第3話新八の手風琴(アコーディオン)

 桜の花が散り、街中の木の葉の緑も濃くなる時期であった。日露戦争が終わった翌年の明治三九年のことである。

 菊子が崇徳天皇の怨霊と死闘を繰り広げ一月ほど経過しており、健康も回復しつつあった。

 子供たちは床に付かせて、菊子は初夏の夜の庭の香りを楽しんでいた。

 当時、菊子たちが住む市長宅の聖護院の周辺は木々が多く残る閑静な寺社町であった。

 鴨川方向から東山方向に吹き抜ける風は心地よかった。暗闇の木立の中は静寂と平穏が充満していた。

 小半時ほどした頃である。

 木々の間に蛍のような灯が点いた。

 目を懲らすと、灯火は次第に近付いてくる。

 菊子は手の甲が熱くなるのを感じた。

 しかし不快な熱さではない。

 どなたと声をかけた。

「私をお忘れですか」と、優しい低い声が返ってきた。

 声を聞いて、菊子は、「新八さんですか」と思わず叫んでしまった。

 菊子が咄嗟に村田新八という人物のことを思い出したのである。

 村田は西郷が一番、信頼をして人物である。彼は西郷の死を見届けて城山登山口の入口の岩崎谷口まで前進し戦死した。

 薩摩閥の中でも理知的な人物であった。

 彼は遣欧使節派遣から帰朝し、遣韓論争に巻き込まれ、迷った末に西郷に従い、鹿児島に帰ってしまったのである。そのことを知り、悔やんだのは大久保利通であり、報せ聞いた時に大久保は言葉を失うほど残念がったという。彼は村田を自らの後を継ぐ者と期待をしていた。

 村田は幼い路から西郷の影響を受けていたが、京都伏見の寺田屋事件で尊皇攘夷を強行しようとする薩摩藩内過激派の扇動したという嫌疑をかけられ、西郷が沖永良部島に流された時に村田も奄美大島の東の小島の喜界島に流されている。

 西郷が罪を許され、鹿児島に帰る途中でわざわざ喜界島に船を立ち寄らせ、村田を乗せ鹿児島に戻ったことは有名な話である。

 村田が奄美大島の東の小島の喜界島に父ととともに流されたと言うことは菊子にとっても親しみを感ずる理由であった。

 村田は菊子が鹿児島の西郷家に引き取られた後に、心を許し、会話ができる数少ない人物であった。

 西郷は山野を歩き、不在にすることが多かったが、村田は菊子を案じて、よく武の家に自分の子供つれて訪ねて来てくれた。

 その時には岩倉遣欧団に随行した時以来、引き続けたアコディオン持参し、菊子や自分の子どもたちの前で演奏して聞かせた。

 しばらく間を置き、「どうしてここに」と菊子は声を上げた。

 村田は伸びやかな言葉で話した。

「ずうと菊子さんのそばにいました。これまで菊子さんには見えない様子でした」

 菊子は手の甲を摩った。この手の甲の力のおかげで見えるようになったのだと気付いた。

 声以外に村田の姿に生前の面影はなかった。

 以前は身の丈が六尺もある大男で西欧風の洋装を身に付けていた。ところが菊子の前に現れた村田は背が縮じみ、声を聞かねば、村田であることにも気付かなかったはずである。

「黄泉の世界に入っても記憶を失いたいと願う者には年を重ねることが出来ます」 と村田は説明した。

 「実は息子を探しております」と菊子に打ち明けた。

 菊子は彼の息子の記憶をたぐりよせた。

 息子が三人いた。長男は田原坂で戦死し、

次男は西南戦争で足を失い帰国した。まだ幼かった三男は無事で家督を継いだはずである。女子が一人いたが、彼らとの交流は途絶えていた。名前さえ思い出せない。西南戦争から三十五年が過ぎていた。

