モノクロームとイノチの歌

@aeromane

モノクロームとイノチの歌

 私たちの信仰する神様は、本当のカミサマじゃない。


 この世界は自由だもの。

 強欲、姦淫、不義、殺人。

 望みさえすれば、あらゆる背徳が許される。


 響かせたいの。

 私の声を、歓喜の歌を。

 この素晴らしい世界に、イノチある喜びを。

 


   ◇


 その日、僕は少しだけ早く起きていた。

 身支度は念入りにしたと思う。浮かれた足取りで家を出ると、幾度となく踏み固められた道の凹凸が、あの時は妙にはっきりしていた。ねとりとした膜のような分厚い空気、雲の合間を流れるせせらぎと、薄い灰色の靄を湛えた大地を覚えている。

 とても、冷たい朝だった。

 体は火照っている。外気の冷え込みに負けまいとして、ではない。最近は妙に平和が続くから、僕ら民衆騎士の仕事は町の警護に留まっている。それでも、初仕事に胸が躍っていた。

 民衆騎士。鈍色の甲冑と揺るぎなき正義の紋章。

 その姿に憧れ、幼くして志願した。もう何年も前の話だ。見習いとなった後は一途に鍛錬を繰り返した。そんな自分を、ようやく全ての訓練過程を修了した自分の実力を、どこかで試してみたかった。

 僕は、基本的に、平和主義者だ。

 血気盛んな時勢は、しかし確かにあった。

 それがあの時かと言えばそうだろう。

 僕は平和を望みながら動乱に飢えていた。

 敵が欲しい。民を守るために戦いたい。戦争なんて丁度いい。誰かが攻め込んでくればいい。――邪な考えだと理解してはいたが、そう願わずにはいられない愚かな自分を否定することはできなかった。

 通い慣れた坂道を下って、普段は左に曲がる道を、今日は右に進む。町の中央から少し外れた広場、そこが初任地だ。訓練場の教官に昨日指示された。広場で何をするのか、と問えば、行けばわかると彼は答えた。

 春先の薄靄が立ち込める町に入り、程なくして、それらしき広場に至る。飾り気はなく、荷馬車の跡が縦横無尽に走っている。人影はない。教官の姿もない。仲間の一人もいない。

 その朝、僕は焦燥に駆られていた。

 何かをしなくてはいけないのに、することがわからない。炉に焼べられ時の満つるを待つつるぎのようなイマージュ。ひどく朦朧として、いくら息を吸い込んでも足りない心地がする。緊張だか興奮だか、初仕事だからといって、浮き足立っていたのか、

「おはようございます。待たせてしまいましたか?」

 ――不意に、その音が聴こえた。

 美しい声だった。魂を引き抜かれるほどに。

 恐る恐る、振り返る。

 ――声の主も、美しかった。

 薄靄に溶けて消える初雪の淡い肌。線は細くしなやかで、腰まで伸びる清廉でいて豪奢な銀髪が、控えめな深緑の外套に映えて眩しい。だが何よりも人目を惹くのは、左右で異なる色をした、蒼と翠に透き通った眸だろう。

「ふふ、驚かれました?」

 先ほどと同じ音色を、小さなその唇が紡ぐ。これは僕の中に一つの確信を生んだ。――ああ、この人でなければ、この美しい声は似合わない。

 目が眩む。身体はすっかり熱を失っている。こんな綺麗な人は知らない。知っていたら忘れるはずがない。

 だから、僕は彼女を知らない。

 懸命に絞り出した僕の声は、酷く不細工に感じられた。

「いえ、人違いではありません。私は貴方に会いに来たのですし、貴方は私に会いにきたのですから」

 言って、笑う。その微笑みに、何か大切なモノを奪われた。

 矛盾を美しいと思ったのはその時が初めてだ。

 少女は可憐だった。純真だった。妖艶だった。

「私をご存知ありませんか?」

 僕の返答がよほど意外だったのだろう。少女の蒼翠の双眸が、満月のように丸くなる。微笑みが幽かな、それでいて偉大な驚きに取って代わられた。

「……あまり有頂天になってはいけませんね。こうやって恥をかきますから」

 少女の言葉の意味が、僕はよく判らなかった。ほのかに紅く、照れたようなその顔の所為で、上手く耳に入らなかっただけかもしれない。僕は彼女の一挙一動を逃すまいと躍起になりながらも、自由な身体というのを全く失っていた。意味がわからない。今の僕なら、少女が飛べと言えば飛ぶし、死ねと言えば死ぬだろう。

 薄靄はいつの間にか晴れていた。雲間からは光の円舞が煌めき、二人きりの広場には春風が咲いている。

「では、改めまして。……こうして言葉を交わすのは初めてでしたね」

 朝焼けに梳ける長き髪、雪融けの清らかな流れのように。

 幼い唇、楽しげに、嬉しそうに、何もかもを知るように。

「私の名はシローナ。今日から貴方の主人になります。よろしくお願い致しますね、騎士様?」

 無垢な微笑み。その奥で、水晶で出来た瞳が揺れていた。


  ◆


 手続きは、本当にあっさり済んでしまった。

 最初からあの広場に呼ばれていたのは僕だけで、目的は僕と彼女が顔合わせをすることだった。僕にとってはいきなりの最終試験で、彼女にとっては間違いがないかの確認に過ぎない。民衆騎士としての最初で最後の任は、何とも呆気なく達成されたのである。

