第13話 魔王
姫の下へと現れた、魔王のその姿は形容しがたいと言えば、確かに明言し難い。容姿や服装、体型は明瞭に表すことができるのだが、彼が常に放っている雰囲気や纏うオーラ。混沌とした幻影に覆われているかのように、その姿は不安定だ。形を成していないわけではない。不確定で、不十分なのだ。人ではなく、しかし魔物でもない。悪魔でもなければ、神とはかけ離れている。
故に、魔王。
統率の取れない魔を統べる、絶対の王。彼という存在はたったそれだけの認識さえあれば、何一つとしての間違いもなかった。
「さて、どうしてくれましょうか。この状況を、どうにかして治めなければなりませんね」
彼の声からは疲れが窺える。呆れ、とも違う。嘆きという種類のものでもない。緻密に編み出された音の調律。高音とも低音とも取れない声音が、その空間に震えた。
静寂とは無縁の、埃っぽくて寒い地下広場。
鳴り響く。つんざく、悲鳴のような音が。
鼻をつく。むせる、鉄臭い臭いが。
肌に伝わる。重い、戦いの証である衝撃が。
この場所は戦場となっている。誰の救いもなく、誰に対しての称賛もない。終わることなどあり得ない、目的の存在しない殺戮だ。
そんな非常時であるからこそ、魔王はゆっくりとその二人を眺める。
勇者と、そして一人の姫を。
「というわけで、姫。ここは一先ず撤退しましょうか」
「……あれ、魔王? どうして……。私……」
「いえ、いつも通りの姫で何よりです。何も、気になさらないでください」
今なお戦火は続いている。どういう形にしろ、幕引きにならなければ、無駄な血を流す結果になってしまう。強引には終わらせられない。豪快に止める手立ても持ちえない。
ここは、ただでさえ大きい瞳をさらに瞬かせている姫を連れ立って、逃走を図るのが賢いはずだ。もちろん、そう簡単に行くとも思っていないが。
「魔王、おまえはいつも俺達の邪魔をする……!」
「さて、邪魔をしているのはどちらでしょうか。私の目から見れば、勇者及びかの国が、姫の足枷になっているように感じますが」
「黙れ! 何も知らない癖に!」
「少なくとも、無知の国である貴方たちよりは、博識な方だと思いますが――」
瞬間にして、手遅れ。空間を乱す突風が吹いたかと思えば、勇者は剣を薙いでいた。
元より、手を伸ばせば届く距離で、互いに牽制し合っていたのだ。一度戦闘が起これば、どちらかが無傷では済まされない。剣の腕前を達人の域にまで昇華させた勇者の一撃ならば、尚のこと結果は分かりやすい。
つまり、彼はその一薙ぎで。
魔王の首を引き裂いていた。
「ウソ……、魔王!?」
その刹那ばかりの行動により、体液は噴出さなかった。あまりの速度にただ首と体とが離れていく、それだけの光景。
その一つの揺るぎない事実が、彼の死を表していた。
人でなくても、魔物でなくても。それが人の姿を取り、そしてそれが人のように喋っているのであれば、その一振りは有効に違いなかった。脳もあれば、血も通っていることだろう。瞬時に死にはしなくとも、致命傷には間違いない。人という体を成しているのであれば本来、そうでなくてはならないのだ。
しかし彼はその瞬間を見ている。胴体を離れていく頭。その表情が不気味に微笑んでいるのを。
一時、勝利を確信した勇者は、即座にその甘い認識を改めた。
改めざるを得なかったのだ。
「やはり勇者は強いですね。私の備えを、一撃とは」
その声が聞こえたのは、どこからでもない、勇者と姫が立ち尽くすその中心からだった。
死体、いや既にそこには亡骸はなく、あるのはただの形容し難い闇のみ。吹き飛んでいたはずの首も、斃れることを待つばかりの体も、多種多様でちぐはぐな闇に包まれている。
「こんなデタラメな勇者に挑んでいては、命が幾つあっても足りませんし、私たちはこれで退却とします」
途端、闇が広がる。暗室へ陽光が差し込むかのように、蠢く闇が暴発した。
一層濃い影が膨張する。やがてそれが、姫の身を包む刹那。
闇が煙のように霧散した。
「おい、逃がすわけないだろ」