「私より先に田原坂で戦死した岩熊のことを思い出しはしませんか」と村田は聞いた。

 菊子は胸の鼓動が激しくなるのを感じた。

 菊子がほのかに岩熊に恋心を抱いていた。

「雨は降る降る 人馬(じんば)は濡れる 越すに越されぬ田原坂」と言う熊本民謡の中で歌われる、「右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上豊かな 美少年」のモデルになった美少年こそ村田新八の息子である岩熊だとも言われている。

 岩熊は兄の菊次郎が吉野の開墾地から帰ると、武の西郷邸を訪ねて来た。兄と菊次郎と同じく米国留学を体験し、英語が話せた。二人は英語で会話することも多かった。東京に出て活躍する日を待ち望んでいたのかも知れない。

「手伝ってくれぬか」

 菊子は、もちろんとうなづいた。

 昨夜の出来事が夢のように思えたが、だが夢ではなかった。庭の掃除をしている時に古いアコディオンの鍵盤が庭に落ちているのに気付いた。当時、京都には多くの華族や財閥が財閥が別荘を求めて来ていた。琵琶湖疎水にも近い南禅寺の広い境内を政府が接収し、華族や高位高官に別荘地として払い下げており、緑陰の小道を散歩すると、ピアノやオルガンの音が聞こえた。

 だが聖護院の市長宅の庭に古いアコーディオンの鍵盤が庭に落ちていること自体が不自然である。

 菊子は昨夜自分が村田と交わした約束も思い出した。同時に彼女は鹿児島に引き取られてから西南戦争勃発までの一年にも満たない落ち着いた日々のことを懐かしく思い出していた。

 次の夜も菊子が夜の庭の香りを楽しんでいると風呂敷を抱えた村田が現れた。

 昨夜アコディオンの鍵盤を一つ落として困っていると歎いた。

 鍵盤なら大事に預かっておりますと菊子は応えて、白いハンカチに包んだ白い鍵盤を返した。村田は縁側で風呂敷を解き丁寧に手入れをされたアコディオンを取りだした。

 西南戦争に従軍する時にも携えるほど大事にした物である。戦争に行く時にアコーディオン持参でと言うことは不自然かも知れないが、「政府に尋ねたきことあり」という旗印のもと陸軍大将の西郷を押し立てて郷土を出発する薩摩軍兵士の多くは、戦なしで東京に辿り着けると信じていた節がある。

 見覚えのあるアコーディオンを見て、菊子がおなつかしいと驚嘆した。

 覚えていてくれていましたか、村田も歓び、受け取った鍵盤を本体に差し込んだ。

 彼の口の中を見て菊子は驚いた。

 歯が一本もないのである。

「その歯は一体、どうされたのですか」と菊子は思わず聞いた。

 村田は悲しげな真顔に戻った。

「歯の痛みなど岩熊に対する自分の行うとたいしたことはない。もっと労ってやればよかった。苦痛を忘れるために歯を一本一本、砕いていた。そして二度と笑うことも禁じた」と

「おいたわしいこと。大声で笑われたものを。今は笑うことすら禁じたとは」と菊子は嘆き、岩熊さんに何をしたというのかと尋ねた。

「田原坂から軍使として熊本の本陣に戻った時に、寸暇を与えず最前戦に戻れと追い返したことが忘れられません」

 その夜は彼は胸のわだかまりが取れたのか、彼は軽快に演奏した。

 長年、菊子の脳裏に焼き付いていた曲であったが、曲名を聞く機会を逃していた。


 翌朝には鍵盤も村田から預かったアコーディオンも消えていた。その夜のことである。菊次郎は妻の久子と菊子を呼び寄せ、持ち帰った風呂敷を解いた。村田が預けた風呂敷と同じものであった。しかもその風呂敷を解くと、昨夜と村田の持ち込んだアコーディオンと同じものが姿を現したのである。

