その美しいおみ足を僕にください

小川じゅんじろう

第1話 プリーズ・キック・ミー

「僕を蹴って」


 夏、セミが愛を叫ぶ季節だ。

 アスファルトとコンクリートの森、住宅街に鳴き声が反響する。そのうちの一軒家、二階の部屋の窓が開いていて、そよそよと風が入っていった。

 そこには一人の女子がいる。

 ブレザーの夏服を着た若い子だ。ショートの黒髪で、浅黒く焼けた肌をしている。綺麗、というよりもシャープな鋭さがある顔立ちをしていた。

 座布団の上に正座をし、所在なさげに部屋のあちこちに目を向けている。

 ものがあまりない部屋だった。格闘技の雑誌やトレーニングの本が入った棚と勉強机、折りたたまれた布団。ダンベルや腹筋ローラーなんかもあるが、軽いものだ。

 眉間にしわを寄せて、立ち上がる。長身だ。足がスラリと長く、全体的にスリム。筋肉質である。スポーツをやっているのだろう。

 彼女は頬に汗を浮かばせながらうろうろと部屋を時計回りに歩き回る。ふと立ち止まって雑誌を開き、歩きながら読み始める。キックボクシングを取り上げていた。

 格闘技など女子高生の間で流行っているわけはないのだが、彼女は熱心に読み耽っていた。 

 コラムや試合結果、選手の特集などにじっくり目を通していると、コンコンと扉が小さくノックされた。彼女はすぐさま雑誌を棚に戻し、座布団に座る。


「お、あ、はい。どう、ぞ」


 とぎれとぎれの返事をすると、扉が開かれ、男が入ってくる。

 同い年くらいだ。坊主頭に近い黒髪で、ほっそりと痩せている。女とは対照的に白い肌だった。夏服姿で、オレンジジュースを入れたコップを二つ持ってきた。


「ごめんね、こんなもんで。氷が切れてた」


「お、お、お、おかまいなく」


 女はガチガチに緊張していた。男のほうは、話し方におかしなところはないが、時折目が泳いでいる。彼も冷静ではない。

 友人である。

 女の名前は星川レイミ。趣味はキックボクシング。試合もしている。

 男の名前は佐藤透。趣味は星川レイミのトレーニングと試合の鑑賞。

 ともに十六歳。同じ保育園、同じ小学校、同じ中学校、同じ高校。


 幼馴染。

 ただの、ではない。


 一つ、約束をした。

 佐藤透が定期テストで校内トップを取ったら、願いを一つだけ聞くと。

 そのときの透は真剣な目つきで、顔を真っ赤にしていた。

 男と女、女と男。その間でのこの約束。

 となれば、願い事も想像がつく。


 それからは、いわゆるビミョーな関係。


 会話も減った。一緒に帰ることもなくなった。けれども朝はあいさつをする。ちらちらと目は合った。

 そうして、終業式の日に試験結果が張り出された。

 佐藤透、男女合わせて一位。ほぼ満点。二位以下を引き離しての悠々トップ。


 で、きた。


 顔を真っ赤にした透に、放課後、話しかけられた。


「約束のこと、家でいいかな」


 家、ハウス、ホーム。テストが終わったのに頭のなかで英単語が踊っていく。

 躊躇って、動揺して、舌が回らなかったが、了承した。


「よ、よかろう!」


 どこの人間だと彼女自身戸惑ったが、とにかく了承した。

 会話はない。無言で家路につき、部屋に入った。ちょうど昼時だったが、食事も取らなかった。

 蝉の鳴き声はどこか遠くに聞こえている。

 飲み物を持ってきた透とちゃぶ台越しに向かい合い、レイミは言葉を待った。


 透はジュースを飲んで、深呼吸をする。その場でおもむろに立ち上がり、大きく腕を上に伸ばしてと、ラジオ体操をした。

 そこから座り直し、背筋を伸ばしてじっとレイミを見つめてくる。


 彼女も察した。もう間もない。次の瞬間、次の呼吸で答えが出る。


 キックボクシングの試合で発揮される集中力で、タイミングを読んでしまった。だが、試合と違ってかわすことも防ぐこともできない。この部屋に上がった時点で、聞くことしかできない。

