蝶の夢
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蝶の夢
機械が「ガガ」という無機質な音を立ててタイムカードに印字する。
四月一二日金曜日一八時三二分、俺は職場を後にした。外はまもなく夜になろうとしている。三日ぶりに晴れた今日、街は華々しい金曜の夜になるだろう。俺を疎外し続けてきた夜に。しかし、今夜は疎外感など感じない。精神的にはむしろ高揚している。ただ、肉体的には最低の状態だ。ネオンが何重にもなって見える。さすがに二四時間以上何も食べてないと歩くことさえも辛い。家に帰ることができればそれでいい。もう少しの辛抱だ。
家に着いたのは、午後八時過ぎ。俺はすぐに「最終的解決」の準備に取り掛かった。部屋の狭さを考えると、練炭自殺がうってつけの方法だと考え、先週必要なもの一式を買っておいたのだった。
準備が整うと、両親宛の簡単な遺書を机の上に置き、マニュアルにしたがい練炭に火を点けた。
練炭からの煙を確認後、眠剤をしこたま水で流し込む。今までの人生でデートした唯一の女である上田麻子のことが思い出された。麻子と交わした何気ない会話、麻子の笑顔。やがて強い睡魔に意識が遠のいた。
*
見知らぬ天井から剥き出しの電球が吊り下がっている。これが死後の世界か? いや、違う。俺は視界の隅に捉えた看護師ともう一人の女の姿を見て、気づいた。何ということだ。失敗したのか?
俺は看護師と話している女の顔に見覚えがあった。麻子だ!
麻子がこっちに来る。麻子はベッドの側の椅子に腰掛けた。俺は慌てて目を閉じたが、瞼の上から麻子の咎めるような眼差しを感じた。
「どうして……」
彼女の口からかすかに漏れた問いを俺の聴覚ははっきりと捉えた。一瞬にして人生の悲惨さが甦った。それが答えだ、と俺は言いたかった。
「じゃあ、わたし行くね」
麻子は今度ははっきりと言った。その瞬間、俺は大きく目を見開いた。麻子は黒いトレンチコートのベルトを締めている。俺はその動作を貪るように見た。麻子と目が合うと、最初は驚きの、次に歓喜の表情が浮かんだ。
「恭介!」
*
俺は電車で八王子にあるANNZUに向かっている。そこで麻子と会うためだ。
ANNZUは学生時代によく使った店だった。今はもう珍しい「喫茶店」であり、麻子とデートした店でもあった。
八王子駅の構内から出ると、空に舞う紫の蝶の大群に気づいた。俺は不思議に思ったが、街を歩く人たちはまったく気にかけてないようだ。
ANNZUは昔と変わってなかった。一階のコンビニも同じだった。タバコの煙で茶色がかった壁紙、オリーブ色のソファ。薄暗い店内。マスターも昔のままだった。相変わらず長髪で、不良中年といった風情を醸し出している。客は俺以外にいない。
俺は春の空を舞う蝶の群れに見惚れていた。それは桜の花よりもはるかに美しいと思えた。
やがて麻子が来た。麻子もまた変わりなかった。ショートの髪型や華奢な体つきは記憶している麻子と変わりない。ただし、黒いトレンチコートは記憶になかった。
「懐かしいね。この店」俺は言った。「ここ来るのは卒業以来だよ。それにしても、また会えて嬉しいよ」
「わたしは、あまり嬉しくない。話してよ。どうしてあんなことをしたのか」
俺は麻子の真剣な眼差しに負けないようにマジに答えようとした。
「生きるのが辛かったんだ。週末の夜が来るたびに泣きたくなった。そんな何もない生活から抜け出すには、死ぬしかなかったんだ」
「でも仕事はしてたんでしょ?」
「ああ、三カ月前から警備の仕事に就いてた。だけど、今月で辞めることになっていた。その前はHNKの視聴料集金の仕事をしてた。他にも何かしら仕事に就いてたけど、何をやっても、楽しいとも続けられるとも思えなかった」
