The two and a half hours.(にごたん短編集)
みら
黒い背中は涙に濡れて
第23回にごたん参加作品
お題:<雨>【初めての化粧】【ジビエ】【日常】
空が泣いていた。
これは、あいつの旅立ちを何かが悲しんでいるのだろうか。
そう考えたところで、彼――柳は首を横に振った。
柄でもない。住職の読経に背を向けるように、幼馴染である楠の葬式会場から抜け出しながら、彼はひとつため息をついた。
「何を感傷的になっているんだろうな、俺は」
そうつぶやきながら、空を見上げる。
――何が、楠の死を悲しんでいるというのだろうか。
彼女の親しい人たちが悲しんでいるのだろうか。
いや、だとしたら、空に響く道理がない。
空が悲しんでいるのだろうか。
いや、詩的表現としてはありだが、いまいちぴんとこない。
では――。
神、か。
いや――それは、それだけは絶対に、ありえない。
一人の人間の死を悲しむ神など、居やしない。
もしも存在するのなら、この世にあのバケモノどもは生れ出てきていない。世界が壊れたりなどしてはいない。人々の安寧な日常がなくなったりなどしてはいない。
楠があのバケモノ――管理番号2129〈怪鳥〉に殺されることもなかったのだ。
柳が、死化粧を施された楠の姿を見ることもなかったのだ。
「そういえば、あいつが化粧をしているのなんて、見たことなかったな」
思い返せば、柳の記憶に在る楠は、どれも化粧をしてはいなかった。彼の記憶の中に居る彼女の姿はすべて、彼を兄のように慕う少女の姿で――化粧をするような年ではなかった。
それもそうだ。彼女と仲が良かったのは子供の頃で、彼女が化粧をするような歳になった頃にはとっくに疎遠になっていたのだ。
とくに、彼が怪物を狩る仕事について、彼女の日常と自分自身の日常が乖離してしまってからは、会うようなことはないだろうと思っていた。
次に、そして最期に会うのは自分が死ぬ時だと。
そう、思っていた。
「……あいつが先に逝っちまったか」
それでも、死体が原型をとどめていて、死化粧を施せる程度だったのは幸いだったのだろうか。死んでいるにも関わらず、幸いなどという表現をあてるのもおかしいが。
柳は屋根のついた入り口から一歩、水滴がごう、と音を立てる中へ傘もささず踏み出していった。
水滴が彼の髪を、コートを濡らしてゆく。水滴の暗い冷たさが、少しばかり心地よかった。
――ふと、柳の懐で携帯電話が鳴った。
仕事用の携帯である。
ということは、一応自分の相棒ということになっているヤコあたりか。考えながら、柳は電話をとる。
「どこほっつき歩いてるんですか、柳さん!」
――通話ボタンを押した瞬間、ヤコの怒鳴り声が耳に響いた。若干の頭痛を感じながら、柳はため息混じりに言葉を返す。
「ちょっと、野暮用でな」
「まさか、女の人のところですか?」
「……ある意味では正解で、ある意味では不正解だ」
「ちょっと、意味がわかりません」
「どうでもいいってことだ。ところで電話をくれたということは、そういうことか?」
「ええ、その通りです」
ヤコの声色が、真剣なものになった。
「〈怪鳥〉、出現しました。現在、機動隊と協力して周囲の封鎖と〈怪鳥〉の封じ込めを行っています。端末に位置を送りますので、至急、現場に急行して下さい!」
「……獲物は?」
「私と一緒に現場にあります!」
「了解した。5分、持たせろ」
電話を切り、送られた画面を確認する。
「……オフィス街、か」
人が居そうな場所である。携帯を懐へしまい直し、ひとつ深く息を吸い――。
「急ぐか」
――柳は、跳んだ。
分厚い雲の下に広がる闇に溶けるように、常人ではありえない脚力をもって、柳は駆けた。ビルの壁を跳び、屋根を駆け、アスファルトを蹴り、端末が示す地点へと一直線に向かう。
数分としないうちに、柳の視界に、一方向から逃げてくる人の流れが映った。