 あの後、彼女に連れられ訓練場に行くと、いつも世話になっていた上官と、その上官の同僚が数人と、より偉い上官が二人待っていた。

 上官たちは彼女――シローナと名乗った少女に――最上級の敬意を表して固まっている。強面の上官たちが、年端の行かない娘を相手にして、むしろ緊張に喉を枯らしているのはひどく滑稽に見えた。

 僕を手放すことに、彼らが異存を唱えることはついになかった。

 僕の方はというと、少女の要望を拒む理由は特に見当たらない。上流階級の者が護衛のため個人的に騎士を持つという話は、ないわけではないし、民衆騎士の大半は経済的に困窮した孤児院の出であるから、そういった貴族の申し出を断るはずもない。

 ……尤も、断る権利など僕にはないのだが。

 とはいえ、少なくとも生活は民衆騎士のそれよりよっぽど裕福になるし、何よりいざという時に国のため最前線で剣となり楯となり命を散らすこともない。――ああそうだ、僕は平和主義者なのだ。争いなんて、したくはない。

 人は変わるものだ。それが朝と昼の合間に起きることもあるのだ。僕の俄かな『血気』というものは、彼女との出会いですっかり治まってしまった。

 果たして僕は、晴れて彼女の騎士に、彼女だけの騎士と相成った。

 僕のように、貴族に迎えられた民衆騎士には、一代限りの特別な爵位が与えられる。これは下級の者にとっては不可侵な領域に、そういった者たちを招き入れるための、主として貴族の名誉と体裁を保つための措置だ。

 何せ元から位を持つ騎士というのは、貴族出身であるからして、民衆騎士とは一線を画した存在である。そういった連中は宮廷の護衛に就くことがほとんどだが、貴族がその真似事をする時には自身より下級の者から選ばざるを得ないと、そういう理屈だった。

 といって少女が僕を選んだのは、そんな理由だけではないようだった。


  ◆


 彼女の住まう屋敷は、流石に見覚えがあった。

 立派な建物であることは疑いようもなく、しかし華美すぎるきらいもない。

 この国の貴族は位が上がれば上がるほど装飾の趣味が悪くなるのだが、彼女の家はその点でいえば落ち着いているのだろう。

「とても良いお屋敷ですね」

「どうでしょうね。貴族の家だからって嫌っていたのではありません?」

 ……図星。後悔。

 先入観というのは恐ろしい。月並みな僕の言葉には、辛辣な返答がよこされた。

 なるほど透徹した目で見れば、そこは温かみのある家だった。ただ妙に手入れされた庭の草木や意味のないような噴水というのは、間違いなく僕の趣味ではなかったが。

「それでも好いてもらわねばなりません。貴方も、今日からはここで暮らすのですから」

「……はは、参りましたね」

 正門を抜け、庭を過ぎ、屋敷の玄関へと彼女に導かれる。

 使用人の数は思ったほど多くはないらしい。すれ違うたびに彼らと交わす挨拶具合から、どうやら彼女の家は貴族然とした貴族ではないということが判ってきた。

 自らの位を誇りに思っているが、だからといって他者を蔑むこともしない。私は偉い私はエラいとがっついていない。人は平等ではない。なればこそ上に立つ者は優雅たるべきであると、これは誰の言葉だったか。

 屋敷の中に入ると、天窓から日の穏やかに差し込む吹き抜けのロビーが出迎えてくれた。右側にある階段を上がって二階へ、通路を右に曲がって二部屋ほど過ぎた部屋へと少女に案内される。

 空き部屋だった。

 広い部屋だった。

 大きすぎる寝台と、年代物の家具と、高そうな調度品がそこここに配置されている。

 窓は見えなくなるほど磨かれていて、窓掛けの布も柔らかそうだ。

「家財は屋敷の使いに運ばせますが、宜しいですね?」

「ええ、それはもう。ご自由に」

 僕の部屋には物がなかった。荷物といっても、僕の所有物なんて着替えの服くらいで、机、椅子、寝台、箪笥は宿舎の備品だ。……ああ、あとは鎧と剣があった。

「あの、宿舎の部屋にある荷物は」

「騎士団の備品でしょう? 替えの服以外は。そう伝えてあります」

 ……どうもしっかりし過ぎている。『僕』拉致計画は、相当に用意周到であったらしい。

 その計画の首謀者は、状況の急激な推移においてけぼりの僕を傍目に、実に楽しそうである。

 部屋の奥に行って窓を開けると、何の冗談か、彼女の指に薄翠色の小鳥が留まった。

 その時、初めて彼女を詳しく見ることが出来た。

 確かに彼女は大人びた雰囲気を纏っていたが、見た目には僕より若かった。幼さという曲線の美しさが、彼女の華奢な四肢や首筋によくあしらわれている。

 長い髪は細やかだった。透き通るような金砂のそれは、光に触れると銀に煌く。といって厭らしい華美さはなく、少女の可憐さが全てを柔らかく包んでいた。

 雪という花があるのなら、きっと彼女がそうだろう。

 恐らくは十四か十三、ともすれば十二だった。尤も、幼さという点では僕だって人のことは言えまい。十五になって一人前と認められたばかりだったのだ。僕自身が大人になったと意気込んでも、周りの評価は違ったかもしれない。

