episodi 2 家庭学習指導本格始動! 真面目にやらなきゃ体罰もプレゼントするぜ

午前八時二六分頃、鈴穂達の通う豊根塚高校一年三組の教室。

鈴穂が自分の席に座ってくつろいでいると、 

「やっほー、すずぽん、ついに母さんから恐れていたこと告げられてもうて災難やな」

いつものように中学時代からの親友、延山千景(のべやま ちかげ)が登校して来て近寄ってくる。面長で目は細め、ボサッとしたほんのり茶色なウルフカット。背丈は一五七センチくらいで、ちょっぴりぽっちゃりした子だ。

「おはよう千景。ママの求めるハードルは高過ぎるよ」

鈴穂は苦笑いを浮かべつつも、明るい声で挨拶を返してあげた。中学入学当時、千景の出席番号は今学年同様、鈴穂のすぐ前だった。そのことがきっかけで入学式の日から自然に話し合う機会が出来、お互い仲良くなったというわけだ。鈴穂は中学時代は千景と同じパソコン部に所属し、高校でも同じ文芸部に入部した。《友達選び間違えたかなぁ? いや、千景と出会えてよかったよ。新しい世界が広がったから》と鈴穂は今になって反語的に思うことが時々ある。

なぜなら千景は、中学入学当時り○ん、な○よし、ち○お、花と○め、マー○レットと三大週刊少年誌くらいしか漫画雑誌の存在を知らず、児童書や絵本が大好きだった純真無垢な鈴穂に、マニアックな月刊・隔月漫画誌やアニメ雑誌、声優雑誌、さらにはラノベ、BL・百合同人誌、深夜アニメの存在などを教え、そっちの道へと陥れた張本人だからだ。千景自身は小学五年生頃からBL・百合同人誌やラノベ、深夜アニメにどっぷり嵌っていたらしい。

「おはよう、千景ちゃん」

「おはよう、のぶみん」

 伸実に突如挨拶された千景は今、ちょっぴり照れていた。彼女は伸実に限らず、優しいお姉さんタイプの女の子に話しかけられるとこうなってしまうのだ。

「おはよー」

ほどなく鈴穂のすぐ後ろの席の女子生徒も登校してくる。昨夜、睦月に問われた件で思い浮かんだまさにその子だ。

「まなつぅ、またも学年トップ記念に母さんに何かご褒美貰った?」

「特にご褒美はなかったですよ。いつものことですし」

学夏はほんわか顔で質問に答える。千景にとって学夏は、鈴穂と同じ文芸部仲間なのだ。

「学夏は相変わらずの天才振りだよね」

 鈴穂はとても感心していた。同じ幼小中出身のため学夏のことは昔からよく知っている。つまり伸実も彼女の古い顔馴染みというわけだ。

「うちもまなつみたいな天才的頭脳が欲しいわ~。吸収ぅっ!」

 千景は学夏の頭を両サイドから強く押さえ付けた。

「いたたたぁ、千景さん、痛いので止めて欲しいよぉ~。ワタシは天才ではありません。ワタシでも北野とかの最上位校に進んでいたら並以下の成績になっていたことでしょうしぃ」

 学夏は首をブンブン振り動かし抵抗する。

「まなつ、明らかにトップ維持のためにこの高校進みよって。卑怯な子やね~。期末では、どれか一科目だけでもまなつに勝ってみせるで~」

 そうウィンクまじりに宣言し、千景は両手を離してあげた。 

学夏のフルネームは仙頭学夏(せんどう まなつ)。苗字からして賢そうな名前の通り、校内テスト総合得点では中学時代から今に至るまで学年トップを取り続けている秀才ちゃんだ。背丈は一五〇センチちょっと。丸顔にまん丸な黒縁眼鏡をかけ、ほんのり栗色な髪を三つ編み一つ結びに束ねている。とても真面目そうで賢そう、加えてお淑やかで大人しそうな優等生らしい雰囲気の子なのだ。

「学夏ちゃん、期末も学年トップ取れるように頑張ってね」

 伸実に爽やか笑顔でエールを送られ、

「はい、頑張ります」

 学夏は照れ笑いを浮かべる。彼女は千景よりも早く小学四年生頃にはすでに二次創作同人誌やラノベ、深夜アニメの世界にどっぷり嵌っていた。けれども学夏がそういったオタク趣味を持っていることは、鈴穂は高校に入学して文芸部に入部するまで全く気付かなかったのだ。

どうしようかな?

