カフェラテ紛争

蒼真まこ

第1話前編

「カフェラテをお願いします」

 里奈は注文を確認に来たウェイトレスにそう告げた。

『いつものお願いね』

 と言ってみてもいいぐらい、自分は馴染みの客になっているような

気がするが、気恥ずかしくてなかなか口にできない。


 いつも頼むカフェラテが運ばれるのを待ちながら窓から街中を眺めてみる。

10階建てのビルの8階にあるそのお店は里奈のお気に入りのカフェだ。

外を眺められるほど大きな窓ガラスがあり、その窓側の席が

里奈にとっての『指定席』である。

街を歩く人々がまるで指人形のように小さい。

それらを見下ろしていると、天上の世界に自分はいて

悠然と人を眺めているような気分になる。

指人形の人々を眺めながら、お気に入りの店と席で大好きなカフェラテを飲む。

わずかな時間であるが、それは里奈にとって必要な時間であった。


 入社三年目の里奈はもはや新入社員とは呼べない。

かといって、有能な社員と言えるほどの活躍もまだできていない。

入社三年目というのは微妙な勤続年数ではなかろうか。

上司や先輩方、そしてこの春入社したばかりの新入社員。

上と下に挟まれながら、里奈は自分なりに頑張っているつもりではある。

しかしワインの澱のような、どんよりとした感情が

心の奥底に溜まっていくのもまた事実である。

 心の奥底に溜まっていくものを少しでも払い落としたくて

里奈はこのカフェにやってくるのだ。


「お待たせ致しました。ごゆっくりどうぞ」

 カフェラテがテーブルに運ばれてくると、里奈はカップを取り、

そっと一口飲む。

ほぅ……。

思わず安堵の溜息がもれる。

ここのカフェラテは本当に美味しい。

凍てついた体と心が一気にほぐれたような気がして、里奈はそっと体を

伸ばしてみた。


 体と心が少しだけほぐれると、ある視線が里奈を捉えているのに気がついた。

だれ……?

全く知らない人。年齢は里奈よりも少し上ぐらいと思われる。

スーツ姿がなかなか様になっている、サラリーマン風の男性。

テーブルにはコーヒーカップとノートパソコンが置かれている。

ノートパソコンを覗き込みながら、時折こちらをちらちらと見ているのだ。

下卑な視線ではないようだが、かといって恋という名の熱にうかされた

眼でもないようだ。

 わけのわからない視線に苛まれるというのは、いい気分ではない。

里奈の憩いの一時に、とつぜん横槍を投げ込まれたような感覚である。

なかったことにしたいと思ったが、その後も視線は感じるので

やがていたたまれない気持ちになった。

今日はもう帰ろう……。


 カフェラテを飲み干すと、荷物を持って席を立ち上がった。

レジに向かって歩きながら、自分を見ていた男性を横目で観察する。

ノートパソコンにはグラフなどが載っていたので、どうやら仕事をしているようだ。

里奈が横を通りすぎても、緊張したような素振りはない。


 なぜを私を見ていたの?

そう問うてみたかったが、それで余計な争いが起きるようなことがあれば

あのカフェに通いずらくなる。

 きっと今日だけよ。だから今日は我慢しよう。

自分で自分を慰めるように里奈は呟き、そのまま帰路についた。


            

             ◇


 翌日の仕事帰り、同じように馴染みのカフェに行くとあの視線の男性がいた。

しかも今度は里奈のお気に入りの席に今まさに座ろうとしていたのだ。

「ちょっと待って下さい!」

 思わずそう声をあげてしまった。視線の男性が里奈のほうに振り返る。

 しまった……。

 そう思ったが、今更なかったことにはできない。

慌てる心を落ち着かせながら、努めて冷静に話しかけてみる。

「急に声をかけてしまって、ごめんなさい。

 できましたら、そちらの席を譲っていただけませんか?

 いつもその席に座るので、そこじゃないと落ち着かないものですから」

 できるだけ温和なほほ笑みを浮かべるよう努力して

視線の男性にお願いしてみたのだか、返ってきた言葉は

素っ気ないものだった。

「だめだね、できない」

 即答である。

 カフェなどの飲食店の良い席は、スタッフが案内しないのであれば

通常は『早い者勝ち』である。それは里奈にもわかっていた。

しかし、せめて少しぐらい考えてくれたっていいものではないか。

「今、君は『できましたら』って言っただろ。

 だから、できないって答えてる。言葉の意味、わからない?」

 立ち尽くしていた里奈に向かって、男はぶっきら棒に話す。

「だいたい、君は昨日もここの席に座っていただろう?