もう二回、彼は携えたそれで漆黒を切り裂く。一撃、二突き。三度目の攻撃で闇の膨張が停滞を見せる。
「魔王、おまえさえいなくなれば……!」
歯を噛み締め、彼は幾度となくその闇を払う。纏わりつく闇に混じるのは、淡い光。叫ぶ勇者の身体、あるいは剣そのものから、輝きが生じ始めていた。
つまり単純な話として、白が黒に重なるように、光が闇を拭う。そこにあるのは、暴力と憤激だったが。
恨みと辛み、妬みと嫉み。憎悪を込めて影の一欠けも許さない。執拗な連撃は、やがて広がる闇を収束させる。集う闇は無い形を補うように補足し、補充を繰り返し、そして一つの人型を作り上げた。
「勇者が、聞いて呆れますね。そこまでに、欲望に忠実とは」
「黙れ。この最悪の王が!」
「どちらかと言えば、あなたが魔王向きかと」
「口を慎め――っ」
今度こそ、その剣は魔王を切り裂く、はずだった。剣身にして上背の三分の二。距離にして斬撃が魔王に直撃する間隔。外す余地もなく、当たらないわけもない。
ただし、それは斬撃を振るえばの話。
目の前には憎き魔王がいて。
そして可憐な姫が立ちはだかっていた。
「姫! 退いてください!」
「嫌よ。退くのは私たちじゃないわ」
「あなたは騙されています! とにかく、悪の王から離れてください!」
「悪いのはどっちよ。いきなり襲い掛かってきて!」
「姫は何も知りませんから……!」
「あんただって、何も知らないでしょ!」
語る彼女の瞳は、純粋そのもの。無垢であり、真っ白だ。それは直接彼女の表情を見ていない魔王でも分かる。短い間だが、しばらく同じ時間を過ごしているからこそ、彼女がどういった存在なのか、彼女がどういう性格なのか、そして彼女が何を大切にしているのか。
全てとは言わないが、その片鱗ぐらいは掴むことができる。
だからその生き様を見た上で、彼はこう思った。
彼女は、かの国でも、そしてここにいるべき人間でもないと。
「姫……、貴女はやはり無知すぎる」
生きる世界が、持っている価値観が違いすぎるのかもしれない。目の前にいる勇者とは話も噛み合わない。それこそが彼女らしく、そして尊重すべき点ではある。
恐らく姫の性格が変わることはないだろう。誰かを想い、そして自分を通す。
何も知らなくても、彼女はどこまでも強いまま。彼女自身の正統成長と言える。
だからこそ、連れ帰らせるわけにはいかない。
いつの間にか、勇者の臨戦態勢は解かれていた。距離を取った彼は剣を地に突き立てるように構え、そして苦々しい面持ちで正面を見据えている。
その瞳に宿すは哀憐、あるいは苛立ちか。
「姫、ここからは少し手荒にいかせてもらいます。あまり、これは使いたくなかったんですが、仕方ありません」
一言、錘のような呪詛を呟いた後、それは起きた。
眩く、全てを塗り替える白光。彼を中心として円を描く光の輪郭は薄汚れた床を走り、雷の如く速さで宙へと駆け上る。そしてその光線が浮かび上がると同時、輝きを失った床は再び明光に彩られる。
「一体なにが……?」
「姫、これを」
「……魔王、これって」
白が空間に生み出されていく中、魔王がそれを渡す。いつか姫に見せたその漆黒を。
混沌。黒と白が入り混じるその光景に怯える彼女は、差し出されたものを素直に受け取り、怪訝な表情を浮かべた。
何故、これなのかと。そう考えている時の表情だ。
「なに、特別意味はありませんよ。姫は未だ光に慣れ切っていませんからね。その傘は日除けにも使えます」
いつか中庭で見せた、黒よりも暗い一点ものの傘だ。自主的に命を守ってくれる機能だとか、勇者に対抗できる唯一の道具というわけでもなかったが、とにかくこれで最悪の事態は防ぐことができる。
ただ、そのことをいちいち姫に説明している時間も無さそうだ。
「姫、今から勇者がやろうとしていることに、心当たりは?」
「え? な、ないわよ。勇者の本気の戦闘なんて、見たのもこれが初めてなんだし」
「そうですか。姫、彼は今無差別な破壊を行おうとしています。言うなれば、自爆技ですね。この城もろとも、破滅の光で覆おうとしています」