鈴穂は昨日の出来事をこの二人に話そうかな、と思った。けれど、信じてもらえるわけは無いだろうと感じ、黙っておくことにした。

「鈴穂さんが強制入塾されそうになってる烈學館、昔は体罰ありのスパルタ教育だったけど、今はかなり生ぬるくなってるらしいよ。この塾に通ってる子のお母様のツイッターによると。今日の放課後、外観だけでも見に行ってみない?」

「そうだなぁ。一応見ておいた方がいいな。千景はどうする?」

「もちろん行くわ~。どんな感じの塾なんかうちもめっちゃ気になるからね」

「わたしは怖いからやめとくよ。部活もあるし」

あのあとこう打ち合わせてほどなく、八時半の朝のSHR開始を告げるチャイムが鳴り響く。

「みんな、おはよう!」

鳴り終わる前にクラス担任で英語科の阪井先生がやって来た。背丈は一七五センチくらい、痩せ型、いつもダサい格好でそれほどイケメンでもないけれど、ほんわかしていて優しそうな雰囲気を醸し出している男の先生だ。二八歳の実年齢より若く見え、まだ大学生っぽい若々しさを保っているそんな彼はいつも通り出欠を取り、諸連絡を伝えて一時限目の授業が組まれてあるクラスへ移動して行った。

このクラスの今日の一時限目は家庭科。一年生が今学習しているのは保育の分野だ。

「このページを捲ると可愛らしい厚紙工作が迫り出してくる飛び出す絵本、皆さんも幼い頃に楽しんだと思います。遊び心があって懐かしいでしょ?」 

 小顔でぱっちり瞳、ほんのり茶色な髪をフリルボブにし、お淑やかそうな感じの四十代女性教科担任はそれを教卓からクラスメート達に向けて見せた。

あの教材、厚紙工作どころか、生身の人間が、飛び出して来たんだけど。

「播本さん、どうかしましたか?」

「……あっ、いえ、なんでもありません。すみません」

 鈴穂はロダンの『考える人』のような格好をしていたため、教科担任に心配されてしまった。鈴穂の席は教卓に近いため目立ちやすいのだ。

二時限目は体育。体操服については今回から完全夏用。男女とも同じ柄で、学年色黄色のラインと校章の付いた白地半袖クルーネックシャツと青色ハーフパンツだ。今日は男子は体育館で器械運動、女子はグラウンドでハンドボールをすることになっている。女子体育一年担当の先生は四角顔ぱっちり瞳ショートヘアー、背丈一七〇センチ近い三十代前半の爽やか系だ。強面筋骨隆々な男子体育一年担当の先生とは対照的に、特に厳しく注意してくることもない優しい先生でもある。

準備運動のランニング。鈴穂、伸実、千景、学夏の仲良し四人組はそれをいいことに、いつもと変わらずみんな同じようなゆっくりペースでおしゃべりしながらダラダラ走っていた。

「うちんちの庭に生えとるびわと梅、今年ももうすぐ収穫やからめっちゃ楽しみやー」

「梅は美味しいよね。私、梅干しは嫌いだけど、甘露煮とかジャムとかキャンディーとかは大好きだな」

「青梅を生のまま食べると、果実に含まれる青酸配糖体のプルナシンやアミグダリンが、同じく果実中のエムルシンと呼ばれる酵素と、体内の腸内細菌が持つβ‐グルコシダーゼとの働きによって加水分解されて猛毒のシアン化水素、いわゆる青酸が発生して中毒症状を引き起こす場合もあるよ。よほど大量に食べない限り大丈夫だけどね」

