第1話

「んー、もっと勢いよく、な感じなのかなぁ……」

 名古屋市中川区、金山駅にも近いマンションの一室。一人の女子中学生がソファーに座りインナーフォンを付け、とある吹奏楽の曲を聴いている。元々はコンクールの課題曲だった曲で、その関係で楽譜が学校にあったため、来月の文化祭での発表で演奏することになっていた。こんな大災害があった後に文化祭が予定通りに実施されるのかは微妙なのだが、その時のため、少女は模範となるその演奏を聴き込む。

 街は未だ、完全には復旧していない。桜通や大津通に設けられた防御線は撤去されたものの、地震の揺れで倒壊した建物があちらこちらにまだ残っていたりするし、この部屋の窓から見える堀川の水面には巨大ウナギの亡骸が撤去されないまま漂っている。一ヶ月も放置されると完全に腐敗したそれは異臭を放ち、窓も長くは開けられない状態である。

「この子達はどこへ行きたかったのだろう……」

 少女は呟く。何故名古屋の都心を流れる川を遡ったのかは専門家で議論がされている途中である。ネット上では「名古屋はひつまぶしが名物だから、その仕返しに来たんだ!」というキワモノな論まで存在していた。

 胸ポケットに入っていた携帯電話が震える。少女が取り出して画面を見ると「通知不能」の文字。怖いと思いながらイヤフォンを外し、電話に出る。

「もしもし」

『美夏か?』

 男の声。ただ、少女にとっては聞きなじみのある声。恐らく世界で一番か二番目くらいに。

「……お父さん?」

『ああ。ちょっと研究でアメリカへ行っててね、お母さん共々しばらく帰れない』

 驚きで少女は言葉が出ない。いつの間にか海外に行ってしまっていたとは。

「東京に行くんじゃなかったの?」

『予定が急に変わったんだ。それに海外の方が研究は進むんだ、今の状況だと』

 少女の父親が東京へ行ったのは震災前。東京でも震度五弱の揺れが観測された地域があり、正常な都市機能を完全に維持しているとは言い難い。にしても事後報告とは、と少女は心の中で呆れる。

「いつまで?」

『ちょっと判らないな……。大丈夫、長引くようだったらこれまで通り美夏の口座にお金は振り込んでおくから』

「……うん、判った、ありがとね」

 少女は電話を切る。切って、電話を座っていたソファーに叩き付ける。何で、私に黙って事を進めていってしまうの。何で行ってから、報告してくるの。そういった態度が許せないのだった。

「ま、いいや……。もうちょっと聴き込んでから、楽譜見よっと」

 頭出しをして、もう一回。リピートで何回も聴いているうち、少女は眠ってしまった。


「──!」

 しばらくして、少女は目覚める。少女が見た夢、それは、深海。ほぼ真っ暗な世界に浮かぶ、ゆらめく影。そして──


 おそらくは何処かの海底であろうその場所。光がほとんど届かない世界。その僅かな光で映し出される、白い、小さな影。それはきっと何かの稚魚、そしてそれを見ている自分も。

 その群れはやがて動き出す。海底にそって、移動する。時々遭遇する、私達を狙ってくる大きな魚から逃げながら。向かう先は判らない。判らないけど微弱に伝わる海水の流れに沿って泳いでいく。

 少しずつ仲間は減っていって、周りがやっと十分に明るくなった頃には、数える数しかいなくなってしまっていた。それでも進む。だんだんと、周りの状況が変わっていく。

 両岸や川底が平らな川。川といってもその流れはあまりない。水自体は少し濁っていて、時々逆流しているようなことさえある。ゆっくりゆっくりと川を遡っていくと、壁にぶち当たった。

 それはまるで、小さな滝のような地形。だがそれを超えることは出来ると思った。

 そして、そこを超えた。何度も挑戦して、やっと。しかしたどり着いたのは、あまりよい場所ではなかった。水中に養分は豊富に含まれているようだったが、それが十分胃に、生態系に取り入れられている訳ではなかった。だから川と川の間を移動した。雨が降った、真夜中。出来ると思って、そしたら出来た。他の水中生物にはなかなか真似できないもので、これは私達特有の能力だ。移動した先は小さな水路だったが、流れは速く、そして水はきれいだった。

 小さな水路を遡る。途中何故か真っ暗になったが、それを抜けると大きな川になった。どうやらこの大きな川からさっきの水路へ水が流れ込んでいるらしい。ただそんな些細なことは気にせず、ただ上流へ。


 ここで一旦、記憶が途切れた。ただ何となく判った。夢に出てきた川、それはこのマンションからも見える「堀川」の過去の姿なのだと。


 川を下ったのはいつの頃だろうか。川で過ごしていた方が楽、ということはなんとなく解っていたのだったが、それでも下らなくてはいけない、という感じがした。

 ただ、川は大きく変わってしまっていた。下っていると息苦しい感じがした。臭いもきつかった。例の平らな川は、水が真っ黒になってしまっていた。通った覚えのない場所もあったし、海までの距離も何故か、長くなった気がした。それでもその川を下って、海に出た。

 異変が起きたのは、海に辿り着いて陸から離れつつあった、その時だった。海の中が、突然おかしくなった。周りから圧力がかかった。そして、上に持ち上げられ、流されていった。それに逆らうように、潜っていった。その方が安全だと、そういう直感があったのだ。どれだけ潜ったか、ようやく安定した場所へ着いた。そこはやはり、光の届かない場所。だが微妙に違った。そこには、食べるものがいっぱいあった、不思議なことに。そこで長い年月を過ごした。食べ物が豊富にあるその状態は、私たちを大きくさせていった。数もだんだん増えていって、大きなコロニーが形成されていった。しかしまたあの時のような揺れ。真下の地面が動いた。この楽園はもう終わりなのだと、そう感じて、私達はあの川へ戻ることにした。ただそこも既に、私たちの住める環境ではなかったのだ。川はさらに汚れてしまっていた。川に入るのさえ、一旦陸へと上がらなければならなかった。そして──

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