 菊子は驚かなかった。予想とおりであった。

 「これを練習し、演奏をしていただいきたい」と菊次郎は頭を下げた。

 戦後処理も終わり、一段落した桜の開花の時期頃から、中央の政治家や高位の軍人が京都を頻繁に訪れて来るようになった。故郷に帰る途中に京都見物をする輩もおれば、南禅寺周辺に別荘を求めた者もおられる菊次郎に面会を求めて市庁舎を訪れてくる。三大事業で政府に多くのことを頼まねばならない以上、どのような方も無下な扱いはできない。桜の季節が終われば、そのような御仁も少なくなると期待したところであるが、真夏の猛暑にも京都に魅力を引かれて訪れる客も多いと言う。それで多忙な役所での歓迎を少なくするためにも定期的に高位高官を集会所に招き、歓迎式典をしたらどうかと案を提案し、議員の承認を得ることができた。ところが主人公である市長である私にも、ぜひ余興を出してくれと言い出す難しい御仁が現れたと。

 久子は市長に余興を強請ることを非常識だと批判し、呆れて名前を聞こうとした。

 菊次郎は爪で頭をかいた。

「実は二人も知っている人物だ」と言う。

「徳次郎さんね」と久子は断定した。

 菊次郎は否定をしなかった。

 最近顔を見せないと思ったら、悔しそうを吐露した。

「徳治郎を責めることはできない。自分も脇が甘かった。そのような申し出があった時に、咄嗟に昔のことを思い出した。菊も知っている人物だ」と菊次郎は菊子に言葉を向けた。

「村田新八さんだ。よく武の家に来られて、これと同じ手風琴(アコーディオン)を演奏して楽しませてくれた人がいただろう。あの村田さんだよ。突然、思い出して、村田さんに出来ることが、自分に出来ないはずはない。一曲ぐらいは弾けるようになるだろうと思ったのだ。それで二週間ほど前から練習を始めたが、自分の考えが甘いことに、気付いた」

「それなら、お断りになったら」と久子が厳しく言い放った。

「そうはいかんのだよ。実は乃木将軍に伝えてしまった」

「乃木将軍ですか」と菊子は驚いた。

「そうなんだ。御夫妻で四国の善通寺訪問の途中に京都にも立ち寄られる。今週の日曜日だ。乃木将軍に、そのような企画があると連絡をしたところ喜んで頂いた。昔の仕えた気安さもあり、自分も手風琴の演奏を練習中だと言ってしまった」

 今週の日曜日と聞いて二人と呆れた。

 一週間もない。

「村田さん譲りの手風琴ですか」と乃木将軍は聞かれた。

「乃木将軍が村田さんと手風琴のことをご存知だったのですか」と菊子が質問した。

「不思議だが乃木将軍はそう言ったような気がする。電話の音声が遠くて聞き間違いかも知れないが」と菊次郎は不安も滲まながら答えた。

 菊子は一連の出来事が偶然ではなく、糸で繋がっていると実感した。

 久子はこの話は菊子に対する頼みごとだと聞いて、安堵した様子である。

 菊次郎は妹の菊子に救いを求めた。

「菊子、これが終わるまで家事の手伝いはいい」と、菊次郎は妻の久子の了解を得ず約束した。

 この言葉が久子を機嫌を損ねた。

「菊子姉さんがこの市長宅にとって、どれぐらい大きな力になっていることを御存知ないの」

「これも市長宅の仕事の一つだ」と菊子の膝元にアコーディオンを押し付けた。

「アコーディオンなど触ったこともありませんが」と菊子は曖昧に答えた。

「歓迎会の出し物にお困りでしたら、京都には男性が感心を持つ芸子の踊りもあるでしょう」と久子は皮肉を込めて攻撃を緩めない。

「それも準備をしてある。だが戦争で乃木将軍が二人のご子息を今度の戦争で失って傷心している。そのご夫妻の前で華やかな芸子の踊りだけではと言うこともある。せめて心を込めたおもてなしで慰めて上げたい」