「その、ところで、どうし」

「――『あの』とか『その』とか、いつまでそう呼ぶつもりです? 私にだって名前があります!」

 突然の剣幕に驚いて、指の小鳥が飛び去った。拗ねたような声色に言葉が詰まる。

「あの、いや、その」

「……」

 ああ、やらかした。

 間違いなく不機嫌。むくれた顔も可愛いと思う僕はどうかしているが、それはさておき。

「し、シローナ……さま、」

「さま、は余計。身内にまで様サマ呼ばれては疲れます」

 いや、そういう訳にも、いかないのではないだろうか、この場合。身内って。

「…………」

「わ、かりました。ではシローナ」

「はい」

 一転。屈託のない笑顔。

「シローナ」

「なんでしょう、クローグ?」

 唖然。

 これはいけない。

 まず声にやられている時点でいけない。

 まるで天使に誘惑されているような、向こうは誘惑していることに気付いていない様子で、しかし実は意図的であるような。

 ……もしかしなくてもエラいのに捕まったかもしれない――そんな僕の感慨は決して外れてはいなかったのだが。

「いえ、……僕の名前、知っているのですね」

 今朝方は惚けていて、名乗り返すのを忘れていたはずだ。

「当たり前でしょう。尤も貴方のことは、ずっと前から存じていましたけれど」

 彼女の言うその先を聞きたかったのだが、その辺りで荷物が届いて、新たな僕の部屋での会話はそれで途切れてしまった。


   ◆


 彼女の父親と、使用人の長という人に紹介され、その日の晩餐で僕の歓迎会をするという流れになった。遠慮はしたが、彼女の父親が是非にと言うのでそうなった。

 振舞われたのは見たこともないほど豪奢な料理の数々で、確かに美味しかった。

 行儀作法を知らない僕が冷や汗をかいていたこともあったが、しかしそれらは美味しいだけで、腹に溜まるのは薄暗いどろどろしたモノだけだったと記憶している。

 晩餐を終え、部屋に戻ろうとすると彼女に呼び止められた。

「食事は口に合ったかしら。ふふ、そうでもない? ……次は私の部屋に案内します、付いて来て」

 彼女の部屋は、屋敷の裏庭に面した側にあって、部屋というよりは一つの家だった。

 促されるまま中に入り、豪華だが奥ゆかしさのある家具や内装に感心していると、彼女がぱたんと扉を背中で閉めてしまう。

 かちゃり、金属の音がした。

「余計な気苦労をさせましたか?」

 それは、晩餐のことだろうか。

「……そんなことは」

「変に構えないで。ただでさえ無理矢理連れて来たのだもの、あまり気を使われると私が惨めになります」

 妙な響きが、その声色にはあった。

 彼女は、ここに至って初めて、落胆の色を覗かせていたのだ。

 ――途端、朝から僕を覆い隠していた緊迫感が見る間に瓦解する。

 何だ、彼女がこれでは、一体どうしたものか。

 その時の僕は、こみ上げてくる笑いを抑えるのに必死だった。

「な、なんです、笑うところですか、今の」

 ……抑えられていなかった。

 まったく可笑しな話だ。例えば子猫を拾ってきたとして、それが一夜で懐く訳がないのに、彼女はそれで落ち込んでいる。

 妙に大人びているくせして、そんなことで落ち込めるほど純心なのだ。あは、ははは。だから可笑しい、――だってそれでは、まるでただの少女ではないか。

「……むう」

 あんまり僕が笑うので、さすがの少女も頬を赤らめる。

 程なくして、笑い過ぎて腹も痛み出した頃合だったか、

「あ…はは、そうですね。あまり慣れないもので、大変でした」

 先の問いかけに、正直に答えた。

 きょとん、という顔。

 そして少女は、何故だか、嬉しそうに微笑んだ。

 その後は、この屋敷で生活する上での規則や、彼女自身の生い立ち、立場、今後僕がする仕事の説明などを聞かされた。驚いたのが彼女の家のことで、何でもこの地方を治める領主の分家筋であるらしい――この一件で僕は世間知らずと彼女に認定された。