麻子は大きく溜息をついた。
「小説の方は? まだ書いてる?」
「やめたよ。随分と前に。苦しんで言葉を紡いで何になるのか、と疑問に思ってね」
「恭介も退屈な大人になったわね」
麻子の言葉が痛かった。麻子の眼差しには軽蔑の色が浮かんでいた。
「そんなこと百も承知なはずなのに、麻子に言われると傷つくよ」
「しっかり生きないと駄目じゃない。わたしのためにも生きてよ。執筆も続けなさい」
「……それより、この蝶は何なの?」
俺は訊かずにいられなかった。
「知りたい?」
「麻子には見えるのか?」
俺は嬉しかった。幻覚かと思っていたから。
「不思議でしょう。でも、不思議なのは蝶だけじゃないよ。ねぇ、わたしたち大学卒業してから何年経った?」
「一〇年か」
「そう、一〇年。それなのに、この店当時のままなんておかしくない? マスターもぜんぜん老けてないでしょ」
「確かに言われてみれば」
「それにわたしもぜんぜんおばさんっぽくないでしょ」
「確かに」
「自殺してからの記憶はある?」
「病院で目覚めた」
「いいえ、まだ目覚めてないのよ」
麻子は不敵な笑みを浮かべて言う。
「何? それじゃあ。ここは夢の中か?」
「まあ、そんなところね。だけど、普通の夢じゃあない」
「というと?」
「質問はそれくらいにしておこうか」
麻子はそう言うと窓の外に目を向けた。
「それにしても綺麗な蝶ね」
麻子はうっとりとした表情で蝶を見ている。
「もしかして、ここは死後の世界か?」
俺は急き込んで訊いた。
「違う」
麻子は真顔ではっきりと答えた。
「そろそろ本題に入りましょうか」麻子はそう言うと立ち上がった。「さあ、こっちよ」
麻子は店の奥にある梯子状の階段を上った。俺は麻子の後を追った。最初は真っ暗だったが、麻子が電気を点けると、六畳くらいのフローリングのちゃんとした部屋だとわかった。部屋の中央のテーブルの上にはビデオデッキとプロジェクタとスピーカー、そして何本かのビデオテープがあった。右手の壁にはドアがあり、奥にまた部屋があるようだった。麻子は電気を消すと、その中の一本のビデオテープを再生し、白壁のスクリーンにビデオを映し出した。
見覚えがある風景が映し出された。俺の母校の小学校だ。俺は驚いてビデオに見入った。小学生の頃の俺だ。当時よく一緒に遊んだ友達たちとグランドで野球をしている。
「こ、これは何だ?」
「いいから。黙って見ようよ」
俺が打席に入った。それにしても俺はこんな子供だったのか。意外とかわいいじゃないか。俺には確かに覚えがあった。最終回のこの場面でヒットを打ち、ヒーローになるのだった。実際、俺はレフトの頭を越えるヒットを放った。こんな風に客観的に見ると、我ながらなかなかやるなと思う。あの頃はまさかこんな大人になるとは思ってもみなかった。
「この頃に戻りたい?」
麻子が言った。ビデオはチームの皆と喜びを分かち合っている場面で中断された。
「……どうかな。わからない。もう一度同じ人生を歩むなら同じだからな」
「今の記憶を持ったままだとしたら?」
「それは嫌だな。この状態で小学生になったら、死ぬほど辛い毎日だと思うよ。完全に孤立してしまう」
「でしょうね」
ビデオが再生された。今度は、中学生の頃の俺が映し出された。俺はヘトヘトになって自転車を漕いでいる。当時、何度か三〇キロ近く離れている町まで自転車で遠出したことがあった。そのときだ。俺は完全に体力を消耗してしまっている。俺は思い出した。一緒に行った仲間たちから大きく引き離され、独りで辛うじて自転車のペダルを踏み続けたときのことを。
ようやく自転車は山を越え、町の大通りの近くまで来た。俺はこれから何が起こるか知っている。保育所の前で、大きく遅れた俺を一緒に行った仲間たちが待っていてくれたのだ。