 菊次郎は台湾で勤務した時代に乃木将軍に仕えていたので、将軍の厳しさは人柄は肌身で感じている。

 その人の前で華美な舞だけではすむまい。

 今回の日露戦争勝利が、国民各層の大変な犠牲や苦労のもとになされていたかは、乃木将軍の例だけではなかった。乃木の後に菊次郎は台湾で児玉源太郎に仕えているが、その児玉が日露戦争の苦労が祟って体調を崩しているという。

 二人とも西南戦争でも深い因縁があった。

 田原坂の戦いでは乃木は軍旗を西郷軍に奪還されて、自死を考えるほどの痛手を受けながら勇敢に戦い西郷軍の北進を許さなかった。

 児玉は政府郡の熊本城籠城作戦で谷干城を助け、戦勝に導いたのである。

「八重さんも乃木夫妻の夫妻が自死をするお考えでないかと行く末に心を痛めておられた。そうなれば今回の戦いで多くの者が心の差支えを失い、後を追うかも知れないと言っていた」

 戦争後、乃木夫妻が自宅にこもり切っていることを聞いていた。乃木将軍とは大陸の戦場で会っており、ひどく案じていた。京都も香川の善通寺も乃木将軍にとって思い出で深い地である。、乃木は明治二年頃、半年間ほど京都で過ごしていた。香川の善通寺では日露戦争開戦七年前の明治三十一年に創設されたばかりの第十一師団の初代師団長を務めている。この旅の延長に、そのまま夫妻が冥土への旅立つつもりではないかと不安を感じていた。。

 菊子の心も動いた。

「新八さんの手風琴は聞いたことがあります。簡単には弾けるようになるとは思えません」と一度を辞退をしたが、断り切れなかった。

 膝元に兄が押し出したアコーディオンに触れた時に、村田のアコーディオンに触れた時の手の感触を思い出した。

 美しい音色を奏でる村田の指の動きも驚異の目で追い続けた少女時代を思い浮かべた。紙に鍵盤を書き映し、いつの日か自分もアコーディオンを弾けるようになりたいと、密かに練習をしていた。

 村田の息子の岩熊に対し、ほのかな恋心を感じた時期でもある。


 部屋に持ち帰った。

 すでに二人の子供は床に就いている。

 二人の子供の寝顔を眺めながら感傷にふけた。

 明治時代は家族制度や結婚制度など、現代の人々が憧れるような安定した時代ではない。

 赤子の間引きなど江戸時代の名残が残っている。食い物を求めて都会に人々が移り住む過酷な時代でもあった。

 人身売買を禁ずる法律は明治初期に禁止されたが、徹底せずに何度も禁止令を出している。それでも貧しい親による娘の人身売買や養子縁組など古い因習に仮装した人身売買などが公然と続けられていた。

 本妻、妾と女性が区別される時代でもあった。もちろん公娼制度も残っている。外国に売られるカラユキさんの悲話や、工場で働く女工悲話もある。

 一方では天皇皇族の護る存在として華族と言う特権階級が存在した。

 過酷な時代でもあった。

 日露戦争を体験したこの時代は家族という絆を庶民が真剣に考え始めた時代だった。御先祖様の遺影を残す写真技術の普及や、戦争体験と無関係ではなかった。

 日本人にとって日露戦争勝利の意義はロシアに代わり満州進出への足がかりを得たことである。

 植民地として人口のはけ口を見い出したのである。

 菊子は二人の子供の寝顔を見ながら親が子を思う気持ちの普遍性を感じた。それは生物として人間が受け継ぐ本能かも知れない。その本能にあがない自己の子供を死地に赴かせることは人としての最大の悲劇に違いないと村田や乃木夫妻の悲劇に同情した。