 母親は幼い頃に亡くしたというが、兄が一人いて、今は都の宮廷で役人として勤めているとのことだ。

「そうそう、貴方に渡す物がありました。今日のために用意させたのですよ」

 言って彼女は、部屋の奥の方へと僕を連れて行った。そこには天蓋付の大きな寝台と、アンティークな机が鎮座している。机の上には、真新しい細長い木箱があった。

 中には、つるぎが納まっていた。

 一角獣の角を柄にあしらった、なるほど幼い少女を守る騎士には相応しい逸品だろう。

 片手でも扱える、細く長い両刃の刀身、彼女の家の紋章らしきが刻まれた鞘、重厚、壮麗であって、儀礼用だが実戦にも耐え得る。正直、僕の身に余るような業物だ。

 ……うん、それはいい。それはいいのだが、

「コレ、ホンモノですか?」

 と、僕は真白な柄を指して言った。

「さあ? 知らないわ、角は貰い物ですから。でもね、大切なのは気の持ち様です」

 さっぱりとした、それでいて含みのある少女の返答。ユニコーンの角の真偽とか剣自体の素晴らしさとか、それとは別に、この剣を僕に渡すという意味。

「どうです、受け取ってくれますか?」

 少女は、試すように訊いてくる。

 それはつまり、彼女の騎士になることを、自分の意思で誓うか、ということか。

 まったく、卑怯とはこのことである。

 状況的に逆らえない。事後承諾だし、実際もう僕は彼女の所有物だ。貴族と民衆上がりの騎士侯、この関係はもう覆らない。逆らって何になるか、不利益しか生まないだろう。

 そして、そして何より、……その双眸が、卑怯だ。

 僕が期待を裏切るはずがないと確信したような、純真なその微笑みは。


   ◆


 後に聞かされたのだが、彼女は随分前から僕のことを見掛けていたらしい。

 彼女は常日頃から、父に貰ったという双眼鏡で高台から町並みを眺めるのが好きなのだそうだ。

 高台と言うのは町の外れにある丘のことで、そこには廃墟となった教会がある。廃墟となった経緯には明るくない。町から丘へ向かう道の途中には乗馬場を始めとした民衆騎士の修錬場があるのだが、なるほどそれなら彼女が一方的に僕を知っていてもおかしくない。

 きっと、見つかる訳にはいかなかったのだろう、――教会に行っていることは家の人にも内緒だったらしい。

 とにかくその教会に忍び込んでは、窓から景色を眺めるのが少女の趣味だった。

 そしてその日も、僕は彼女の趣味に付き合わされていた。

 昼なのに薄暗い。教会特有の、列挙され整頓された長椅子の片隅。一応服の汚れは気にするのか手巾を敷いて、そこに少女は行儀良く座っている。

 彼女がねだるので、僕自身の幼い頃の話をした。話をして、何だか損をした気分になる。

「呆れました。貴方、訓練しかしていなかったのですね」

 隣に座る僕の方へ乗り出す不満げな顔は、霞夜の三日月のように澄んでいた。

 少女は、上流階級の間で『フレラメイゼの聖女』とか『天使の調べ』と持て囃される歌姫だった。

 どころか、この国で知らぬ者はいないほど有名で、それを知らなかった僕は碧色の砂粒並に貴重だった。

 まあ実際、町を護ると言いながら町の事を知らないでいた僕にも問題はあったのだ。

「実直そうな方だとは思っていました。でも世間知らずとは思いませんでした。少しでも世情に耳を傾けていたのなら、私の名を聞かないことはなかったでしょうに」

 言って彼女は立ち上がり、深緑の外套をはらりと僕に押し付け、正面の祭壇の方へ歩を進めた。

 次いで僕も立ち上がろうとすると、そこに直りなさい、と親猫が子を見るような目付きで射抜かれる。

 丈の長くない簡易なドレスの裾を、野花を摘むように広げ、彼女は軽く膝を折った。踊り子が舞を舞うときの礼ではなく、それはまるで荘厳な儀式の始まりだった。

 十字架の下、聖母の下、白い少女はステンドグラスの極彩色に濡れていた。

「――ああ、では復讐です。溺れさせてあげましょう。私なしでは、生きられないように」

 小さく深く吸いこむ息。彼女以外の呼吸を許さぬ、その一瞬。

 周囲の雑音を掻き消すような、音の無い音。

 その歌声は、世界を透明に塗り変えた。

 その歌声は、空でなく琴線を震わせた。

 その歌声は、優しく、冷たく、激しく、意思を持たず、風のように吹き抜けた。

 その歌声は、心を満たし、満たすことで消し去り、消えることを許さなかった。

 廃墟の教会から町にかつて響いていた鐘の音が、蘇ったのかと感涙した者だっていたはずだ。

 屈辱と憧憬。崇敬と畏怖。それは、人が何に対して抱く感情だったか。

 静寂という雑音が、息を吹き返す。

 歌い終えた彼女の、水晶で出来た双眸が、僕の姿を無機質に映していた。

 彼女の前で、僕の喉は動くことを恥じて、まったく麻痺している。

 そうして、どれほどの時が、流れたか。

 逃げ出したくなるような衝動に抗い、これでもかと踏み止まって、僕の口はようやく動いてくれた。

「どうして……僕、なのですか?」

 騎士。彼女の騎士。

 単なる護衛に留まらず、その身を、その意思を、その魂の全てを捧げ忠誠を尽くす者。

 彼女ならば、僕より立派な騎士などいくらでも、

「人にはね、どこか欠けていないと、辿り着けない地平があるのよ。昔の聖人サマには人間臭いし、お伽話の英雄たちは己の身が可愛くないお馬鹿さんばかり」

 彼女の話は、この頃から回りくどかった。

 人間である聖人が、理不尽で困難な試練を乗り越えるからこそ感服し、無謀で命知らずな挑戦を踏み越したか者こそが英雄と呼ばれる。

「でも私たちの神様は違う。全てを知り、全てを有するなら、それこそ何もないのと同じでしょう? 全てがあるから、全てが欠けている。それではダメよ、完璧じゃあつまらないもの」