「途中で歩いてただろ?」
吉野が笑いながら言った。俺は頭を振る。
「じゃあな」
皆、口々に言うと、去って行った。
「いい友達たちじゃない」
麻子はビデオを止めると言った。
「ああ」
俺はほとんど泣きそうになってしまった。
「じゃあ、今度はこれね」
そう言って、麻子はビデオを再生した。またしても中学時代だ。俺は朝のホームルームで先生に呼び付けられた。まだ二〇代の熱血派の長尾先生は厳しい顔をしている。俺はこれから何が起こるかすぐにわかった。
長尾と対面した次の瞬間、「パシッ」という乾いた音が教室に響いた。皆の前で頬を張られる俺。俺はあまりの出来事に反応できない。教室は静まり返っている。
「これは何だ!」
長尾はそう言って、給食台を指す。そう、俺は再三言われていたのに、給食台を拭くのを忘れていたのだった。
「お前の母親からお前を一人前にするように頼まれてるんだよ! さっさと拭きなさい」
俺は次の瞬間、俺は声を上げて泣き出した。泣きながら、給食台を拭いている俺。クラスの皆の哀れむような視線が俺に注がれているのがよくわかる。この瞬間、俺は屈辱の烙印を押されたのだ。あるいは逆に自らの強さを証明することもできた場だったのだが。今でも自分の弱さに恥辱と怒りを覚える。この場面だけはもう一度やり直したい。せめて泣くことさえなければ――。
「泣き虫なのね」
麻子はビデオを止めると言った。俺はばつが悪かった。好きになった女の前でこんな自分を見られるなんて。
「なあ、誰だって人に知られたくない出来事というものがあるんじゃないのか? 麻子にもあるだろう?」
「わたしなら大丈夫よ。恭介のことなら何でも知ってるから」
「本当か?」
「さあ、次は何かな?」
麻子はそう言うと、ビデオを再生した。今度は高校時代だ。俺が完全に日陰者になった時代だった。以来ずっと日向に出ることができなかった。この時代、俺は取り返しのつかない失敗をした気がしていた。
画面に映し出されるのは、校舎の廊下を歩く俺。何と言うダサさだ。標準の学生服にもっさりした髪型。最悪だ。向こうから来るのは吉野だ。痛ましい顔で俺を見ている。すれ違い様に吉野は俺を呼び止めた。
「なあ、今度久しぶりに釣りにでも行かないか?」
吉野は人懐っこい笑顔を俺に向けている。
「……ごめん。俺、忙しいから」
俺は無表情でそう言って、離れようとする。
「おい待てよ」
吉野は俺の腕を掴んで言う。
「高校入ってからお前おかしくなったんじゃないか? いつも独りで。友達いないだろ? 勉強ばかりでいったい何が楽しいんだよ?」
「…………」
「あっ? 何とか言えよ!」
「……ごめん」
「『こめん、ごめん』って何なんだよ! 昔のお前はどこに行ったんだよ。そんなに勉強ばかりして、将来、医者か弁護士にでもなるつもりなのか? まあ、どんなに偉くなっても、お前は不幸になるよ。今からでも遅くない、高校生活を楽しめ。そうしないと、いくら勉強ができてもお前の人生は……無価値なものになるだろう。友達としての忠告だ。たぶん最初で最後の」
吉野は冷ややかな眼差しでそう言うと、去って行った。俺は呆然としている。吉野の言葉は衝撃的ではあったが、俺には届かなかった。偏差値の高さだけが俺の価値基準だった。俺は傲慢だったが、勉強以外何もできなかった。だから、偏差値以外の尺度は認められなかった。勉強は格好の避難所だった。俺はせっせと机に向かいつつ、自分の将来に夢を抱くことできた。ところが、今思えば、その努力はまったく逆に俺を掃き溜めへと追いやることになったのかもしれない。もし高校時代に一人でも友達ができたら、たぶん違った人生を歩めただろう。人間関係を軽視することが人生においてどれほどの不利益をもたらすか、当時は思いもよらなかった。
