アスとミキ
「もうすぐ世界が終わるよ、ミキ」
唐突に、アスが言った。だから、ミキも「そうだね」と何の感情も込めずに言う。
「終わってしまったら、アスはどうするの?」
「終わってしまったら、もう何も残らないさ。『朝ごはんは何を食べようかな』とか『テストの範囲どうだったっけな』とか『昼休みは何をしようかな』とか『帰って何をしていようかな』とか。常に先のことや明日を考えていたけれど、それも全部出来なくなる」
「出来なくなる?」
アスの淡々とした言葉に、ミキは首を傾げた。すると、アスはちらりとミキを見て、呆れるように目を細めた。
「うん。だって、何も残らないんだから。思考も思念も。明日への期待も絶望も何もかもなくなる。なくなってしまうんだよ」
「ふうん……それはアスだけじゃなくって?」
「そうだよ。あそこにいるおばさんや犬、スーツの男の人、ケラケラ笑ってる小学生、屋根の上で呑気に寝ている猫。車も道路も建物も、全部。当然、家も学校もなくなるんだ」
一息つくと、アスは静かに言った。
「そういうことなんだよ、世界が終わるっていうのは」
ミキは黙って聞いていた。しかし、その顔は不服そのもので、もやついた心をどう言葉にするか考えるようだった。
「ミキは終わりたくないの?」
「いや……でも、もう少しなんとか上手く出来なかったのかなぁって思っちゃうだけ」
そのミキの願いにも似た言葉に、アスは「くはっ」と吹き出した。
「そうだね。もう少し上手く出来たらこんなことにはならなかったかもしれないね。でも、上手くいくように望んだら、多分、
そうでしょ? とアスは上目遣いにミキを見上げた。ミキの鼻筋を辿るように、その濃い睫毛の下にある黒の瞳を見つめる。すると、ミキは横目でアスを見下ろした。
「そう、なのかもしれないね……
ミキは自分の首元から鎖骨、胸までを撫でるように触る。そして、ぐるぐると絡み合った毛糸玉みたいな息を吐き出した。「はぁ」と水から上がるような声が上がる。
それを見て、アスも真似をしてみた。複雑に絡み合った毛糸玉みたいな、その中にもやもやと渦巻くような思いごと全部取り出してみると胸の中はすっと軽くなる。
「まぁ、でも、どちらでも良かったんだろうね、本当は」
ミキが言う。今度はアスが首を傾げた。
「どちらでも良かったんだよ。でも、上手くやろうとすると苦しくなることに気づいてしまった。だから終わろうとするしかないんだよね」
気づかなければ良かったんだと思う。それは互いに感じるたった一つの「悔い」だ。
アスは無念を表すように首を振った。あーあ、と楽観に嘆いて口を開く。
「――どうしたら良かったのかな」
「生きること?」
「そう。上手く生きること」
「テストの答えみたいに、例えば数学なんかは絶対的に答えが決まっているのだから、そんな風にどこか教科書に書いていて欲しかったよね」
「うん。『ここはこうしましょう』『これが正解です』『これは間違いです』……そんな風に書いていたら、
「でもね、そうやって区別されている世界だったからそう思えてしまうのかもしれないよ」
「うーん……」
ミキの言葉に、アスはなんだか気持ちが愉快になった。変な気分だ。言葉を交わしていると、あることに気がついた。
「どうしたの、アス」
「なんだかね、変だなぁって思えてきちゃって」
突然、腹を震わすように笑いだす小柄なアスを、ミキは怪訝に見つめた。
「いや、だって。『かもしれない』やら『だったんだろう』やら。実は期待していたみたいな。諦めが悪いというか。変なの」
「変、かなぁ……そっか。それじゃあ
「じゃあ、
アスは不安も何もない、静かで柔らかな声音でミキに問う。それがやはり、アスの心に未練が一つもないことを表していた。
ミキは逡巡する。じっくりと、途切れ途切れに思考の中を潜っていく。
示される答えなんか、自分の中のどこにもあるはずがなく、やはりそこは荒野のようだった。
「ねぇ、ミキ。
ミキの言葉を結局は待つこと無く、アスが言った。すぐにミキは首を横に振る。
「ううん。
「……そっか」
ミキの本心など分かるはずもなく、またアスの本心など分かるはずもない。どんなに信頼し合って言葉や肌を重ねていても、心までは交われない。成り代わることも出来ない。脳内を直接覗き見ることも出来ない。
触れた指から思いをつなげられたらいいのに。気持ちを共有できたら、どんなに素晴らしいことか。見る景色も違っていたのかも。
同じものを見つめて、いつまでも長く永く隣で呼吸し合えていただろうに。どうして、一つの個体として生きなくてはいけないんだろう。
そうして、叶いもしない願いを抱いて、ゆっくりと諦める。諦めて失くして終わる。
「……そろそろ、終わろうか」
「そうだね」
アスとミキは繋いでいた手を固く握った。強く強く交わろうと、思いを溶け合わせようと、力を込める。
「ねぇ、アス」
「なぁに、ミキ」
「私は、アスに会えて幸せだったよ」
「嬉しいな。でも、僕の方がミキと出会えて幸せだった」
二人は小さく笑いあった。握っていた手が更に強く固くなる。
視界が消えるまでは、世界は終わらない。息が止まるまで、世界は続く。音がなくなるまで、世界は存在する。
それが終わった時、終末を願う二人はようやくその望みを叶えることが出来るのだ。
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