちなくて、けれどもそれが僕の心を高ぶらせたりした。僕達はこうして付き合うようになるまでずいぶんの時間を費やした。だけれどその分僕達にはお互いに心の内を許し合っているような親しさがあった。
彼女の実家から帰る時に、彼女は僕に紙袋に入った箱を手渡した。僕は東京に用があったので、彼女よりも先に帰ることになったのだ。彼女は「家についたら開けてみて」と笑いながら言った。僕はその茶色の紙袋を受け取ったが、紙袋には名前が何も書いてないし、やけに軽くて細長い箱が白い包装紙にくるまれていた。
いったいなんだろうと僕は思ったが、彼女なりのサプライズだと思ったので、僕はそれを家につくまで開けずに持っていた。新幹線の中でもその箱の中が気になって仕方なかったが、僕は夕暮れの外の景色を眺めながらイヤホンで音楽を聴いていた。徐々に田園風景からビルなどが建つ都会へと景色は変わっていった。
僕は家につくと、箱の包装を丁寧に剥がし、中身を開けた。中には軽いプラスチックでできた眼鏡のフレームが入っていた。灰色のシックなフレームでレンズは入っていなかったが、かけてみると自分に似合っていた。でもなんだか彼女からもらった眼鏡をつけて彼女に会うのが恥ずかしくて、僕はそれを箱に閉まったまま置いておいた。
彼女が死んだいま残っているものはそれくらいだった。僕はメガネのフレームを箱から取り出し、しばらくの間眺めていた。レンズを入れれば使えるけれど、いつかは壊れてしまう。そうなったら本当に彼女が残してくれたものは何もなくなってしまう。だから僕はその眼鏡のフレームをまだ引き出しの中に箱に入れて大事にしまっている。
僕が家を引き払うとき引き出しを開けたら出てきたのは彼女がくれた眼鏡だった。かけてみるとなぜかレンズがついていて度数が入っている。どうしてだろうと僕は記憶を呼び起こす。しかし眼鏡にレンズを入れた記憶は思い浮かばない。僕が後ろを振り向くとそこには生前の彼女がいた。
「どうして?」と僕は涙を浮かべながら言った。
「夏のタイムシフト」彼女はそう言って笑った。
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