「なるほどね。暗い高校生活送ってたんだ」
「……なぁ、そろそろ教えてくれよ。いったい何がしたいんだ。こんなものを見せなくても覚えているよ」
「そう? わかったわ。じゃあ、これで最後にしましょう」
スクリーンに映し出されたのは、大学のキャンパスだ。レンガの敷き詰められたキャンパス。コンクリートの無機質な校舎。大学時代こそ俺の青春が花開くはずだった。ところが、やはり俺は孤立し、高校時代と大差ない暗い時代になった。
俺はコンクリートのベンチで一人煙草を吸っている。服装から季節は夏のようだ。外は薄暗い。俺は頻繁に時計を見ている。落ち着かない様子だ。俺は思い出した。このとき俺は五コマ目が終わって校舎から出てくる麻子に声をかけようとしていたのだ。このときの緊張は今でも覚えている。
授業終了のチャイムが鳴った。俺は煙草をもみ消すと、出入口の方を見据えた。やがて麻子が出てきた。白地に黒の水玉のワンピースを着ている。彼女の姿は俺には天使に見えた。俺は弾かれたように立ち上がった。
「上田さん」
臆病な俺は背後から声をかける。
「あっ、どうしたの?」
彼女の笑顔に勇気付けられた。お茶したい旨を告げる。彼女は一瞬目をパチクリさせた後、笑ってOKする。このときは死ぬほど嬉しかった。しかし、本人を前にして見ると照れる。
「もう消してくれよ」
俺は懇願する。
「フフフ、このときは驚いたわ」
「OKしてくれて嬉しかったよ。できれば、付き合いたかった」
「そうなる可能性もあったのよ」
「何!?」
「じゃあ、このくらいにして、次に進みましょうか」
麻子はそう言うとドアを開けて、奥の部屋に進んだ。
そこは四畳くらいの狭い部屋だったが、壁一面にたくさんのモニターが埋め込まれていた。他には小さなガラスの丸テーブルと椅子が二つだけ。テーブルの上には拳大の黒い箱が置いてあった。
壁に埋め込まれた一五台のモニターはピラミッド状になっている。そこに映し出されているのはすべて俺自身だった。俺は呆気に取られてそれらの画面を見た。一つ一つが違う状況だった。一番上のモニターでは、俺は女と家のダイニングらしき場所で飯を食っている。相手の女は麻子だ! 今、目の前にいるよりも麻子よりも年を取っているが、年相応の美しさを備えている。対する俺も今の俺よりも男前のように見える。髪形は小ざっぱりしているし、血色もいい。その下の列のモニターでも今はもう連絡を取ってない友達と飲んでいたり、知らない女と親しげに飲んでいる俺もいる。パソコンで何か書いている俺も。一方、一番下の列のモニターに映っている俺はどれも悲惨に見える。狭いアパートでエロDVDを見ながらオナニーに耽っている。立ち食い蕎麦屋で蕎麦を食っている。実家の自分の部屋でテレビを見ている。夜の歓楽街を歩いている。そしてもう一つは、自宅のベッドで寝ている。
「こ、これは一体何なんだ?」
「これは現時点での恭介の人生よ」
「だけど、どうしてこんなにたくさんあるんだ?」
「生きられるのは一つの人生だけど、どれもあなたの人生よ。今、恭介は自分のあり得た人生を俯瞰的に見られる場所にいる」
「どれもあり得た人生だと言うのか……。上に行くほどよくなっているようだが」
「そうね。その通りよ。上に行くほど恭介が望ましいと思う人生になっているわね。だけど、これは現時点での序列で、これからどうなるかは決まってないの」
「……ということは」俺は気づいた。どれが今の俺の人生を映し出しているか。「寝ているのが今の俺か?」
「ご名答」
「まだ生きているのか?」
「ええ」
俺は嬉しいのかどうかわからなかった。