 こつり、こつり、こつり。

 靴の音が妙に響く。放心しきった僕の心に、彼女のか細い指が伸びてくる。

 少女は言った。耳元で、囁くように。


 だから、貴方には悪魔になってほしいの。

 よくあるでしょう、契約よ。

 私に力を、貴方には魂を。

 ――そう、とても簡単な話。

 私の全てをあげるから、私の願いを叶えて。


 僕たちの、契約の始まりだった。

 この胸を、永遠に締め付ける玲瓏な言霊。

 きっと履行される、約束された未来絵図。

 何を言われているのか、その時は全くわからなかった。

 わからないけど、意味は判った。

 その言葉には魔力があった。

 僕を悪魔という彼女こそ、実は魔女ではないかと疑った。

 ……今でも疑っている。よりむしろ、今ならはっきりと判る。

 人は彼女を天使と呼ぶ。

 僕は彼女を悪魔と思う。

 だからといって、少女に天使と悪魔が同居しているのではない。彼女という天使こそが、彼女という悪魔なのだ。――その矛盾、歪さこそが、シローナの美しさだった。

「どうして……僕、なのですか?」

 蒼い水面に、黒い人影が揺れている。

「あら、簡単よ」

 翡翠の檻に、一人の道化が捕らわれている。

「だって貴方、優しい顔をしているもの。とても綺麗。とても素敵よ、まるで悪魔の被る仮面のようで」

 血の滴りを肌に感じる。僕を優しいと、頬を撫でる細指は刃物のよう。

 ……ああ、正直まいった。

 僕が抗えるはずもなかったのだ。出会った瞬間に陥落させられ、正常な思考なんて瓦解している。

 そうだ、最初から判っていた。

 彼女が飛べと言えば飛ぶし、死ねと言えば死ぬ。

 その時点で、僕はもう壊れていたのだ。

 ――契約を。その願いを。

 悪魔になろう。彼女が、そう望むのなら。


   ◆


「ねえクローグ? 貴方、文字は読めますの?」

 背中越し。何を話していいかわからず、後悔と背徳の感情に包まれていた僕に、小さく震えた声が届く。柔らかすぎる寝台と肌との絹擦れが、彼女が上体を起こしたのだということを教えてくれた。

「み、民衆騎士の時に、そういう教育もされました、けど」

「……けど、なあに?」

 ゆらり。白くしなやかな腕が絡まる。

 長い髪が、右の耳朶、頬に触れて、全身の熱を奪っていく。

 半身を起こした彼女は、悪戯に、子猫のように、背後から僕の首筋を甘噛みした。

「…―っ、」

 白く痺れる。そのしどけなさというのは、僕の許容できる範囲を軽く超えていた。

 体はあの歌声に、心はこの少女に。

 破瓜の微かな余香は媚薬のようだった。

 もう後戻りなど出来はしない。蒙昧な僕の頭でも、それくらいは理解できた。

 透明な夏の夜空を満月が染めている。屋敷に音はない。窓の外、驟雨の痕に浮かぶ裏庭の景色は影絵のように現実味がなかった。

 ようやっと彼女が離れてくれると、僕はとりあえず自分の部屋に戻ることに決めた。

 ここにいては色々と拙い。

 僕は彼女を拒絶することはしないが、しかし他の誰かに僕らの関係が漏れてしまったら事だ。形式上は、僕はあくまで彼女の騎士に過ぎない。

「クローグ、これを私に読んで聞かせてくださいな。でなければ眠れないわ」

 だというのに、当の彼女はまた勝手なことを言う。まさしく子供のように無邪気だ。といってそれに逆らえないのだから、僕はよほどの莫迦か阿呆だ。

 手渡されたそれは薄い冊子で、何度も読まれたような癖がついていた。古い伝承だった。忘れ去られそうになった物語を、誰かが愁えて書き留めたものだった。

 彼女は言っても聞かなさそうだったので、仕方なく僕は冊子を捲った。


 少女がいた。少女は歌が好きで、毎日歌っていた。

 悪魔がいた。悪魔は歌が好きで、少女の歌を気に入った。

 悪魔は言った。じきにお前は人を殺す、その歌で人が死ぬ、その歌で争いが起こる。

 少女は言った。それは酷い、私は歌うのを止めねばならない。でも止めたくはない、歌は私の全てだ。

 尤もだ、悪魔は言った。お前の歌に罪はない。お前にも罪はない。お前は歌いたいだけだ、歌は歌われたいだけだ。

 その通りだ、少女は言った。

 では歌わせてやろう、巻き起こる争いは私が抑えよう。だが一つ、また一つ争いを収める度に、お前の体を頂こう。初めは脚、次いで腕、中身、そして光、最後に音を。その間、お前は決して死なない。頭だけになろうと決して死なず、歌を歌い続けるだろう。

 それだけか、と少女は訊いた。

 それだけだ、と悪魔は答えた。

 それでは死んだら歌えない。私はずっと歌いたい。

 では体の後に、魂も頂こう。そうすれば、お前は死んでも歌えるようになる。

 そうしたら、私は何になるの?

 人でなくなる、私と一つになる。

 貴方は、歌が好き?

