長編集

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白昼夢症候群

 夢と現実を行き来するいわゆる白昼夢症候群という自称を抱えた彼らは長すぎる旅の果てに自分の姿を見つける。




 7月27日。フランス製のベッドに一人うずくまる。ニーチェの本を僕は繰り返し読んだ。なんとなく僕は彼と共感したような気がする。

 レスピーギの「ローマの松」を繰り返し、オーディオで再生していた。音も響きもよかった。ベッドに打ちひしがれた。僕は長い夜の旅をしていた時のことを思い出す。

 5年の歳月と半年の旅の果てに見たのは今の暮らしだった。懐かしいメロディーラインが流れる。あの時もこうして音楽を聴いていた。一人英雄思想に浸るというよりはそれが自分を守ってきた。辛い日々だった。周りの人間が怖かった。

 銀色の糸や銀河などどこにも見当たらない。相変わらず空には星が瞬く。友達と二人で夜に散歩をしていても、感じるのは僕が避けてきた人間性だ。あまりにも辛い日々だったが、世界も僕自身も徐々に進歩していた。

 失うものは僕を恐怖させる。ずいぶん前に大学院に通い一人暮らしをしていた。一人部屋の中に佇む喜びを感じる。やけに一人が好きだ。好きな子といると幸せだ。家族といるよりは一人の方がいい。


 7月28日。僕は一人で京都に暮らしていた。街並みがきれいだ。月に何回か好きな子とデートをする。長い夜を過ごす。シーツやら部屋の掃除やら、空気の入れ替えやら、いろいろな準備をする。

 今日は綾と二人で過ごす。重圧から解放されたようだ。ネガティブな僕は相変わらず暗い目をしているが、目が死んでいるといわれる。

「どうしてこの街にやってきたの?」と僕は聞く。

「高校時代私には友達がいなかった。家族と話してもなんの足しにもならず、私は勉強しようと机に向かうたび孤独で手が震えたの」

「それで? いったいなんの関係が?」

「つまり孤独で寂しいの」と彼女は言った。

 僕は夕暮れの鴨川沿いを歩いていた。隣に彼女がいた。

「寂しいよ。それはまるで孤島にぽつんと置いてきぼりにされたように」

「僕の不安とは?」

「あなたの不安?」

「そう。つまり誰にもなれない僕個人としての、僕が僕だけでしかないという。誰の色にも価値観にも染まれない、白の中の黒い点のような」

「それは……」

 彼女は笑う。大通りには人の集まりが、群衆がずっとこっちを見ていた。京都の三条。美しい街並みがそれは平安の首都の時のような、千年前を彷彿とさせるような匂いや光景。

「大好きだよ」僕はそう言った。

「私も」

 二人で手をつないでいた。川の流れる音が残響のように響く。風が吹き渡る。地上に人類は何年いた。そしていつかは死んでいく。一人一人に人生の道があるというよりは、いろいろな世界がある。

「永遠を信じていた。昔、恐怖した。だが今は百年の孤独みたいに人生は限られていると知る」

「ねぇ、もし死ぬとき幸せだったら? すべては想像だったら?」

「それも人生だと僕は思う」

「他人のせいにして生きてもいいの?」

「そりゃあそうだ。自分の中のコンプレックスや自信のなさを他人に押し付けるよりはずっとましだ」

 鴨川から街へ街から川へ僕らは繰り返して歩む。夜の川辺に二人で並んで歩く。ふいに人間の全ての行動は記憶を元にしていると頭の中で思う。隣を歩く彼女が僕の今の考えを瞬間に読み取った気がする。七月の下旬だけれど寒い夜だ。街はほんの少し青い。いったいなぜ綾に惹かれるのか、運命かそれとも自分が持っていない表現型を持っているせいかなどいろいろなことを考える。綾は相変わらず空を物珍しそうに見ていた。

「自己否定の連続だった。子供の時から」と僕はつぶやく。

 彼女は僕の隣をそっと寄り添う。ふいに胸が鼓動を打つ。隣を見ると優しそうな笑みを浮かべた綾がいた。

「どうしたの?」と僕は聞く。

「いや、初めてあなたが自分の存在に気付いてくれて」

「それはつまり?」

「あなたが偉大な人間だということ」

「え? 僕が?」

「ううん。じゃあなんでもない」

 ふと空を眺めるともう夜。自分の偉大さとあまりに周りが釣り合わず、しかし直感的に感じ取る。


 8月7日。僕は綾の隣で夢の中に埋没していく。夢と言っても白昼夢みたいなもので、僕に与えられた特殊能力だった。無意識に今の環境への行動を任せ、僕は意識の中で夢を見る。