それは、〈怪鳥〉が居る場所から避難する人々の流れだった。
柳は人の流れが来た方向へ、さらに足に力を込めながら跳び――。
「見えた」
その視界に、鳥の姿を納めた。
真っ黒い羽毛を持ち、体躯は翼を広げずとも人の大きさをゆうに超え、その嘴や爪は人の身を裂くには十分なほどに鋭く、ぞっとするほどに濁った、赤い目を持つ、〈怪鳥〉の姿を。
「柳さん!」
その鳥から少し離れた位置に、柳へ手を振るスーツ姿の女性、ヤコが居た。
柳が視線を返すと、それに気づいたヤコは、手に持ったケースを開いた。ヤコの身長よりも長いケースである。
中にあったのは、鞘に収められた一振りの太刀だった。
まるで鉄の塊かと見間違うほどに大きな太刀であった。
ヤコはそれを無造作に右手で掴みあげる。
「いきますよ。受け取って下さい!」
タイトスカートであることもお構いなしに、ヤコは左足を大きく上げながら、振りかぶる。
「どっせええええええええい!」
そして、およそ女性が出していいものではない叫び声とともに、その大きな太刀を空へ豪快に放り投げた。
「その掛け声はどうにかならんのか、お前」
空から落下しながら、柳は空中でその太刀を受け取り、着地と共に鯉口を切って太刀を抜き、鞘を無造作へ投げ捨て――。
「〈狩人〉柳 宗一、参る」
オフィスビルの屋上にとまっている〈怪鳥〉へ殺意を向けて、飛びかかった。
ここまで飛び上がってくる者なぞ居ないと、油断していたのだろうか。不意を突かれて驚いたかのように、〈怪鳥〉は翼を広げた。
「飛ばさせるものか!」
逃がさない。柳は鋭く、太刀を一閃させる。
捉えた。
そう思ったが、柳の刃は、〈怪鳥〉を斬るには至らなかった。
〈怪鳥〉は広げていた翼を咄嗟に閉じ――その、黒い羽に、刃が全く立たずに弾かれた。
「羽は固いか」
あの羽は、斬れるような代物ではないようだ。まったく、一体何から作られているのか――などと言っても、人間の常識が通じるような怪物ではない。柳は舌を打ちながら、弾かれて泳ぐ太刀を腕力で引き止める。
そこが、隙となった。
〈怪鳥〉は、固い羽で覆われた翼を振るい、柳の身を薙ぎ払った。
まるで鈍器で殴られたような重たい一撃が、柳の胴体にもろに当たり、吹き飛ばされる。
油断した。
肋骨の一本か二本は持って行かれたか。骨が軋んで折れる音と、内蔵に衝撃が伝わった鈍い音を聞きながら、しかし、倒れている場合ではないと柳は空中で体勢を立て直し、向かいのビルの壁に着地し――。
そこへ、〈怪鳥〉が追撃をかけるように、柳に飛びかかった。鋭い爪が、柳へ伸びる。
柳はそれを、左腕で受けた。
左腕を覆う布が裂ける。
そのまま爪が腕へ食い込もうとする。
――しかし、血は流れなかった。
柳の左腕は、義手であった。
「これなら、お前も動けないな?」
義手でそのまま、柳は〈怪鳥〉の足を掴む。
お前が居ては、戦う術を持たない誰かの営みが死ぬ。
お前が居ては、今日を精一杯笑おうとした誰かの日常が死ぬ。
お前が居ては、人が死ぬ。
だからお前は、人の世に居てはならないものだ。
〈狩人〉の、人ならざる力を与えられた、怪物を屠る者の力をもって、狩るべきものなのだ。
「――これで、終わりだッ!」
柳は、下から切り上げるように、太刀を振り抜いた。刃が、〈怪鳥〉の腹部を深く裂く。
赤い血が、裂いた場所から吹き出した。
そして、〈怪鳥〉の体から力が抜けた。墜落し、その身を地面へと叩きつけられる。
その数拍後、柳は〈怪鳥〉の亡骸の隣に着地し、絶命したその化物を見下ろしながら、太刀についた血を振って払った。
空を見上げ、ひとつ深く、息をつく。
空の涙が、彼の身に降り注ぎ、冷たく彼の背中を濡らした。
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