3「過去」

 こちらの予定通り、ヒロちゃんは眠ってしまった。うん、いとも簡単に。やっぱりヒロちゃんは私にふさわしくない。だって、こんなに素直なんだから。諦めも悪いんだから。

 仕込んだ睡眠薬の量は味に違和感が出ないぎりぎりの量なので、どこかに移動させるような余裕はない。そっと首を持ち上げ、その下に膝を入れる。だって騙したんだから、これくらいのことはしてあげなきゃ可哀想。

 ねぇ、私は本当にヒロちゃんと一緒にいて相応しい存在? 聞いてみたい、けど聞けない。今は寝ちゃっているからだけど、もし起きていたとしてもどうだろう? だって私は、ヒロちゃんと同じ場所にはいない。歪んでしまった。突然歪んでしまった。あの日、から。あの時、から。日常の風景からつながっていた、あの非日常に会ってしまった、あの時から。

 そう、あの日。私は中学生だった。中学一年生だった。新しい環境、セーラー服を着て登校する毎日にも慣れた、あの頃だった。

 それは帰り道。いつも一緒に帰る子が先生に呼び出されてて、だから独りで帰ることになったのだ。あの日その子を待っていたら、非日常は私を迎えに来なかったのだろうか。いや、それでも起こった出来事の片方は、迎えに来ていただろう。まあ過去のことは今から言ってもどうにもならない。そんなことは言われなくても解っている。

 それは後ろから来た。そっと、忍び寄ってきていた。私はそれに気が付かなかった。気付いていたら、どうなったのだろう。想像したくもない。だって、そこにつながるのは「壊れなかった日常」、ではないのだから。

 それは、私の口を後ろから押さえた。ぐっと、手を掴まれた。車がものすごい勢いで、正面から走ってきた。その車は私のすぐ横で停まった。私は持ち上げられた。肩に腕が通され、簡単に持ち上げられた。いきなりのことで、私は何も出来なかった。体が動かなかった。車に乗せられ、猿ぐつわとして口の周りに布がまかれた。車は動きだした。そして、それからしばらく経って、ようやく気付いた。私は、誘拐されたんだって。

 連れて行かれたのは工場のような場所だった。ベタ、なのかな? 多分廃工場で、誘拐したグループのたまり場だったのだろう。そこにはたくさん、携帯電話があった。私から家の電話番号を聞いて、リーダーらしき男が、電話をかけていた。何度も何度も、電話をかけていた。

「お前、嘘はついてへんやろな?」

 リーダーは私に聞いてきた。家にかけても、誰も出ないらしい。嘘はついてないのに。お母さん、お父さん、何で出ないの? 私が大切だったんじゃないの? まあその時、もっと深刻な事態が起こっていた訳だけど。その時当然私は、知らなかった訳だけど。

「もういい、帰れ」

 何度目にかけて通じなかった時か、彼は諦めたように私に言った。正直、間が抜けたような感じだった。俺達のことは口外しないように、とだけ言った。口外しないようにと言っても、私は彼らの名前を知らないのに。私を帰すのは、このままここに置いておくと仲間割れの危険性があるかららしい。私を家に帰すデメリットよりも、私をここに残すデメリットが大きいとは変な話だった。その意味は、私が裏の世界に足を踏み入れてから知った。男ばっかりいる中に、女の子が独りいたら、仲間割れの危険性がある。特にそのリーダーはあくまで誠実さを貫きそうな人だったから。

 そんな訳でリーダーらしき男が、私を誘拐した現場へと送ってくれた。私は、一つだけ聞いた。

「もし電話が通じていたら、いくら要求するつもりだったの?」

「まあだいたい、一千万くらいか?」

 つまり私は、一千万円分の価値がある存在なんだ。その時そう感じた。うん、だから今の私は生きている。生きていけている。

 家に着いたのは夜遅く。普段だったら帰らないような時間だ。どうやって言い訳しよう、友達の家で遊んでいたとでも言おうかな。そんなことを考えながら、私は玄関の扉を開けた。その時、気付くべきだった。歯車がその時から、狂っていたことを。

 そんな回想を私がしていると、ヒロちゃんがぼんやりと目を開けた。

「ヒロちゃん、おはよう」

「……どれくらい寝てた?」

「だいたい、三十分くらいかな」

 あの日から、私に関わる人間は少なくなった。まともに関わってくれるのはこの、ヒロちゃんだけだった。私にとってヒロちゃんは、希望の灯火みたいなもの。私という灯の一部を燃やし続けてくれる、松明みたいなもの。

「ねぇ、聞いてくれる?」

「……何を?」

「私のこと。──ねぇ、さっきヒロちゃんは『家族の人はお出かけ?』って聞いたよね。でも、私にもう家族はいないの」

 全部、話してしまおう。この記憶を、ヒロちゃんに植え付けてしまおう。この無茶苦茶な記憶を持っているという悲劇を、ヒロちゃんにも分けてあげよう。そう、私は自分勝手なのだ。