「まなつがさっき言うたこともううちの耳からすぅと抜けていったわ~」

「学夏よくそんなの覚えられてるね。さすが。ねえ、伸実ちゃんは梅は梅干しと甘露煮とジャムとキャンディー、どれが一番好き?」

「わたしは……うーん、甘露煮かなぁ」

 鈴穂の質問に、伸実は困惑顔を浮かべ、少し悩んでからゆっくり口調で答えた。

その直後、彼女の身に異変が――。

「伸実ちゃぁん、大丈夫? 熱中症?」

「のぶみん、大丈夫? 頭打ってない?」

「伸実さん、しっかりして!」

急にその場にパタッと倒れこんでしまったのだ。鈴穂、千景、学夏の三人は中腰になり、伸実の顔色を心配そうに見つめる。いつもはきれいなピンク色をしている唇が白っぽく変色していた。頬も青白くなっていた。

「あっ……みんな」

伸実は幸いすぐに意識を取り戻した。

「大丈夫?」

 鈴穂は心配そうに話しかけてあげる。

「うん、平気、平気。ちょっとくらっと来ただけだから」

 伸実はこう答えて、すぐに自力でゆっくりと立ち上がった。

「よかったぁ。でも、保健室には行った方がいいよ」

 鈴穂は真顔で強く勧める。

「保健委員さん、光久さんを保健室へ連れて行ってあげてね」

 女子体育の先生はこう呼びかけた。

「その子今日欠席です」

 すると女子生徒の一人が叫んで伝える。

「あらまっ」

 女子体育の先生は苦笑い。まだ出欠確認をする前だったので気付けなかったのだ。

「先生、私が連れて行きます。あの、伸実ちゃん、一人で歩ける? おんぶしよっか?」

 鈴穂は少し緊張気味に、伸実に話しかける。

「なんか悪いけど、その方が楽そうだし、そうさせてもらうよ」

 伸実は元気なさそうな声で伝えた。

「しっかり掴まってね」

鈴穂は伸実の前側に回ると、背を向ける。そして少しだけ前傾姿勢になった。

「ごめんね、鈴穂ちゃん」

伸実は申し訳なさそうに礼を言い、鈴穂の両肩にしがみ付いた。

「いいよ、いいよ。気にしないで。んっしょ」

 鈴穂は一呼吸置いてから伸実の体をふわりと浮かせる。

おっ、重ぉ~い。

 途端にそう感じたけれど、もちろんそんな失礼なことは口に出さない。

「鈴穂ちゃん、本当にごめんね、迷惑かけちゃって」

「べつにいいよ、気にしないで」

伸実ちゃんの胸、また一段と大きくなったような……。

 むにゅっとして、ふわふわ柔らかった。

 伸実のおっぱいの感触が薄い夏用体操服越しに、鈴穂の背中に伝わってくるのだ。

急ごう!

 同性だけれどなんとなく罪悪感に駆られた鈴穂は早足で歩こうとする。けれども足がふらついてしまい結局ゆっくりペースに。今いる場所から保健室までは距離にして百メートルちょっと離れていた。鈴穂は伸実を落とさないように、慎重に歩き進んでいく。

「播本さん、友達思いね」

 女子体育の先生は深く感心する。

「これは百合展開期待出来るかも♪」

「鈴穂さん、頑張って」

 千景と学夏は温かく見送ってあげた。

       *

「失礼、します。東野先生、あの、この子が、体育の授業中に、貧血で、倒れました」

 鈴穂はやや息を切らしながら保健室の、グラウンド側の扉をそーっと引いて小声で伝え、伸実を背負ったまま中へ入った。

「東野先生、失礼しまーす」

 伸実は元気無さそうに挨拶する。

「いらっしゃい。播本さん力持ちね」

 養護教諭、東野先生は二人を爽やかな笑顔で迎えてくれた。ぱっちり瞳に卵顔。さらさらした黒髪を黄色いリボンでポニーテールに束ねている三〇歳くらいの女性だ。今保健室には、この三人以外には誰もいなかった。