「……! それって……!」
姫が言葉を呑むのも、それが何を意味しているのかが分かってしまったからだろう。次いで、血相を変えて彼女は続ける。
「それだったら早く逃げないと! 巻き込まれてやる義理も無いんだし!」
「ええ、そうですね。遠くに逃げることができれば、被害は受けないのでしょうが……」
姫の言うことは正しい。一帯に影響の及ぶ現象及び災いに関して、いち拠点に留まり続けることは得策とは言えない。手の届かない地点にまで逃げるか、その元凶を絶つことが、得策にして対応策なのだ。
ただ、それもあくまでも常識になぞらえて語られる対策に過ぎない。
「彼がそれをさせてくれるとも思えません」
彼のように存在自体が特別な場合、定石は通用しないはずだ。魔王たる自分にはない、神の御加護というものが彼らにはついている。
何をどう対応したところで、彼が引き起こす奇跡には敵わない。
「ですので、姫。お先にお逃げください」
「な……っ! 何を言ってるの! 魔王も逃げないと」
「私も一緒に逃亡を図って、一体誰があの勇者を止めるというんですか」
勇者は死なない。いや、その解釈は間違っている。
勇者は蘇る。首を捻じ切ったところで、彼の動きは止められず、頭部を粉砕したところで、もう彼の自爆からは逃れられない。
被害を最小に抑えるには、誰かが彼の行く手を阻むあるいは確実に手の届かない場所へと運ぶ必要があるのだ。
そしてそれができるのは、自分だけだろう、と。
魔王は当然のようにそう決断を下した。
「さあ、早く逃げますよ。このままだと全員が共倒れです」
「……でも」
不安だ、心配だ、と。彼女の瞳がそう訴えかけてくる。それは姫自身のことばかりではない。恐らく、彼女が案じているのは彼女自身以外のこと。
つまり魔王当人を気に掛けている。今、誰よりも狙われている自身を差し置いて、逃げることを躊躇っていた。
「準備は整った。これからこの城全域を破壊する!」
吼える勇者の身体は、純白の燐光に包まれている。手も足も、頭部を除くその全てが、消滅の光となっていた。
「あれが勇者の吐く言葉ですか……、姫」
「な、なに?」
「必ず、またお会いします。ですから、先に姫はお逃げください」
そっと、その額に指を近づけ、最小の力で小突いた。僅かに、姫がよろめいて半歩下がる。
それはまるで拒絶するように。まるで諦めさせるように。強引に、魔王は姫と距離を取った。
この時の姫は。
その時の少女は。
今までよりも、苦しそうに顔を歪ませていた。
「姫のことを頼みましたよ、四人とも」
そう小さく呟き、全身に力を籠める。別れを惜しんでいる暇はなかった。ここからは、時間と運との勝負になる。これが成功しなければ、全てが振り出しに戻ってしまうだろう。
「勇者。なにも貴方のお仲間だけの専売特許ではありませんよ」
「……なんの話だよ」
勇者の質問には答えない。その間も力を増幅。闇を水のように流体化、そして泥のように形をつくる。
「……! まさか――」
白銀を身に纏う彼がそれに気が付いた頃には、既にそれは出来上がり、深淵を覗かせていた。
それは、時計の形をしていた。
それは、扉の形をしていた。
それは、暗黒を暗闇に堕としたように、光一つ瞬かない、荘厳な門だった。
「空間移動……!」
「ええ、それに似たものです。もっともこちらに関して言えば、時空移動の方が正しいのですが」
扉を模した闇は、開け放たれたその空間から煙のようにその手を伸ばす。数は五つ。その内の一つが姫
の身体を覆い隠していく。
「魔王……っ!」
「姫」
彼女が何か言おうとしようとも、それを聞き届けることは既に叶わない。
苦渋と、そして絶望に染められたその顔を、魔王は受け止めて。
微笑み掛けることしかできなかった。
「――しばしの別れです」
「させるかよ――っ!」
希望の黒が全身を包み込んだのと、ほぼ同時。
魔王のセカイは、絶望の白に塗り替えられた。
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