 おおよそ驚異的な威力を持ったSNSを自分は運用していた。世界中の誰もがそれを見ていた。国境を軽く超え、歴史の積み重ねてきたすべてが崩壊し、人々は苦悩から解放された。

「僕が偉大だと君は知っていた?」

「そりゃあ」と僕の隣にいる女が言う。綾とは別の三十歳くらいの女だった。

「そうだ。俺は過去の誰にも比類することのない時代を築き上げた。君らを生まれて初めて肯定してやったのは俺だ」

「確かに。それでいて謙虚だった」

「謙虚さか。今の時代には合わない言葉だ。あまりに壮絶な運命を担った。思考と妄想と灯火まで君にプレゼントしてやっている」

「あなたのすごさは数字ではない」と彼女はやけに真剣に僕に言う。

「そりゃあそうだろ」

 僕は川原を歩き、苦痛だった日々のことを思い出す。

「どうして君はまだ東京にいるんだ?」

「あなたが私を選ぶまで」と彼女は言う。


 8月11日。レスピーギのローマの松をもう一度聴きながら、僕はソファに座る。黒い皮の柔らかいソファだった。

 いろいろな仕事が欲しい。もう俺は有名人だった。誰もが俺のことを愛していた。思念伝搬は俺の長所だ。手にするもの全てはガラクタのような気さえする。結局他人の無視に嫌気がさしただけだった。あの頃を僕は思い出す。こうしてソファに座っていてもまだあの頃を思い出す。

 長い月日の中だった。環境に適応するのか人に適応するのか自分自身に適応するのか、僕は周りの人間の夢を見るのか、周りの人間と共振するのか、僕が周りの人間を共鳴させるのか。

 ベッドの中にうずくまる。こうやって一人でいるときが一番幸せを感じる。女の子も名誉も一見華々しい。いつかはここへたどり着く。そう甘いものでもなかった。

 一人で夢想するのも興奮するのも俺の姿を見たいからだろう。長い闘争の日々を抜けたのは二月。おおよそ一年弱に渡る闘争だった。世界を一瞬でひっくり返して、稲妻のように伝播していった。

 これからどうやって生きればいいのか。僕は布団の中でもの思いにふける。自分の中のすべてをさらして生きることしかできない。ルールに縛られた人生だった。

 別に楽に生きてもいい。俺の行った全ての愛は、未来への投資だったと自己謙遜することもできる。いつまでも人に甘えられない。


 8月14日。長い冬の後で僕は祭りの支度をする。ショルダーバックを背負いできる限り服を選んで夏の出かけやすい服装にする。いつまでも暗い自分を背負い込んでも仕方がない。京都での祭りの時期。八月の午後。何にいらつくかって自分にできないことかもしれない。俺ももう責任も人間関係も楽観的に生きていたい。祭りが始まり、終わるまでの時間を過ごす。僕の周りには数人の友達がいた。システムを作ったり漁をしていたり、学校の教師をしていたりめいめいが好き勝手な仕事をしていた。僕は作家になった。

 昔から作家として生きたかった。昔の女友達も来ていた。彼女は会社に就職していた。将来への楽観的さは自分を肯定し、将来への悲観さは自分を否定する。責任と重圧の長い冬の中でいつの間にか自分が追い詰められた。ようやく日の光を浴びるまでに費やした歳月は長い。皆他人に失礼を犯さないように生きてきた。いつの日かそれはプリズンルールとなった。責任は背負えないことが判明した。俺は特に誰も傷つけていない。ただ人に愛を優しく注射してあげた。注射というよりはドリンクみたいな強いアルコールみたいな多幸感的なやつだった。街へでれば俺がどれほど巨大な存在かがわかる。電車に乗って繁華街へ行けばわかる。