 もちろんだ。共に歌い続けよう、イツまでも。

 そうして、契約が結ばれた。

 争いが一つ消え、二つ消え、両の手の指を超えるほどの争いが起きては消えていった。

 少女は歌い、その度に失った。始めは足、次いで手、中身、そして光、最後に音を。

 体を全て無くすと、今度は魂さえ無くした。

 彼女と悪魔は、一つになった。

 季節が一つ廻り、二つ廻り、両の手の指を超えるほどの季節が訪れては廻っていった。

 その歌声は、今も止むことはない。

 黄金の眠る岩の上、少女が独り、舟人たちを惑わせながら。

 その歌声に罪は無く、その歌に意味は無く、その調べに、きっと終わりはなく。


「綺麗な話でしょう?」

 遠く、白い少女は影絵の夜を眺めている。

 彼女に掛かってはこの話は綺麗らしい。僕は寒気しかしなかった。

 この物語に、ではない。

 僕がココにいるという、その意味に。

「ずっとずっと、死んでも歌い続けるなんて私には想像もできないけれど。ええ、だからこそ」


 ――一瞬でいい。その一瞬で、私はあらゆるモノを凌駕してみせる――


 幼い少女の、真っ直ぐなその願い。

 僕という悪魔を飼う目的。彼女にとっては、僕はそのための手段に過ぎなかった。


   ◆


「私にとっては、歌は二番目よ。一番はこの景色。ここからの景色」

 廃墟の教会の窓から、少女は町を見下ろして言った。

 昼下がりの町並みは、平和という活気に満ち溢れている。

 秋空は高く雲は遠く、そよ風が木々を優しく撫でている。

「ではどうして、目を潰せなんて」

 私から光を奪え、と。

 少女がその口で言い放った言葉が、僕にとっては不思議でならなかった。


 だって、少女の翡翠の瞳は、初めから光を宿していないのだ。


 神から歌声を奪った代償に、彼女に与えられた罪の痕。

 左右で異なる色の瞳を持つ者は、時としてそうした障害に見舞われる。

 とはいえ、少女は何も失ってはいない。

 少女にとって、翡翠の光は最初から存在しなかった。

 それが彼女の知る唯一の世界の在り様だ。人がどれほど憐れんでも、彼女が持ち得ない何かの有難味を理解する日は訪れない。

 だが、もしも今ある光の全てが、少女から失われたとしたら。

「……死を知らなくては、生きることの喜びなんてわからない。大切なモノは、失われるからこそ価値がある」

 僕を見ず、窓からの景色を愛でるように、少女は風を受け入れていた。金砂の髪は銀に煌き、薄暗い教会の中にあっても少女は雪のように白い。

「この景色が消えたら、私は絶望するでしょうね。絶望は深い方が良いわ。人の命は、死んでいる方がずっと長いもの。だから生きている時間は、濃密じゃないと嘘よ」

 蒼い瞳は生を、翡翠のひとみは死を見つめている。少女は、きっとそうやって生きてきた。

 廃墟の教会を、やんわりと抱いていた風が止む。

 髪を軽くかきあげて、少女は淋しそうに笑った。

「恐ろしいでしょうね。光のない世界、想像もつかない。手探りで、或いは音を、或いは人を信頼しないといけない。いいえ、信じるしかない。ああ、ああ、……なんて酷い世界」