 覚悟、するしかない。

 レイミは心で叫ぶ。


 さあ、こい。


「レイちゃん!」


「ふぁい!」


 ごくりと同時につばを飲んだ。

 セミの声をかき消す透の叫びが、レイミの耳を貫いた。




            「その足で僕を蹴ってくれ!!」



           「……はあああああああああああ!?」




 間が空いた。


 蝉の輪唱がこだまする。


 透がごくりとつばを飲む。


「その足で僕を蹴ってくれ!!」


「ふざけんなこのアホがああああ!!」


 反射的にちゃぶ台返しをしてしまった。


 レイミは奥歯を噛み締め、肩をぶるぶる震わせていた。拳も握りしめて掌が青くなっている。目つきは鋭くなっていたが、ちょっと涙ぐんでいた。


 胸の奥はぐちゃぐちゃだ。甘酸っぱいトキメキにヘドロをぶちまけられた気分だ。いや、ぶちまけられたのだ。劣情を。

 透も立ち上がる。まっすぐ、中学生っぽさが抜けてない顔を凛々しくさせ、三度目の叫びを響かせる。


「その足で僕を蹴ってくれ!」


「オラアア!」


 蹴った。


 思い切り蹴った。


 ジムで覚えた右ミドル。

 誰よりも速い、一瞬の蹴り。

 見てからではかわすことも防ぐことも許さない音速の蹴りを、素人に放った。深々と透の脇腹にめり込んだ。

 鍛えていても効く一撃。筋肉の鎧を突き抜ける威力だが、


「――オウゥ、フッ」


 喜んでいた。

 透は呻きながらも、顔がほころんでいた。

 レイミはわけがわからなかった。冗談や酔狂ではない。本気で透は蹴られることを喜んで、明らかな快感を得ていた。


 認めるしかない。


「変態だったのか!! 変態か!! 蹴られて喜ぶ変態か!!」


「レイちゃんに蹴られたいんだ! 変態だけども、レイちゃん限定の変態だよ!」


 複雑な感情。

 これほどまでに腹の立つ気持ちの悪い告白でも、どこか喜んでいる自分にレイミは混乱した。


「なんで!? なんで蹴られて喜んでんの!?」


「レイちゃんの足が綺麗だから!」


「――ぬ、ぬぬっ。待て、綺麗、綺麗か私の足。鍛えてるから筋肉がついて凸凹だぞ。爪も分厚くなってるし、カチカチだぞ」


 レイミは後悔をしたことがないが、水泳や着替え中にクラスメイトの身体を見て羨ましくなる時がある。

 腹筋がすごいと触られることもあるが、珍しがられているだけ。動物的な扱いだ。

 彼女は、ちらっちらっと盗み見ている。綺麗なマニキュアを塗った足、シミひとつない真っ白な足、筋肉でゴツくなっていないふにふにした足。


 ものすごく、羨ましい。


 グラビアやアイドルを見ていて時々、ふっと考えてしまうのだ。


 透の好みってさすがに筋肉ムキムキの女じゃないだろうなあっと。


「がああああっ! 腹立つ腹立つ腹立つ! 私自身に腹が立つ! ふざけんな!」


「わかってる! 怒るのも腹が立つのもわかるけど、僕はずっと待ってた!