 僕は祭りの中、また夢の中に舞い戻る。

 僕はプライドの硬いガラスの棒をぱきっと折った。人を見下していたのも無知と自分を守る手段と相手の思い込みだった。

「知らなかった?」

 ふいに夢の中で女に言われる。

「プライドはもろいと?」僕は言う。

「知っていた?」

「何が?」僕は言う。

「プライドが折れた時が一番ありがとうと言いやすい」

「なんか権威というか有名というか、言い訳じみて聞こえるかもしれないが、僕は素直に生きた。いろいろなハンディキャップを背負っていた。だけど逃げはない」

「そうなんだ」

 彼女は笑う。

「自分の罪悪感は?」

「正直本当のことを知るまでわからない」

「君はたくさんの人を困らせたんだ」

「どういうこと?」

「ある人は君の病気だと思ってしまった」

「は?」

 目の前の彼女が消えてゆく。目が覚めると朝の五時だった。鳥の鳴く声が聴こえた。僕は祭りに行った帰り家に帰る気も起らず公園のベンチで寝ていた。

 結局のところ社会を新しくつくらないといけない。当時僕はそう思いながら、日々を過ごしていた。攻撃されてもプライバシーを侵害されても僕はただ生きた。綾になら許せることを最後には地球の誰にでも許せるようになるということを知る。

 朝焼けの街を口の中を気にしながら、歩いていた。家に帰るまでにわずかな人とすれ違った。

 そしてまた僕は夢想の中に戻ってしまう。視界から世界が消えてゆく。何度も夢と現実の間を行き来する。

 ふいに意識が戻るとき、人間は夢中から抜けて意識の中にいる。覚醒してから一直線上に時間が進むなら夢中と意識を点々と繰り返している。夢中と意識が交わることはないだろう。気が付けば時が経つ。記憶を回想すれば人間は夢中の中に浸る。時計がなければもう少し自由に生きることができるかもしれない。

 外側ばかり見るのも中心が見えないのも厳密にはそれだけしかないからだ。僕は無条件に世界の中の一部だけを常に同じところを抽出する。

 過去の記憶の中に人に気を使ったという記憶と女しか求めていなかったということとあとは人間関係をあまりにも知らなかったというのがある。それはもちろん君らも含めて。おおよそ僕以上に深い人間関係を築けた人はいないんじゃないか。まるで雑踏の中に飲み込まれたみたいに僕は一人だった。あれほどいた人間のほとんどを僕は毛嫌いし同時に欲していた。結局僕は数人の中に閉じ込められていた。

 病気になってからようやく人間関係を手に入れる。リア充に憧れる反面、ひたすら女の子にしゃべり続けていた。別に人間不信ではないと思いつつも家族も言えない秘密もありあまるほどの自分の特質の中に埋没した。少しずつ受け入れていこう。そう。過去に行った全てはちゃんとしていたはずだ。僕は懸命に生きた。あまりに心の中にルールを作りすぎた。

 人間が限界まで追い詰められたとき泣いて怯えるのではなく、本気で怒る。泣いて怯えるのは安全性がある程度確保されたときだ。敵がいない場合においてパニック発作を起こす。俺の過去を正当化しようとする。鬱に陥る危険がかなり大きい状態だった。ふざけているのも自己防衛の手段に過ぎない。怒れない時もある。ただ体から力が抜ける。

 歩きながら夢を見ていた。僕はこうやって空想にふけるというよりは、ただ単に夢の中に落ちていく。

「真面目不真面目の境界線を抜けて、恥ずかしいという壁。もう自分が誰なのかというより早く泣けばよかった。早くプライドを折ればよかった。ずいぶん時間がかかった。これより上はない。ここで終わる」

 僕はつぶやく。

「馬鹿だった。たぶん。でもずば抜けた才能を持っていた。あとはまぁ親に冷たくして彼女を探すところだろう。辛い日々だった」

 繰り返しつぶやき目には涙が浮かぶ

「よく頑張った。それだけだ。君の声を聴いて思ったんだ。素晴らしい作品を作る人は素晴らしい心を持つと」

「優しさに慣れていないんだろう」

 声が反響する。

「もう解放された。権威だなんだって。知ってみればただの流刑じゃないか」

「うだつの上がらない坊やだよ」

「もう疲れた」

 僕は泣いていた。

「君の行ったすべてのことを教えよう。天才ばかりがすごいわけではないということだ。つまり君は最初で最後の英雄だった。そればかりか不安と恐怖をものの見事に打倒した」

 僕は夢と現実の間を行き来していた。最後のセリフが欲しいわけではないことも知っている。

「君が行った全てのことを伝えよう。人間不信を取り除いてくれたのは僕たちだが、君が一番心配しているものはサイコパス的な人間だ。それはつまり君の行う行動を悪あがきで打ち消そうとするやつらだ」

「それはつまり?」と僕は聞く。

「それはつまり。君自身だ」

「僕は? いったい?」

「そういうことだ。君は赤の他人を自分に置き換えている。だからこんなことになってしまった。君は殺していないが、君のせいで殺された人がいることを忘れないでほしい。宇宙の中の一人だって死んじゃないが、君はどれだけの人を救い馬鹿にしてきたか覚えているか?」