「今、恭介は生と死の狭間にいるの」
「……それで?」
「こうして恭介に人生の重要な場面を見せて、わたしが何をしたいか恭介はよく知っているはずよ」
そう言うと、麻子はテーブルに置いてある黒い箱の中からデジタルの腕時計のようなものを俺に手渡した。
「これは? 冥土の土産か?」
「つまらないギャグね。これで終わりにすることも、過去に戻ることもできるわ」
「何だと?」
「ただし、戻る場合は、生きている間でないと無理よ。一時間以内に答えを出して頂戴」
俺は麻子からもらった時計のようなものを調べてみた。時計の機能の他に、日付と時間を指定できるようになっている。サイドに[Return]ボタンと[Terminate]ボタンがあった。
「まるでSFの世界だな」
俺はそう言いながら、左の手首に装着した。
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
やはり蝶の大群が夕暮れの空を舞っていた。大群はさっきよりも濃くなり、地表に接近していた。
これはチャンスなのだろうか? 俺は自問した。しかし、やり直したところで今よりもよくなる保証はない。
東急スクエアを通りがかったとき、入り口付近で寝ているホームレスの姿が眼に入った。たぶん五〇代の男だと思うが、その鮮烈な襤褸と汚さが彼の個性をはるかに凌駕している。将来の俺の姿か、あるいは、俺にも彼よりはマシな人生を送れる可能性はある。彼はどうして生きているのだろう? 死ぬ勇気がないからか。俺は彼の前に立ち止まった。尿臭が鼻をつく。襤褸をまとい、こんな場所で寝るなんて、生き恥を晒すことに全力を挙げているかのようだ。誰もが見て見ぬ振りをして通り過ぎてゆく。
不意にホームレスが目を開いた。俺に向けられた眼差しには敵意が篭っていた。俺は「失礼」と言って、立ち去ろうとした。
「おい、兄ちゃん。待てや。お前、俺のことバカにしてただろ? えっ? お前、俺のことを何も知らないのに」
「いや、違います。ただ、興味がありまして――」
「興味だと。人をバカにしやがって。俺だって好きでこんなところに寝てるわけじゃねえ。俺だって昔はもっとマシな暮らしをしてたんだ。結婚もしてた。でもな、人生何があるかわかんねぇ。一寸先は闇ってな――」
「あの、失礼ですが、おじさんは、死にたくなることはないんですか?」
「てめえ、俺のようになるくらいなら死んだほうがマシって思ってるんだろ? えっ? まあ、無理もないがな。俺は死ぬのが怖いんだ。俺には自殺なんてする度胸はねぇ。それに、生きてりゃ、何があるかわかんねぇしな」
「そうですね。貴重なお話ありがとうございました」
俺はそう言うと彼から離れ、若者が多い通りに向かった。俺はあんなになってまでも生きて行く自信はない。だから、早めに死を選んだ。しかし、今、俺には人生を軌道修正するチャンスがある。戻るとしたら、高校時代にしよう。そして完璧な高校時代を送る。彼女をつくり、オシャレをして、麻雀なんかをやったりして、不良っぽくてクールな高校生になってやる。
俺はそんなことを思いながら、行き過ぎる高校生のカップルを見た。決まったからにはANNZUに戻るか。
途中、学生時代よく行ったゲーセンを見つけ、懐かしくなり、思わず足を踏み入れた。そこでは女のいなさそうな奴らが黙々とゲームをやっていた。学生時代の自分を見るようだった。不意に学生時代の自分に対する罪悪感が湧いてきた。俺は彼と繋がっている。彼が今の俺をつくっている。もし、俺が高校時代に戻ったり、自殺したりしたら、彼はどうなる? それに実際、人生をやり直して、うまく行ったところで満足できるだろうか? 自分が二度目だということに負い目を感じるのではないだろうか?