「私の家族はね、殺されたの」

「……誰に?」

「一応被疑者は捕まって、その人は死刑になった。けど私の知らない人。だから、その人が犯人なのかは解らない」

 だって、見てないから。科学捜査で「指紋が一致した」「血液反応が出た」って説明されても、そうなんだと思うだけで「この人が私の家族を殺したんだ」って実感は湧かなかった。憎しみも、どこかに逝ってしまっていた。

「……全員?」

 家族全員、殺されてしまったかということなのだろう。私は頷く。

「うん、全員。父も、母も、弟も。私だけ、助かった。何故だと思う? その時私は、誘拐されていたのよ」

 ヒロちゃんは黙ってしまった。うん、しょうがない。そんな偶然、普通はありえないもの。私だって、信じられなかったもの。

「それで私は、何が善で何が悪だか解らなくなった。だって誘拐されてなければ、私は助かっていなかったのよ? でもその誘拐犯が凶悪だったら、私は何をされていたのか判らない」

 あの男が言っていた意味も、今では解る。黒色に触れた後なら、よく解る。けど、それでも、本来絶対に悪とされていたものが、私の希望の灯になったのだ。それは変わらない。

「微妙なバランスが、私を助けた。けど失うものも多かった。その場にいなかったということが、私への疑念を生んだ。誘拐犯のおかげで私は助かったんだから、そのことを言う訳にはいかなかった。その誘拐が、悪だったとは思えなくなってしまっていた。アリバイを説明出来ないことが、私への疑念を深めた。しょうがないよね、それでも私は『誘拐されていた』っていうことを話そうとは思わなかったから。警察の事情聴取も受けたけど、その部分は黙秘で通したわ。下手に嘘をつくと、裏を取られた時疑惑が大きくなるから。それに、話を合わせてくれるような人も、もういなかったから。私の周りにはもう、他人しかいなかった。一応『犯人』は別に捕まったけど、離れてしまった人脈はそのままになってしまったわ。もしかしたら心の中ではまだ、私を疑っているかもね」

 そんな中、親が残してくれていた貯金が尽きてしまった。しょうがないから私は法律で処罰されるようなことに手を出した。脱法ドラッグの売買もした。──殺人事件の遺族は警察を通じてお金をもらえると知ったのは、私の世話をしてくれていた人物が逮捕され、私も事情聴取を受けた、その警察署に貼られていたポスターからだった。私に殺人犯の疑惑がかかっていたので、誰も教えてくれなかったのだ。疑惑が晴れた、その後も。そんな理由で余計、表で私と関わる人物は減り、一方で裏で関わる人間もその時を境にいなくなってしまったのだ。

「だから、高校でも独りだったのか」

「そう。高校に上がったとしても噂は入り込んでくる。だから私は自分から話し掛けなかった。誰かに話し掛けられても、心の中のどこかで疑う日々だった」

 もう誰も、信じられなくなっていた。人間の暗い部分を存分に味わったから。

「じゃあ、──」

「ヒロちゃんは、ちょっと違うかな」

 もちろん最初はどこか疑っていた。しかしヒロちゃんは、根気強く話し掛け続けてくれた。私もいつのまにか、心を許すようになっていた。きっかけは判らない。ふとしたことだとは思う。

「それで、ヒロちゃんは、これでも私を好きでいてくれる?」

 どう、返してくれるのだろう。

「当然だよ。それがキミなら、それでいい」

 やっぱりヒロちゃんはやさしいな。でもそれが本当なのかは判らない。だって、ヒロちゃんはやさしいから。それが表なのかは判らない。「本当だよ」って言ってくれても、その言葉が偽りかもしれないから。

「こんな、汚れた私でも?」

 それが、キミなんだろ? そんなヒロちゃんの言葉でふと、私は全てを預けたくなった。もし騙されてたとしてもいい。だって、もうここにしか希望はないのだから。この希望を振り払っても、他に希望はないのだから。

 私はヒロちゃんの頭の下から膝を外し、ソファーで横になって添い寝するような形になった。そして、正面からぎゅっ、と抱き締める。

「あのね、もうヒロちゃんしか頼らないけど、いいかな?」

「大丈夫。もうキミなしでは何もかもが見えなくなってしまったから」

 頼り、頼られ。どうしようもなく終わっている人生の私が頼られるなんて、どうかしてる。私はヒロちゃんを変えてしまったんだ、確かに。

「私ね、あの日の誘拐犯に『一千万円の価値がある』って言われたから、生きてこられたんだ。だって一千万だよ? だからその価値がゼロになってしまう日まで、私は生きていようと思った。死んじゃうことはいつだって出来るけど、生きるってことは望んで出来ることじゃないって」

 意味は多分違う。だけどそれが私を支えてきたのは事実だ。あの時の彼は刑法で処罰されるようなことをしていたけど、裁判所よりも私にとっては幸せにしてくれた存在だ。

 うん、それでいいと思うよ。ヒロちゃんはそう言ってくれた。あはは、もうすっかりヒロちゃんを狂わせちゃった。

「私達って、付き合ってる?」

「まあ、今日からでもそういうことでいいんじゃないかな」

 お願いだから、裏切らないでね。次はもうないんだから。

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