「じゃ、下ろすよ」

「ありがとう」

 鈴穂は伸実をソファの前にそっと下ろしてあげた。

伸実はソファにぺたりと座り込む。

「光久さん、これをどうぞ」

東野先生は、保健室内にある冷蔵庫から貧血に効くという栄養ドリンクを取り出し、伸実に差し出した。

「ありがとうございます」

 伸実はぺこりと一礼してから丁重に受け取る。瓶の蓋を開けると、ちびちびゆっくりとしたペースで飲み干していった。

「光久さん、今日は早退した方がいいわね」

「いえ、わたし、少し休めば大丈夫ですよ」

 伸実は元気そうな声で答えてみるが、

「ダメだよ伸実ちゃん、今日は早退した方がいいよ」

 鈴穂はすぐに引き止めた。

「でも、授業休んじゃうと、今日習うところ、ノートが取れないし」

 伸実は困惑顔で言う。

「私が取ってあげるから、心配しないで」

「大丈夫かなぁ?」

「大丈夫だって。私、今日は授業、ちゃんと真面目に聞いてノート取るから」

「本当?」

「うん、本当」

「播本さん、心配されてるのね」

 東野先生はにっこり微笑む。

「まあ、私、普段授業中寝てしまうことが多いですし」

 鈴穂はてへっと笑った。

「光久さんは、貧血になったのは今回が初めてかな?」

「はい。わたし、テスト期間中は睡眠時間削って勉強してて、水泳の授業も近いのでダイエットしようと思って、ここ一週間は朝食もほとんど食べてなかったからかな?」

 伸実は照れ気味に打ち明けた。

「原因は非常に良く分かりました。光久さん、朝食を抜くのはダメよ。保健や家庭科の授業でも小学生の頃から再三言われてるでしょ」

 東野先生は爽やかな笑顔で忠告する。

「はい。今後は気を付けます。もうあんなしんどい思いはしたくないので。それにわたし、食べること好きなので、それを我慢したことでストレス溜まっちゃったのも良くなかったですね」

 伸実はてへっと笑った。

「光久さんの身体測定のデータ見ると標準体重よりちょっと少ないから、少々増えたってダイエットはする必要ないからね。敏感になり過ぎて太ってないのにダイエットしようとする子が本当に多くて……」

 東野先生はパソコン画面を見つめながら、ため息まじりに助言した。この学校の生徒達全員の身体測定データが、専用ソフトに保存されてあるのだ。

「凄い! データベース化されてるんだ」

 鈴穂は興味を示し、画面に顔を近づけた。

「あんっ、鈴穂ちゃん。見ちゃダメェッ!」

 伸実はとっさに背後から鈴穂の目を覆った。

「あっ、ごっ、ごめん伸実ちゃん」

 鈴穂が謝罪すると、伸実はすぐに手を放してくれた。

「播本さんも、自分の体重お友達に知られたら嫌でしょう?」

 東野先生は鈴穂が目を覆われている間にデータ画面を閉じてあげた。

「確かにちょっとは。ごめんね伸実ちゃん、私、もう戻らなきゃ」

 鈴穂は伸実にぺこんと頭を下げて謝り、保健室から出て行く。

その頃、鈴穂のお部屋では、

「スズホちゃん、あのキュートな女の子ととても仲良さそうだね。きっと百合フレンドだね」

「オレっちもそう思う。百合百合な関係だな」

「おれさまはごく普通の親友関係だと思うぜ」

「ぼくもーっ! 鈴穂お姉ちゃんもあのお姉ちゃんも、彼氏はまだいなさそうだね」

「わらわは、幼馴染同士の関係だと思います」

 教材キャラ達がみんなテキストから飛び出しベッドの上に座り込んで、テレビ画面を眺めていた。鈴穂の学校での様子を、モニター越しに観察していたのだ。

「それにしてもこのグッズはベリーワンダフルインベンションだね。上空からのイメージだけじゃなく建物内部のイメージが見られるなんて」

 キャロルはとある加工品に感心する。

「これさえあれば、地球上の任意の地点のライブ映像を映し出すことが出来るんだぜ。ストリートビューと、衛星カメラの合体版かな? これは賛太君の発明品なんだぜ」

 怜央は自慢げに説明する。学習机の本立てに置かれていた地球儀と、テレビ端子とが一本の緑色ケーブルで繋がれていたのだ。

「ド○えもんのひみつ道具みたーい。ぼくの数学のテキストにはそんなの組み込まれてないよ」

「サンタンパク質、レオルニチンに良い物体持たせてくれたな。未来的技術だ。音声が入ってこない欠点はあるけど」

 理密図と剛流磁は羨ましがる。怜央の入っていた社会科テキストには、他に開発者学力賛太の発明品も任意のページにいくつか詰められてあるのだ。ただし普通の人、そして怜央以外の四人にも単なる白紙のページにしか見えない。取り出すことも怜央しか出来ない仕様になっている。