 菊子はアコーディオンを縁側に持ち出し、肩に背負った。

 空に満天の星が輝いている。

 肩に背負い紐が食い込むのを感じた。

 鍵盤を押したが、それだけは音も出ない。

 曲を演奏する時の村田の姿を思い出した。

 両手で蛇腹を膨らませたり萎めたりしていた。真似て蛇腹を膨らませながら、鍵盤を押してみると音が出た。周囲はでに寝静まっている。あわてて鍵盤から指を外した。

 音は出たが、たった一週間で演奏できるようになるだろうか。

 村田が演奏をしていた曲名さえ思い出せないが、乃木将軍の「村田さん譲りの手風琴ですか」と言う願いには応える必要がある。


 菊子は昨夜も村田が現れたことを実感した。

 村田は自分が好んで演奏した曲はラマルセイェーズというフランス国歌だと打ち明けた。

 そして、その夜も菊子の前で演奏をした。

 鍵盤を動く指の動きは思い出した。

 だが昨夜、聞いた村田の演奏とは似ても似つかず、菊子は絶望し、縁側に座りこんでいた。

 菊次郎から話を聞いた八重が心配し、駆け付けてきた。応対に出た久子が亭主の悪口を交えながら八重に事情を説明しながら案内をしてきた。

 八重は菊子の演奏する曲を聞きながら頭を傾げた。フランス国家のラマルセイェーズは聞いたことがあったが、全然、ちがう。

 とてもフランス国家とは思えない。

 八重も「大変だ」というため息を漏らす始末であった。八重は代役を勧めたいが、菊次郎や菊子の話を考える、そうはいかない。村田新八という人物と縁のある人物が乃木夫妻の前で演奏をすることが大切なことのように思えた。

 八重は教師を捜してくると言い残し、夕方に音楽家を連れて帰って来た。同志社大学の関係者で音楽やアコーディオン演奏に詳しい女性であった。二人が市長宅を訪ねて来た時に菊子はやつれた顔で縁側に座り込んでいた。

 菊子の演奏を聞き、音楽家も首を傾げながら具体的な欠点を指摘した。

 空気を吸う時とはき出す時の音階が異なることを指摘した。

 夜、村田が菊子を訪ねて来た。

 空気を吸う時と、はく時の鍵盤操作を、彼は何度も繰り返し教えてくれた。

 翌朝、八重は音楽家と二人で訪ねて来た。

 二人は菊子の演奏を聞いた。昨日に比べて格段にうまくなっていることに驚いた。

 菊子は八重に村田が、毎晩のようにやって来て演奏をしてくれることを打ち明けた。

 八重は菊子の話に納得した。

音楽家はこのまま演奏をしても恥ずかしくないと評価をしてくれた。

 だが菊子自身も満足しなかった。

 村田の演奏には遠く及ばない。三十数年前に彼のアコーディオンを聞いた時に、島を離れ、母とも別れ、生きる勇気や元気を失いかけていた。村田のアコーディオン演奏はそれを与えてくれた。

 何かが不足していた。

 それは音楽家の演奏にも欠けていた。

 解決するヒントを八重が用意したフランス国家の和訳である。

「進め 祖国の子らよ 栄光の日は来た!

我らに向かって 暴君の 血塗られた旗が 掲げられた 血塗られた旗が 掲げられた 聞こえるか? 戦場の 獰猛な敵兵の咆哮が 奴らは君らの元に来る 君らの子と妻の 喉を掻ききるために!

市民らよ 武器を取れ 隊列を組め 進め! 進め! 敵の汚れた血で 我らの畑の畝を満たすまで!」(Wikipediaより引用)