俺にはビデオで見せられた人生しかない。どんなにダメでもそれが俺のID(自己同一証明)だ。それに愛着を持っているのか、と問われれば、否だ。少なくとも狭い意味では。俺は自らの手で幕を引こうとした。しかし、後悔と嫌悪を感じているとはいえ、それは積極的な感情だ。無関心では決してない。それはある種の愛着なのではないだろうか? 不思議だ。最低の人生でも、他の人生に移りたいとは思わない。
歩きながら、明確な意思が形成されつつあった。俺は俺を助ける。俺の人生を救う。それがどんな人生であれ、俺にしか生きられない人生を生きる。
俺は麻子にそのことを伝えたく、急いでANNZUに戻ろうとした。そうだ。もしリアルに戻ったら、向こうで麻子と会えないか訊いてみよう。
狭い歩道を早足に歩いているとき、肩に衝撃を感じた。サングラスのおやじが俺を睨んでいる。
「痛いよ。兄ちゃん」
「すみません」
「ちょっと、付き合えよ」
「わわわ」
俺は男に腕を掴まれ、狭い路地に連れ込まれた。
「われ、ええ時計しとるな」
「えっ、違います。これは時計じゃないんです。それだけは勘弁して下さい。他には何でも差し上げますから」
「じゃあ、カネ出せ」
「ちょっと待ってくださいね」
俺はズボンのポケットに手をやった瞬間、ダッシュで逃げようとした。しかし、男に足をかけられ見事に転倒した。
「あら、どうしたの? そんな顔して」
ANNZUに戻ると、俺は麻子に装置を取られたことを話した。
「そう、それは残念だったわね」
「残念って。じゃあ、俺は死ぬしかないのかよ?」
「まあ、その可能性の方が高いわね。でも、自業自得でしょ」
「そりゃそうだけど……」
「でも、俺はもし戻れるんなら、今までの人生を引き受けることに決めたんだ。そうするしかないように思えたんだ」
「そう」
麻子は微笑みながら言った。
「もし、戻れたら、向こうで麻子と会いたいと思ってた」
「……残念だけど、それは無理ね」
「どうして?」
「わたしは二五で死んだの。交通事故で」
「えっ!? そんな……。嘘だろ?」
「本当よ。でも、恭介はまだ生きられる」
「えっ? でもさっき――」
「大丈夫。他にも手段はあるから。恭介が自分の人生を引き受ける決心をしてくれて嬉しいよ。実は、あの装置を使っても、戻れる範囲は自殺を試みてから二四時間以内に限られるの」
「なんだ。そうなの。それを早く言って欲しかった」
「実は、あの装置はカンダタに垂らされた蜘蛛の糸みたいなものだったの。もし高校時代とかに戻ろうとしても、戻ることはできないし、一切救いは出せないの」
「なぜ?」
「今までの人生に責任を取れない人には見込みはないと見なされるから」
「……勝手な理屈だな」
「そんなことない。そりゃあ、自殺を試みるくらいだから、ほとんどの人は自殺直前よりももっと過去に戻ろうとするんだけど、それは自殺に至った人生を見捨てることを意味してる。ここでは自殺が間違いだったと気づいた人しか、戻ることができないのよ」
「まあ、俺はやり直すのが面倒に思っただけなんだけど。……でも、麻子が死んだなんて。信じないよ」
「少なくとも、あなたと同じ世界のわたしは死んだ」
「それじゃあ、ずっとこの世界に留まることはできないのか? 二人だけにしか見えない蝶なんてロマンチックじゃないか?」
「蝶はもう消えたわ」
「本当か?」
俺は外に出てみた。確かにさっきまで鬱陶しいほど空を舞っていた蝶はどこにも見当たらなかった。
*
目覚めると、そこは自分のアパートだった。頭が痛い。ラジオから四月一三日の午前七時過ぎだとわかった。ガラス戸の一枚が大きく割れていた。俺は赤茶色の大きな石が転がっているのに気付いた。俺はしばらく呆然としていた。
猛烈な空腹を感じた俺は家に残っていたクッキーを貪り食った。その間、割れたガラス戸から蝶が一羽侵入してきた。それはどこにでもいるモンシロチョウだった。それでも俺には夢と何か繋がりがあるように思えた。俺はその優雅な羽ばたきに、麻子の微笑を想起した。(了)
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