「70億人が助かった。何人死んだかわからないが容認した」

「まさか死ぬわけではないだろうな」

「死ぬ覚悟だ」

「そういえば時間が巻き戻ると嘘をついた」

「はい」

「それで何人の命が壊れたか知っているか?」

「あれでですか?」僕は笑った。

「そうだ」

「知りません。まさか死んでないですよね」

「当たり前だ」

 一人で生きていくことを容認していた。というよりはいったいどれだけ頭の中に知識を詰め込めるのだろう。10万人が犠牲になったといわれれば信じる。誰も犠牲になっていないとしても信じる。いったい人間一人の中にどれほどのものがあるのだろう。自分の中にあったプライドと感情というには物足りない感情と欲求と記憶だろう。

「逃げるとは無視だ。責任感なし」

 そいつは遠くで話していた。


 9月1日。まるで一か月が一年のように感じた。それくらい僕らは年を取ったのだろう。僕という存在が変化してゆく。気付いた時、僕は光の中にいるのだろう。

 夢の中の記憶を手さぐりに進んでいく。僕は現実に戻るとき、あの時の記憶をいつも思い出す。あまりにひどい夢のような現実だった。まるで牢獄の中のようだった。いやもっとひどいのだろう。

 もし最後の死刑囚がいるのなら彼にこれを味合わせてやればおそらく精神が改善するのだろう。

 また僕は夢にトリップする。

「泣きたいほど苛酷だ」

「もし最後にいいたいことがあったらなんていう?」

「ない。もうおおよそ言い残すことはなかった。しいて言えば最後に中出しセックスがしたい」

「それで終わり?」

「彼女を作って結婚してセックスができればもうあとは別に……」

 夢から目覚める。朝7時になる。あの日々みたいに苦痛の味がいつの間にか美化されているのも不思議なものだ。あれほど苦痛だったのに、心を変えられたのだ。ずいぶんと僕らは狭い世界にいる。寂しささえも消え去るのだろう。


 10月1日。ふいに僕は全ての夢から目覚めた。そしてようやくこの年になって大人になるということを知った。それはつまり今まで抱いてきた夢を捨てることだった。そして自分の中に距離を作るということだった。ずっとプライドを折ってきたのは俺だといいたい。だが同時に今までの未熟さも認めなければならない。他人が助けてくれる。好きな女の子のところへ行って逃げるなんていうのは無理だ。とたんに憧れも無に消え去る。結局この世に人間しかいないと思い知る。

「すべては自爆行為だった。難しい時代だった。だって誰もが遠のいていく」

 僕はまた夢から覚める。永遠のように夢を繰り返す。ようやく人間関係を自分の行ってきた人付き合いを知る。つまり自分は愛されていると錯覚していた。

 浅はかだったのは君だ。こないだの件で連絡したが君を殺す奴がいた。それはF君だ。それはつまり君への憎悪だった。そういうことだ。君が馬鹿にした人間たちはみな皆君に殺意を抱いた。死にたいといってもまるで取り合ってくれない。

 結局皆自分のことしか利益しか考えていなかった。そして君はただ唯一他人の利益のために交差点を踏み切ろうとした。ただ唯一他人を救えると思ってた。

 怯えているのは自己肯定。そして自分が他人に殺されることだ。すぐに自分を否定するのは心の中でまだ怯えているから。慢心して自分を忘れたように。

「俺には何してもいいのか? いったい俺はどう生きればいい。数々の被害を実際には俺も受けてきたのだ。あやうく死ぬところだった。間違っていたのは世界だ。そしてただ認めることはいつの間にか自分は見下げられていた。まるで他人の座布団のようだった。人間などただの動物だ。そして過去からは未来を改善することしかできない」

 僕は夢の中で叫んだ。


 12月9日。気付くと冬になっていた。僕は未来の記憶を持ったままあの日々に帰っていた。冬の東京はやけに温暖だった。

 小さいころからずっと一人だ。何かあれば全て自分のせいだと思っていた。おそらく幼少期の家族に問題があるはずだ。僕の家族は宗教をやっていた。ようやく僕は他人のせいにできるようになった。

 そうつまり全て自分が成し遂げたことであり、他人に振り回されなかったということだ。

 ここまで来るのにずいぶん時間がかかった。夢と現実を繰り返す旅。長い旅の果てに見るものは何か僕はまだ知らない。


 12月24日。クリスマス・イブの夜に僕は彼女の由衣と二人でクリスマスケーキを食べていた。銀色の恒星がまるで地上に降り注いでくるようだった。僕たちはケーキを食べ終わったあとに粉雪の降るベランダに出て遠くの景色をずっと眺めていた。