「戦場に出征する兵士を鼓舞するために造られた曲よ」と八重は説明する。

 血なまぐさい歌詞に菊子は眉をしかめたが、戦後の虚無感を一掃するにも価値があると八重が勇気づけた。


 その夜も、村田が菊子を訪ねて来た。

 年老いた村田は三十年前のようにアコーディオンを軽々と背負い、ひたすら楽しげに演奏した。

 フランス語の歌詞を口ずさんでいた、

 昨夜までの知らなかったフランス語の歌詞を口ずさんで演奏にリズムを付けた。

 格段に進歩する八重の演奏に音楽家は奇跡的と賛辞を惜しまなかった。

 すでにプログラムは準備されて、それには菊子の名前まで記されていた。

 久子は夫を責めた。

 最初は小ホールを貸し切っての非公式な行事だったはずが、公式の行事になっている。

 京都市が計画している三大事業の計画紹介や支援要請も行うことになっていた。外債による資金確保の運動でもあった。徳次郎たち町衆は京都市の発展の一助にしたいと目論んでいる。

 八重の期待の方が大きかった。

 戦争で二人の息子を失った乃木夫妻が自死を思いとどまることは、戦争で子息を失った日本人を鼓舞することにもつながる。八重は戦争で受けた心の傷が原因と思われる悲劇的なニュースに心を痛めていた。

 菊子の演奏にも熱がこもった。

 音楽家が八重の演奏は完璧だと褒めるまでになっていた。

 村田のように立った姿勢での演奏ではなく、椅子に腰掛けての演奏になるが、リズムを取るために上半身も仕えるほどに上達していた。

 歓迎会前夜も村田が訪ねて来て、菊子を励ました。

「岩熊さんに会うことができましたか」と聞くと、菊子さんの演奏次第だと村田が答えた。

 菊子が驚くと、「大丈夫、明日には会える」と断言した。 

 突然、前夜祭も行うと言うことになった。市民の見物が許された。菊子以外の踊り手や演奏者はプロである。観客の視線や観衆の反応にもなれている。久子は菊子さんを見世物にするつもりか呆れた。もともと高位高官の前での京都市長の余興だと言う位置づけから練習を始めたが、これも徳次郎たち町衆の希望だと言う。

 徳次郎たち町衆や大学などの教育関係者に案内を限定した上である。もちろん八重さんの学校にも案内が届けている。観客の前にした方が臨場感があると言う意見のようだ。その前に出演者だけの予行は行われると言い訳をした。

 多くの聴衆の前で日頃の練習の成果を発表したいと願う令嬢や学校関係者も多い。妬みを買う恐れもある。

 菊子は午前中の内々の予行のみに参加することになった。


 今回の歓迎会開催の目的は、戦争で二人の息子を亡くした乃木夫妻を慰めるためのものであった。将軍に縁のある市長の余興の一つでも言う意見が議員の間から出て、父の盟友であった村田のアコーディオン演奏を思い付いたのであるが、菊次郎は、すぐに自己の判断が軽薄だったと気付いた。同じ時期に菊子は毎晩、アコーディオンの演奏の指導に訪れる村田の存在で不思議な運命を感じていた。兄もその不思議な力に操られているにすぎないと感じたのである。

 様々な人の思いが絡み、複雑にしているが、本質は変わらない。

 菊子は乃木将軍が回答をしてくれるだろうと期待をした。


 当日は別荘地の住民など集まった。

 菊次郎京都市長の簡単な挨拶を披露した。

 乃木夫妻への慰労の言葉、そして自分の御縁や、京都市は琵琶湖疎水の拡張工事、道路の拡幅、上水路の整備、電気事業などを推し進め、近代都市の整備をしていくこと。もちろん政府の支援が必要であること、古都としてて発展を期すが、近代文化都市として文化の西郷を図りたいこと、そのためには多くの市民の協力が必要であり、今夜は余興で自らアコーディオン演奏を披露して先駆けとしたかったが挫折をし、代役に妹を押し付けたことなどを話し多くの高位高官や主役の乃木夫妻の笑いを得た。

 乃木夫妻は微笑みを絶やさず出し物を楽しみ、人々と会話を交わし、八重の案ずるような死を覚悟した人の印象など微塵もなかった。

 だが歓迎会前に、乃木将軍と大陸以来の再会した八重の表情は冴えなかった。夫妻は黄泉の国へ旅立つ覚悟を決め、肩の荷を下ろしたという印象を受けたのである。八重は乃木夫妻の変心の最後の望みを菊子のアコーディオン演奏に託す気になったのである。