 だったら今日は他の席に座ればいいじゃないか」

「ちょっと待って」

 男の言葉に里奈の心中にある疑問が湧き上がる。

「今、『昨日』って言いましたよね?

 昨日私をじろじろと見ていたのは、ひょっとして

 その席を早く空けてくれ、と思っていたとか……?」

「今更気がついたの?意外と鈍いんだね。

 それとも、自分は男に見つめられるぐらい魅力的な女性だと思った?」

「なんですって……!」

 あまりに失礼な男の言葉に、愛想笑いを浮かべていた里奈の顔は

みるみる険しいものとなった。

「ああ、悪い、悪い。ちょっと言い過ぎだったかな。

 でも、ちょっと自意識過剰気味じゃない?」

 含み笑いを浮かべながら話す男の言葉と態度に里奈は憤慨した。

「誰もアンタみたいな男に見つめられたいと思ってないわ。

 人をじろじろと見ることは失礼にあたらないか、と言いたいのよ」

 万が一、自分を見る男の視線が恋に焦がれる眼であったとしても、こんな男

こちらから願い下げだ。里奈は心のなかでそう吐き捨てた。

「そうか、それもそうだね。よし、わかった。 

 今日のところはこの席を譲ろう。昨日の失礼の詫びにね」

「結構よ。今日は別のところに座るからいいわ」

 失礼な男から離れた席を確認すると、里奈はすばやくそちらに移動した。

その席は窓側ではないので、いつもの眺めを見ることはできないが

今は一刻も早くその男から離れたかったのだ。

 二人の言い合いに戸惑って立ち尽くすウェイトレスの姿が目に入る。

「お騒がせしてごめんなさいね。カフェラテをお願いできますか?」

 せめてもの意地で精一杯の微笑を浮かべながら、注文した。

そのほほ笑みに安堵したのか、ウェイトレスも微笑んだ。

「かしこまりました。少々お待ち下さいませ」

 何気に男のほうを確認すると、別のウェイトレスに何やら話しかけている。

あの男のほうもカフェスタッフに一応詫びをいれているかもしれないが

自分にもきちんと詫びてほしいぐらいだ。

自分も無理なお願いをしたかもしれないが、あの態度はあまりに失礼ではないか。


 カフェラテを飲み終え、少し心が落ち着くとレジに向かった。

失礼な男がいる空間から早く離れたかったのだ。

「お客様、お客様の代金はあちらの男性から先に頂いております。

 先程のお詫びの気持ちだそうですよ」

 少しは詫びの気持ちでもあったのだろうか。

しかし、素直に受け取る気にはなれない里奈であった。


「これ、受け取って」

 里奈は失礼な男の前に戻り、小銭をテーブルにおいた。

里奈が頼んだカフェラテの代金である。

「あなたに支払ってもらうつもりはないわ。きっちり返しておく」

 睨みつけるように声をかけてきた里奈の顔と小銭を

交互に見ていた男だったが、しばし考えた後に答えた。

「いや、これは受け取ってほしい。悪かったと思ってるんだよ。

 ちょっと虫の居所が悪くてね。少しばかり八つ当たりも入っていたと思うんだ。

 これでもいちおう、反省したんだよ?」

 やはりどこかに小馬鹿にしているような気がしないでもない里奈であったが

『いちおう』反省しているようなので、とりあえずはは許すことにした。

「代金はやっぱり受け取って。

 それより、貴方もこの席が『お気に入り』なわけ?」

「それもあるけど。

 ここコンセント差込口がすぐ近くにあるだろ?

 だから仕事の続きをしたいときにも都合がいいわけ。

 一息つきたいときに眺めが良いと気分も落ちつくし」

 男は窓からの景色を眺めながら答えた。


「そう……。ここに来る時間帯も似たような感じみたいね。

 なら、今後はお互いに『早い者勝ち』ってことにしておかない?

 さっき、私は貴方の後から来たのに『席を譲ってほしい』

 と言ってしまったものね。

 今後は黙って引き下がるようにする。 

 だから貴方も今後はやたらと睨まないでほしいわ」

「なるほど。恨みっこなし!ってわけだね」

「そうよ。この案いかがかしら?」

 里奈はあえて挑発的な笑みを浮かべながら話す。

「よし、のった!」

 男もにんまりと笑い、それに答えた。


かくして、おかしな『席取り合戦』が幕を開けたのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る