 絞りだした声。目を細め、窓の外を見やる彼女は、寒さに凍えて、本当に怯えているようだった。

 こつり、こつり、こつり。

 彼女はこちらに歩いてくると、祭壇の上にひょいと腰掛けてしまう。手巾を敷くのはもちろん忘れない。

 かつて神父が厳かに儀式を取り仕切っていたその場所で、背徳の徒はステンドグラスの極彩色に濡れていた。

 初めて彼女の歌に触れた時の衝動が、僕の胸の中に蘇りつつあった。

「貴女は、聖歌も歌いますよね?」

「ええ、歌うわ。吐き気がするけどね。……どうしてそんなことを聞くの?」

 僕が見上げる先、彼女の背後に君臨するラテン十字に、彼女はそこで気付いた。

 ああなるほどね、くすりと可笑しそうに少女は嗤った。

「神様と張り合う必要なんてないわ。いるとしても滅多に口を出してこないし、いないと思えばいないのだから」

 三日月のように幽かな微笑みは、しかし直ぐに曇ってしまう。

「……恐ろしいのは自分自身よ。世界は自分がいなくても回るけど、自分がいなければ世界は存在しないもの。だから恐れるのなら、自分自身を恐れなさい」

 胸に手を当て、感情のない人形のような顔で、蒼い瞳が僕を射抜く。

 信じるモノを間違えるな、と彼女はそう言った。

 僕たち二人の間に限っては、一番が自分、次が相手、それ以外に何もない。

 それは決して覆らない。彼女の意思は、もう僕の意思でもある。……だから、きっと。

 少女はもう一度、振り返って十字架を見上げる。

 聖母が彼女を見下ろしている。薄く積もった白雪の髪が、神の威光を民に知らしめる芸術の色に染まっている。

 じいーっと不遜な目付きでしばらくそれを見ていたかと思うと、

「ねえクローグ? 一つお願いがあるのだけど」

 ちょいちょい、と人差し指においでおいでされる。

 ……他に誰もいないのに耳打ちなんて意味ないと思うのだけど。

「はあ、そんなことを言わなくてはいけないのですか。誰に見せる訳でもないのに」

「いいから言うことを聞きなさい。こういうのは、きちんと形にしないとダメなの」

「この前は気の持ち様とか言っていませんでした?」

「…………」

 眼力。無言の圧力。たまらず目を逸らす僕。

 それにしても、これは彼女の度胸もいよいよ賞賛されるべきだろう。

 わざわざこの場所で、背徳の儀を執り行おうなどと、他の誰に出来ようか。

「……こほん。ではいきますよ?」

 十字架の下、聖母の下、ステンドグラスの極彩色に濡れて。

「誓いを此処に。シロナターリエ・ド・フレラメイゼの名の下に。汝は我が僕にして我が主。我に願いを、汝には我が魂を」

 互いに額を合わせ、目を瞑り、両の手を絡ませながら。

「誓いを享けよう。我はクローグ、汝が忠なる騎士にして汝が主、且つ汝が望みを叶える者。汝に願いを、我には汝が魂を。――我らが誓約、裏無きことを此処に」

 その二人。

 少女と悪魔が、永久の契りを交わしていた。


   ◆


 そうして、その日がやってきた。

 屋敷を抜け出して、廃墟の教会に着いたのは明け方だった。

 風はなく、雲もなく、沈みそこなった半月だけが寂しそうに浮いている。

 白と黒の鮮やかな雪景色の中を、僕たちはまるで恋人のように寄り添って歩いてきた。

 麓の町並みはもうすぐ動き出して、すぐに活気に溢れるだろう。

 遥か彼方に聳える雪傘を被った稜線から、静寂という名の幕が揚がっていく。

「私は、この景色がとても好き」

 何時もの窓辺で、少女は白い息を零した。

「その所為で、私の中で歌うことが一番になれないの。私の中にもう一人の私がいて、その子はこの景色が邪魔だって散々喚くの。でもね、本当に大切なモノは、自分で壊してはいけないのよ。それって、自分で自分を壊すことでしょう?」

 こつり、こつり、こつり。

 十字架の下に、白い少女は歩を進める。

 彼女の歌ったこの場所で、契りの言葉を交わしたこの場所で、僕は彼女の目を潰す。

 生きとし生けるものを見つめてきた、その蒼き瞳を。

 生きながらにして、死を、命の裏側を、その先を、少女が見渡すために。

「どうしても、止める気はないですか」

 くすり、少女は嬉しそうに笑った。

「優しいのね。貴方は本当の優しさを知っている。翼の折れた小鳥を、■してあげる優しさを」

 血の滴りを肌に感じる。僕を優しいと、頬を撫でる細指は刃物のよう。

 何もかもが何時かの写し。僕と彼女の時間が、ここに集束しているようだった。

「乱暴な交わりは、私に後悔をさせるためでしょう? 『さあこんな非道い男は捨てろ、今すぐ捨ててしまえ』って。貴方は自分でわかっているもの。貴方はきっと、私の願いを叶えてしまう。だから」