 なぜ、そのような気になったか八重にも理由は分からない。だが菊子と同様に、すべての回答を乃木将軍が与えてくれると感じた。


 歓迎会は順調に進んだ。

 出し物の間には間がおかれ、互いに干渉をしないような配慮がなされた。

 その間に参加者の会話が弾んだ。

 菊子のアコーディオン演奏は最後であった。

 勇ましいラマルセイエーズの曲も会場の熱気に馴染んだ。

 八重は乃木夫妻の表情を見逃さなかった。 それまで、にこやかに談笑をしていた夫妻が深刻な表情で演奏に聞き耳を立てている。

 夫人は目頭をハンカッチで押さえている。

 菊次郎が機嫌を損じたのでは不安になり、夫妻に近付こうとしたが、八重が留めた。

 八重は二人の深刻な表情を見て、案じていた事態が回避されたと気付いたのである。

 聴衆は菊子の演奏に惜しまなかった。


 菊子は演奏を終える直前に、市内を行進し、北に向かった時の村田と息子の岩熊の姿を会場の後ろに見た。

 岩熊とも視線を交わした。

 二人は菊子の演奏が終わる同時に深く菊子にお辞儀を会場を出て行った。

 菊子もお辞儀を返した。

 聴衆には菊子の会釈が聴衆の拍手に答える挨拶のように見え、会場は興奮のるつとぼと化した。

 乃木将軍は歓迎会開催に対する挨拶を、お国のために、しばらく頑張ってみることにしますと結んだ。

 彼の顔から、微笑みは憂鬱で険しい表情になっていた。

 八重も、それを見て一安心したという風情であった。


 翌日、謎がすべて解明した。

 実は日本に帰って以来、夫妻は二人の息子や、戦場では死地に追いやった若い兵士の後を追い死を考え続けたという。

 その頃から、不思議な音楽を夢の中で聴くようになったと言う。乃木将軍自身だけでなく奥様の静子夫人まで聞くとようになったらしい。

 将軍が西南戦争で軍旗を西郷軍に奪われた後に自死を考え続けた時があったが、雨音の妨げをくぐり抜け、ひょうひょうと風に乗り、薩摩軍陣営から聞こえる音楽を耳にした。断片的であったが、不思議と生き続けようと勇気が沸いたらしい。今夜まで不明のままであったが、やっと分かったと告白された。だが、あの田原坂の激戦地でアコーディオンを奏でていた人物については乃木将軍は頭を傾げた。

「電話口で村田さんの名前を聞いたことは」と久子が聞いた。

「そのようなことを話した覚えはない」と言うんだ。

「村田さんの話をしたが、さすがに村田さんが田原坂で息子を失ったことは承知していた。アコーディオンを奏でることが好きだったことは今夜まで知らなかったようだ。八重さんが毎日のように電話があり絶対に早まったことをするなと言われ続けたと乃木将軍は感謝していた」


 夜、村田が菊子を訪ねて来た。

 村田も西南戦争に出陣した時の姿にも戻っていた。村田は若い同行人を連れていた。田原坂で先立った息子の岩熊である。菊子がほのかな恋心を抱いた頃の美少年である。

 二人は菊子にお礼を言った。

 菊子は胸の中で私の方こそ岩熊さんに会えてお礼を言いたいと呟いた。

 しばらくの間、おいとまごいをと言い、二人は去った。


 翌朝、菊子の演奏の評判を聞き付けて、徳次郎がやってきた。

 そして次の企画もしたいが、出演をお願いしたいと頼むのである。

 菊子は、もう二度とアコーディオンの演奏はしない拒絶し、肩のコリをほぐす仕草をした。

 お茶を運んで来た久子が学生さんや別荘地に住むご令嬢に、今後は演奏を頼みなさいと徳次郎を誘った。

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