 レイちゃんがキックボクシングを始めてから、どんどん綺麗になっていく足を見て、その足で蹴ってくれたらって、ずっと願っていたんだ!」


「熱烈に気持ち悪い!!」


 大きく拳を振るったが、かわされた。透は雑誌と専門書で勉強したのか、不格好ながらも頭を低くして避けるダッキングをしてみせた。

 わりとレイミにとってショック。


「し、素人に避けられるなんて……」


「試合をじっくり見ていたからね。全部見てる」


「全部」


「蹴りが得意なのはわかるけど、後半になったら散漫的に打ってるよね。威力も落ちていて、だから粘られると逆転負けになることが――」


「――うるせええええ!」


 トレーナーから指摘されたこととまったく同じだ。苛立ちが爆発し、レイミは反射的に蹴りを放った。

 今度は、避けない。避ける気は毛頭なかったのだろう。鋭く、美しく、弧を描くハイキックが透の側頭部を直撃した。

 足を振り抜き、壁に激突した透を見てさすがにレイミも真っ青になった。

 女とは言え鍛えているのだ。ヘッドガードもない、腕でカバーしていない素人の頭を蹴るなど危険行為。脳機能に障害が発生する可能性だってある。

 倒れてしまった透の顔を覗き込み、慌てて大声で呼びかける。


「トール! おい、トール!」


「――った」


「は? 意識、あるのか?」


「きもちえがった~~……」


 もう言葉はいらなかった。無言で拳を振り下ろす。しかし、すんでのところで透は寝返って逃げてしまった。

 くらくらしているのだろう。彼は頭を片手で押さえて、虚ろと恍惚を織り交ぜた表情で笑っていた。


「レイちゃん、レイちゃんの足はね、キラキラしてるんだ」


「心の底から気持ち悪いな」


「知ってる。自覚してる。信じてくれないかもだけど、苦しんだよ。だって、レイちゃんの顔とか胸とかじゃなく、足だよ? 体育の時間でのランニングとか、教室で暇そうにぶらぶらしてるところとか、ついつい目で追ってしまうんだ」


「ずっと見てたってこと?」


 透はこっくりと頷いた。

 見ず知らずの男だったり、教師だったり、どうでもいいようなのがこんなことを告白してきたのなら嫌悪感たっぷりで吐いていたかもしれない。

 ところが、今回だけ、透という男が相手という条件だと、そういうものは浮かんでこなかった。逆に、自分の足が、鍛えに鍛えていた武器が誇らしくもなった。


 ぞくぞくと、腰の後ろが震えている。暖かくなっている。


 透はいまも、じっとレイミの足を見つめている。


「キックボクシングを始めてから、さらに、どんどんと綺麗になっていった。ほっそりとしていてとっても綺麗だったけど、トレーニングとともに日々硬く、鋭く、躍動的になって、あの、こう、花が咲いていくって思った。綺麗な花だって」


「肌は、黒いぞ」


「黒いよ。綺麗な黒だよ。花なのに黒くて、強くて、鋭くて、蹴るときが一番綺麗。そしたらさ、蹴られたいってなるの、自然なこと――」


「んなわけねえだろ」


 自然ではない。気持ち悪い。レイミのよく知る恋愛感情とは程遠い、偏執的なもの。フェチズムというやつだ。なんだか悲しくなってくる。


 しかし、困ったことに本気である。


 透は真摯に、真実そのまま、自分の心をさらけ出している。

 隠してくれよと叫びたい衝動にレイミは駆られた。

 一生、墓に入るまでそのフェチズムを隠し続けてほしかった。そうしたら心安らかに過ごせたのに。


「あーのーなー! 足が綺麗、蹴りが綺麗って、私以外にもいっぱいいるだろ! なんなら年ごまかしてそういう店にでもいけ! 蹴ってくれる! たくさん!」


「レイちゃん以外に蹴られたって、なんとも思わないよ!」


「――はっ!?」


「いい? 普通に女の子が好きという気持ちがある。これは保健の授業でやる性欲的なやつ。えっちぃのを見たいとかそういうの。

 それとは別に、レイちゃんの足で蹴られたいって気持ちもある。ここ注意してね。

 誰かれ構わず蹴られたいのではなく、レイちゃんに蹴られたいの。前提条件として、レイちゃんがいるの。レイちゃん以外に蹴られたって全然嬉しくないの。

 レイちゃんの足、レイちゃんの蹴り、レイちゃんの――」


「もう黙れお前!」


 今度は前蹴りがみぞおちに突き刺さった。

 悶絶確定。ゲロを吐いてもおかしくないが、透は恍惚となって崩れ落ちた。


 ぶるぶる怖気で震え、レイミは腹の奥底から叫んだ。


「足足足足、蹴り蹴り蹴り蹴り、うるさいんだよ! ほかに、ほかに、他に言うことはないのか!」


 透は目の焦点が定まっていない。息も弱々しい。それでも意識は失っていない。

 ぼんやりとレイミを見上げて、思い出したようにのたまった。


「そういえば僕、レイちゃんのこと好きなんだよ」


「おっそいんだよ!」


 力いっぱいにその顔を踏みつけた。

 予想はできていたが、透はめちゃくちゃに喜んでいた。


「ソックスを脱いでくれたらもっといいんだけど……」


「帰る!」

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