隣の住人

 二ヶ月前のことです。私は職場の近くにあるマンションへ引っ越しました。

 初めての一人暮らし。家族に干渉かんしょうされずに気楽でいられることに浮かれてて。

 バス停や駅も近くて、コンビニなんかも充実していて便利な町ですし、バス・トイレ別1Kの部屋は一人で住むには丁度いい。家賃は四万。最上階の七階、角部屋で見晴らしも良く、屋根がない以外には優秀な物件です。

 こんな好条件だと、気になるのは――


「あぁ、事故もなくて全然問題ないお部屋ですよ」


 不動産屋はほがらかにそう言いました。

 出る、とか。やっぱりそういうのが気になりますよね。私は安心して入居を決めました。

 問題は一切ありません。まぁ、気にすると呼び寄せちゃうなんてことも言いますし、なんの支障ししょうもなく生活していました。

 ただ、一つだけ困ったことが。

 この間の台風でベランダの避難壁が破れてしまったんです。大人が楽に通れるほどですから、壁まるまる一枚破損していました。

 管理会社に連絡をしても、台風の被害はあちこちに及んでいて、修理の日まで時間がかかるとのこと。私は閉めたままの窓から、おとなりの部屋をそっと見ました。


 お隣。


 今の時代、ご近所付き合いって希薄きはくになっていますよね。私も、隣室の方へ引っ越しの挨拶あいさつはしていません。仕事へ出る時間帯などにも会ったことない。住んでいるのかすら知らないんですが、外から見る限りだと窓にカーテンがかかっていたのでご在住だと思います。

 修理が始まるまでは洗濯物を干すのもためらっていたんですが、いいお天気に外へ出せないのはもったいなくてベランダへ出てみることに。

 避難壁の破片はへんがお隣のベランダにも散っていて、そちら側のものは片付けられないからそのままにしておきます。「あぁ、もう。面倒だなぁ」とぼやきながら、破片をかき集めているとその中に紙が貼り付けられているものを見つけました。

 確か、私が入居した時はこんな紙は貼られていませんでした。ということは……隣?

 あまりジロジロと人様の家をのぞくのは良くないですが、どうしても気になってしまう。ちらりと見てみれば、お隣の窓とカーテンは締め切られていました。

 私はもう一度、手に取った破片を見ました。紙は、接着剤で貼られていたのでしょうか。しっかりとくっついているようです。

 とにかく、自分のベランダに散った破片はすべて拾い集めてまとめておきました。


 ***


 その日の夜。

 窓のかぎを閉めて、カーテンを引っ張って、就寝の支度したくをしながらテレビを見ていると、突然に窓ガラスを何かが叩きました。

 コン、という小さなノック。

 一度だけ、ハトがベランダに入ってきたことはあったのですが、〇時も差し掛かる夜更けに鳥が活動することはめったにないでしょう。

 不審は徐々に嫌な動悸どうきへと変わります。カーテンを開くこともためらう。

 強い風がガラスを叩いたんだろう、と言い聞かせて布団に潜り込みました。


 コン。コン。


 完全に寝入っていない耳に音が入り込む。

 確実に、ガラスを叩くノックが二回聴こえました。その、ゆっくりとした音はガラスを破らない軽めなもの。

 ベッドから降りて、カーテンの隙間を少しだけひるがえしてみます。


「………」


 ガラスに映るのは、夜の灯りで反射した私だけ。


「何よ、もう」


 口では文句を垂れながらも、安堵します。

 再び布団の中へと戻ろうとしたその時……


 コン。コン。コン。


 指の第二関節で叩くようなノック。耳に入る音には息が止まる。体が固まって動けない。動かないようにしている。

 この時、すぐに疑ったのは隣人です。壁がない今、お隣の誰かが窓を叩いているのではないかと想像がつく。しかし、最初のノックでは誰もいなかった。

 音の正体が分からない以上、ここは静かにじっと耐えるしかないのでは。いろんな思いを巡らせているうちに時間はすすんでいく。何もせずにやり過ごしてみる。

 でも、音が聴こえてきたのは、もうそれきりでした。

 翌朝。深くは眠れませんでしたが、カーテンを開けても窓には何もなく、ベランダは相変わらずでした。

 あの音は、私の思いすごしだったのかもしれない。隣人を疑うようなことをして罪悪すら浮かびました。


 ***


 修理には、やはりお隣との兼ね合いもありますので管理会社が事前に連絡をしていたそうです。手早く修理を行ってもらい、ようやく私も安心です。


「これで大丈夫だと思います」


 若い作業員さんは快活に言いました。


「本当に助かりました。ありがとうございます」

「もっと早く修理に行けたら良かったんですが」

「いえいえ。直ればもうなんでも構いませんよ」


 なんて世間話をしていたんですが、作業員の彼は少し歯切れ悪く「えぇ、そうですね」と呟きました。その浮かない顔は気になってしまうもの。


「……あの、何か?」


 問うと彼は慌てて笑顔を作ります。しかし、下手なつくろい方です。


「いえ、ちょっと……ここのお隣が、そのぅ……変なお宅で」

「変?」

「えぇ……まぁ」


 彼は密やかに言いました。そして、迷うように口を開きます。


「部屋のあちこちに、御札おふだが貼ってあったんですよね」

「えっ……」


 御札、と言えばどうにも気味の悪いものを想像します。

 おそらく彼も嫌な想像をしたんでしょう。引きつった笑いを私に見せました。

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