人
だんめん
朝。通勤途中に見かけた。
何か、変に妙に無性に、それに魅入られることがあるでしょう?
例えば、川面に映るキラキラした陽の光。電車の天井にぶら下がった、活字と写真に溢れた広告。カップの側面に縁取られた茶渋。
そういうのとおんなじで、私はその日、唐突に魅入られてしまった。
多分、私が通りがかる前に行われたのだろう。
毎日通っている道、そこに植わっている木。名も知らない木だけれど、手入れされたのか、枝が切られていたんだ。
その断面に、魅入られたの。
どうしてだろう。
特別な思い入れなんてないのに、その枝の断面から目が離せなくなって。
滑らかで、若々しさを感じる淡い薄橙の色が目に焼き付いた。
「断面」というものを、意識して見たのは高校の生物の授業だったか。それくらい、無関心だったはずなのに。
私は、帰り際もその断面を見つめていた。
他の断面も見てみたい。
鉛筆、硝子、石……は手元にないから、とりあえず手近な文庫本を。
本は断面が三つもあるのだ。断裁された紙の束を眺めておく。何度も読み返しているからか、紙が歪に曲がっていた。
あぁ、なんか、綺麗じゃないな。
あの滑らかさがいい。
見たい。
見たい。
見たいの。
***
「ただいまぁ〜」
帰ると、彼が優しげに出迎えてくれた。
「おかえり。お疲れ様」
「うん、ありがと」
もう付き合って何年目だろう。一緒に住むようになって何年目だろう。
彼は仕事を二回は変えた。私も一回変えた。
彼氏彼女という括りは、もう当てはまらないくらい同じ空気を吸っている。
「今日のご飯は唐揚げだよ」
買い物袋から、割引シールの貼られた鶏もも肉を出す私。それを嬉しそうに見つめる彼。
「楽しみだなあ。俺、もう腹減ってさ」
そう言って、彼は背後から私の右耳を小さく噛んだ。
何年も同じ生活を繰り返しているのに、私も彼も飽きない。
「やだ、もう。支度するから離れて」
「うん」
彼はくすくすと笑い、リビングへ引っ込んだ。
一方の私は、くすぐったい気持ちを抑えてキッチンに立った。手を洗い、まな板と包丁を目の前に置く。
鶏もも肉は大きく、透き通った薄ピンクの色で。
私はその肉に包丁の刃を差し入れた。
ぐにゃり、と切れる。
あ、断面……。
ふと、そんな言葉が口からこぼれる。
肉の断面は、滑らかだけれど「断面」と言うには何か違う。
私が見たいのは、そういう断面なのか違うのか分からないものじゃなくて、こう……層になっている、木とか草とか、芯があって側面があって……。
「どうかしたの?」
リビングに引っ込んだはずの彼がきょとんと私を見ている。
私の目に彼の腕や首、足が映った。
「――ううん。なんでもない」
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