 だから、……この日が来ないことを、どれだけ望んだか。

 僕自身の手で、彼女を恐ろしい世界へとやってしまうこの日が。

 彼女の願いを叶えたいという自分自身を、どれだけ呪ったことか。


 ――それでも、この日が、やってきたのだ。


 豪奢な装飾の鞘を捨て、剣を構える。

 人の心を捨て、この身に悪魔を成す。

「お別れね。お日さまも、お月さまも、あの素敵な町並みも。……最後に、貴方の顔をよく見せて」

 頬に触れる細い指に逆らわず、綺麗な顔、蒼い瞳、最後になるだろうその姿を、脳髄に焼き付けた。

 出会ったあの日と変わらない、生ける人形のような美しさ。

 相変わらず、僕はその翡翠の檻の中にいる。

 捕らわれた黒い人影は、揺れる蒼い水面の中で、何か別のモノに変わった

 その瞬間。

 白い少女は、笑っていて、泣いていて、嬉しそうで、怯えていた。


「ああ、怖いわ。とても怖い。あ、ああっお願い、――奪って」


   ◆


 その時のことは、良く覚えていない。

 記憶には薄靄がかかっている。

 ぐちゃり、びちゃ。

 彼女の声だけが、美しいその声だけが聞こえる。

 薄靄は紅かった。血の味しかしない。

 よくわからない。ぬるま湯のような何かを浴びて全身が焼けている。

 よくわからない。よくわからない。

 大方彼女の叫び声があまりに大きかったものだから、町の誰それにでも見つかってしまったのだ。

 悲痛の叫びさえ、彼女に掛かっては鈴の音のように澄んでいた。

 いくら背けども、恐れずとも、彼女の歌には神が宿っているのだ。

 廃墟の教会から町にかつて響いていた鐘の音が、蘇ったのかと感涙した者だっていたはずだ。

 僕がこの世の果てみたいな牢獄にゴミのように打ち捨てられているのは、きっとそんな訳だ。

 出来すぎた展開に苦笑する。

 紅く染まった剣。一角獣の剣。彼女が僕に授けた剣。

 その意図を今更ながら把握した。

 聖処女の守護者たる一角獣は、存外に獰猛で、捕えるには若い処女をおとりに使わねばならない。

 そのおとりがもし処女でなければ、その角で貫いてしまうという。

 ……あの業物こそ、彼女の願いの結晶だった。

 暗い世界に、彼女を独りきりにさせるのは辛かった。

 でも今の僕にはどうすることもできはしない。

 だって、もう動くのもつらい。

 まず心がつらい。

 彼女と離れているだけで、生きた心地がまるでしない。

 これは知らなかった。

 ここは暗くて、嘘みたいに空っぽだ。

 何もない。これが死だ。こんなにも身近で、こんなにも遠い。

 僕はしかし生きている。

 生きながら死んでいる。

 死にながら生きている。

 表と裏、それをまさに感じている。

 ……これが彼女の望んだもの。

 これが彼女の手に入れたもの。僕が彼女に与えたもの。

 誰にも負けない、僕たち二人の全て。


 ――白い少女は、透明という色さえない、このイノチというものを歌うのだ。


 ◇


 その日、僕は何時もより少しだけ早く起きていた。

 何をするでもなく鳥の骸のように寝そべっていると、男が二人、石畳の床を歩いてきた。

 彼らは乱暴に檻を開いて、僕の髪を頭の皮ごと引き千切ろうとした。

 だが不幸にも皮は剥がれず、僕は男の屈強な腕に持ち上げられ、自分の足で立たねばならなかった。

 男たちは、僕の見知った格好をしていた。

 民衆騎士。おそらくは僕の先達だった。

 くすんだ血の臭いのする手枷を嵌められる。

 両脇をしっかり二人に固められ、僕は渋々と彼らの要求に従い歩き出した。

 石畳の床を音もなくゆったり進み、見上げる先には額縁に収まるように四角に切り取られた眩いばかりの景色が広がっている。

 光に近づく、近づく、ふわふわと体の輪郭が溶けていく、ふわり、ふわり、その一歩が重い、支えられていなければ倒れそうだ、ふわふわふわ、ふわり、ふわり、足と腰が実はもう千切れていて、胴体が辛うじて土台に乗っているだけなのだろうかと僕は疑った、それくらい僕の体は滅入っていた。

 質素な土の道。弱弱しく僕の脚が立っている。

 幾度となく踏まれ踏み固められた道の凹凸が、あの時は妙にはっきりしていた。

 随分と久々に外の空気を吸った。

 とても冷たい朝だった。

 そこにあることを気付かせない、透き通った硝子の空気。見えないそれが草木にしとりと沁み込んでいる。

 遠く町並みは静けさに満ち、未だ目覚めの兆候を示さない。

 黎明の名残る高い筋雲を、新しい一日の息吹が押し流していく。

 暁の遥かな稜線は、情緒に溢れる柔らかな香りをしていた。


 人がその生を終えるには、うってつけの空だった。


 僕はこれから町で晒し者にされ、町の者に石を投げられ、血気盛んな若者に痛めつけられ、年端のいかない娘に罵られ、遠くに嘆きの遠吠えを聞き、頑強で荘厳が皺を蓄えた老人の、あの愚かな者を見下すを溜息をつかれるのだ。

 ところが長く掛かってようやく町に辿り着くと、確かに人々は集まっていた。集まって騒いでいたが、町は先ほど遠くから眺めたような静けさに満ちていた。音という音が聞こえなかった。

 石を投げられた。痛めつけられた。罵られた、はずだ。

 だが何もかも、無音なのだ。

 嘆きの遠吠えは上がっているのだろうか。

 偉大な老人は溜息をついているのだろうか。

 わからない。

 僕は道を埋め尽くすほどひしめき合う人々の間に、人垣で出来た小さな道を、武装した二人の騎士に引きずられて歩き行く。

 終点に、腕の良さそうな執行人が斧を携え鎮座していた。

 一代限りとはいえ、騎士侯すなわち貴族の身分である僕は、火刑や絞首刑を免れるらしい。どうでも良い話ではある。

 だがこれも、陳腐さは別として、僕と彼女が共に在った一つの証明だ。

 民衆がどよめいているのが見て取れる。

 首吊りだ、火あぶりだ、磔だ、八つ裂きだとでも叫んでいるのだろう。ああ、神に抗った者の結末が磔刑なら、それはこの上なく運命的で素晴らしいかもしれない。

 耳が聞こえないかわりに、他の感覚は研ぎ澄まされていた。

 醜く顔を歪めた女の口の臭いを嫌悪した。

 空高く舞う禿鷲の、瞳の筋が絞るのを目撃した。

 怒号が大気を震わせているのを体感した。

 体の奥深くに燻ぶる諦観の味を堪能した。

 だというのに、何も聞こえない。

 うつ伏せに寝かされる。動きを封じるために、腕と脚と胴体を強靭に固定される。

 聞こえない。聞こえない。

 観衆の不快なざわめきも、五月蠅い怨嗟の声も。

 聞こえない。聞こえない。違う、受け付けない。

 僕の耳には、もうそんな意味のないモノは聞こえない。

 聞こえない。聞こえない。


 滑り落ちる大刃の囁きも、


 ―――――――――――――――――


 首から先が地面に落ちる音も。


 僕の耳には、もうそんな意味のないモノは聞こえなかった。

 僕の体が首から血潮を噴き出している。

 僕は音も光もない平原にいる。

 さようならイノチの表側。


 溶けていく


 消えていく





 何もかも、世界が無くなっていく。

 




 聴こえている


 遠くで 遠くの方で


 淋しそうな 歌声が 響いている


 さあ 手を伸ばそう あの少女に また出会うために

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モノクロームとイノチの歌 @aeromane

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