第2話

 目覚めたら流しに誰か立っていた。

 というより、その流しに立つ人物のぎこちない動作やうるさい掛け声(ハッ! とかエイッ! とか)のせいで目が覚めたのだった。クツクツと何かを煮る音も聞こえた。どうやら料理をしているらしい。この後ろ姿は――。

「……愛莉ちゃん?」

「あ、竹内さん! 起こしちゃいましたぁ?」

 翻るギンガムチェックのスカート。ぴょこんと元気なポニーテール。

 大家さんの孫娘、中学三年生の愛梨ちゃんが制服姿でそこにいた。

「お邪魔してます愛莉でぇす。お台所借りてまぁす」

「どうして愛莉ちゃんが俺の部屋に」

「竹内さん、私ずっと前からやってみたかったことがあるんですけどぉ」

「閉まってたよね? ドアの鍵」

「いいですか? ベタは承知で行きますよぉ?」

「行きますよじゃなくてドアの」

「『お帰りなさぁい! ご飯にする? お風呂にする? そ・れ・と・もぉ』」

「愛莉ちゃん、愛莉ちゃんストップ。ストップ。カームダウン」

「えええぇ? 陸上部は急に止まれませぇん」

 などと言いつつ満面の笑顔。この子って本当、いつも楽しそうだな。どんなのをどうキメたらこうなれるんだろう。

 ここ有明荘の大家、鷹山ウメさんは腰こそやや曲がっているけれどかくしゃくとしたお婆さんで、ゲートボールと菜園の世話と店子への説教が生き甲斐というアクティブな八十三歳だ。

 さすがはその孫と言うべきか、愛莉ちゃんもかなりバイタリティに富んだ女の子だなあと、俺はこうして会うたび引き気味なまでに思う。春にはスポーツ特待生として高校入学予定の逸材ともなると、やはり個性の輝きが違うらしい。

 手にした包丁を胸に抱くようにして、ああ良かったぁ、と愛莉ちゃんは俺の困惑を倍加させた。良かった? 何が?

「元気そうでホッとしましたぁ。私、埼玉の、お母さんの実家にいたんですけど、電話でお婆ちゃんから竹内さんが病気だって聞かされて」

「ウメさん俺の不調に気付いてたのか……。って、え? 愛莉ちゃん、まさか、それ聞いてこっちに戻って来てくれたの? わざわざ?」

「『ウチもとうとう事故物件かね』なんて言われたら不安にもなりますよぉ」

 あの婆さん帰省中の孫娘に何て電話を――。

 俺は布団の上で居住まいを正して愛莉ちゃんに頭を下げた。

「心配かけてゴメン。ただの風邪なんだ。もう熱も下がったみたいだから大丈夫だと思う。本当、ゴメンね、せっかくの冬休みなのに俺なんかのことで」

「全然、全然! ほらアレですよ、使命感? 竹内兄さんが病気なら妹分の私が駆け付けなければ! みたいな。……あと今、ちょっと向こうに居づらくて」

「居づらい?」

「あ、いえ! その、何ていうか……。ええとええと、あ、忘れてた!」

 何やらごまかした愛莉ちゃんは畳の上に正座して、三州瓦の二十枚重ねでも割れそうなお辞儀をしてみせた。

「明けましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いします!」

「あ、ああ。明けましておめでとう。こちらこそ」

 俺もお辞儀を返した。その時だった。恥ずかしくも情けなくも、盛大に腹が鳴ってしまった。

 形の良い眉をひょいと跳ね上げた愛莉ちゃんはくすぐったそうに笑いながら立ち上がった。

「お粥作ったから食べて下さい。少し早いけど『七草粥』ですよ。はい、どうぞ!」

「七草粥。そっか、ありがと……、う……?」

 湯気の立つ小鍋を覗き込んで、俺は苦笑いから真顔に戻った。

「……赤いんだね」

「ケチャップのせいですね」

 はい?



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