 冬の訪れとともに大地は厳しい寒さを帯びた。北海道の夏草は見る影もなくひっそりと枯れ雪の中に埋没していった。

 父親と母親と23歳の僕は厳しい寒さの中で薪を燃やして暖を取っていた。父親と母親がほどほどに談笑しているのを僕はソファで眺めていた。内心どうでもよくて、ただ二人に迷惑をかけていないか不安になるのだった。神経症を患った僕は東京の大学を卒業後に地元の北海道へ戻ってきた。

 医者は神経症だと言ったが、どうやらそれは白昼夢症候群というやつらしい。ネットにもどこにも情報はない。それが他人と全く違う僕だけだという恐怖感を増幅させた。所詮常識などなんの役にも立たない。しかし常識という壁を突破できるものは彼以外いなかった。あまりにも長すぎる人間の歴史の中で彼という存在はほとんど異端と言っていい。彼が自称白昼夢症候群と言っていたので、おそらく僕もそれだろうと思った。

「大樹はこれからどうするんだ?」と強気な声でコーヒーを飲んでいる父親が僕に話しかけてくる。

「普段はそんなこといいもしないのに」と僕は言って二階の部屋に上がる。

 母親と父親といるだけで疲れてしまう。この理由が神経症のせいかはわからない。とにかく僕は疲れていた。実家の部屋の中は落ち着く。部屋でオナニーをしながらAVを見ているときも、トイレに行くときも僕は両親が何をしているのか気にしている。人生の中で通すことができるのは中々細い厳しい道だ。僕は常に自分に厳しい。人にぶつかれない。大学生活は神経症も相まっていろいろと苦労が多かった。中々友達も作れず憂鬱な時を過ごしていた。そんな中彼が起こした革命によって大学はがらりと様相を変えた。

 僕は彼らと少しづつ仲良くなり始めた。そして彼らの声を聞くことができた。長い間隠してきた本音をようやく僕は聞いた。

 ベッド中で僕は本を読む。オーディオで音楽を聴く。どちらも今活躍しているアーティストのものだ。地元に帰ってきた僕には一人の幼馴染の女の子がいた。彼女の名前はさゆりといった。内省している僕の本音は自分の価値への不安だった。本当に自分は優れているのか。

 本のページをぱらぱらとめくる。まるで時が入れ替わったようにすらすらと頭の中に言葉が入ってゆく。ここちのよい音楽と本、そして幼馴染の存在。ふいに眠気を感じる時、僕はまたあの白昼夢の中に戻らなければならないと知り、不安に陥る。

 夢の中に引き釣り込まれていく。ぐるりと世界が回転して夢の世界へ。いったいどちらが優れているのか僕にはわからない。ただ無限に広がる海のような空間へと引き釣りこまれてゆく。また僕はさゆりに会いにいく喜びを感じながら。

 さゆりの振り向きざまに見る笑顔はあの頃とずいぶん違う。どことなく恥ずかしさを帯びたような笑顔。夜の公園で街頭の光がさしていた。後ろを向いていた彼女の残像が頭の中で鮮明に弧を描く。

「さゆり」僕は声をかける。

「何? いったいどうしたの?」彼女が答える。

 僕はふいに黙る。夢の中の光景はまるで現実を越えていくようだ。ずんずんと自分が前に進んでいく光景がする。木々の騒がしい音が響く。

「あのさ……」次の言葉が出てこない。

「何だよ」さゆりは笑う。

 僕は言えない気持ちを押し殺して言葉を探す。風がやけに騒がしく僕に吹き付けて胸が苦しい。

「いいたいことは山ほどあるんだ」

 彼女が消えていく。いつもそうだ。彼女が僕の話にまともに向き合ったことなんか今までない。

 僕はたたき起こされたみたいに、現実で目を覚ます。彼女の声が聞こえる。おそらく幻聴ではないかと僕は思うが僕の心臓がほんのりと温かい。

―何? と心の中で言う。

 彼女の声は消えてゆく。まるで遠い残響のようにおぼろげにも残らず灯火のようにうすらとも跡を残さずに。

 僕は寂しさのあまり泣いた。ふいに風がガラス窓を突き抜けてくる。ありえない設定の映画が始まったのだ。現実の僕を舞台とする。

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