「あっ、あの、いいんでしょうか? 盗撮なんかして?」

 睦月は困惑顔で怜央に問いかけてみる。

「……法律的に、良くないとはおれさまも思うけどよぉ、その、鈴穂君の学校での様子が気になっちまってな。授業の進度の確認にもなるし」

 怜央は俯き加減になり、バツの悪そうに言い訳した。

 その直後、

――ドスドスドス。と廊下を歩く足音が五人の耳元に飛び込んで来た。

「スズホちゃんのマミーが来るようだね。みんな隠れて!」

 キャロルは注意を促す。彼がテレビの電源も切った。

 キャロルを先頭に他の四人も自分のテキストの中に素早く身を引っ込める。

 一番動作の遅かった睦月が引っ込んでから約二秒後に、扉がガチャリと開かれ、母が鈴穂のお部屋に足を踏み入れて来た。

「鈴穂ったら、また散らかしちゃって。変なコードまであるし……これ、鈴穂が使っとる変な教材ね。これも散らかってるってことは、ちゃんと勉強してるみたいね」

 母はため息まじりながらも少し嬉しそうに呟きながら、床に散らばっていた教材を学習机の上に積み重ね、掃除機をかけて部屋から出ていった。

「マミー、重ねたら出にくくなっちゃうよ。Are you all right?」

 一階へ降りていったことが確認出来ると、キャロルは英語のテキストからぴょこっと飛び出す。そして他の教科のテキストを一冊ずつ分けて床に並べてあげた。

 他の四人はすぐに飛び出してくる。

「甚だ重たかったです」

 睦月はホッとした表情で告げた。彼女が一番下になっていたのだ。

「スズホルマリンのママ、よりによって一番質量の大きそうなキャロルビジウムを一番上にしていくとはね」

「ボク、そんなに重たくないよ!」

 剛流磁に指摘され、キャロルはムスッとなる。

「アメリカナイズな食生活送ってるっていう設定になってるくせに」

「そんな設定ないもん!」

 キャロルはそう主張して、剛流磁の髪の毛を引っ張る。

「いたたたたたぁっ、やったなぁーっ、キャロルビジウム」

 剛流磁はキャロルのほっぺたをぎゅっと抓って対抗した。

「二人とも、幼い子どもみたいなケンカはやめろ」

 怜央は穏やかな表情でなだめてあげる。

「だってゴルジくんがぁー」

 キャロルは抓られながら言い訳する。

「鹸化はしてないぜ、レオルニチン。カルボン酸の塩もアルコールも生成されてねえだろ」

 剛流磁は髪の毛を引っ張られながら反論する。

「訳の分からんこと言ってないで、いい加減にしろっ!」

 怜央は二人の頭をゴチンっと叩いた。

「Ouch!」

「いったぁーいっ。分かったよ。やめるよレオルニチン」

「ボクも大人気なかったな」

 すると二人はすぐにケンカをやめた。二人とも怜央のことを少し恐れているのだ。

「剛流磁お兄ちゃん、キャロルお兄ちゃん。鈴穂お姉ちゃんのその後を見た方が面白いよ」

 理密図の手によってまたテレビが付けられると、教材キャラ達は再びモニター画面に食い入る。

その頃、鈴穂のクラスでは三時限目生物基礎の授業が始まっていた。

眠たいけど、なんとか取らなきゃ、伸実ちゃんに迷惑掛けちゃう。

伸実のために、一生懸命シャーペンを走らせノートを取る鈴穂の姿に、

「スズホちゃん、leave school earlyしたノブミちゃんのために頑張ってるね」

キャロル達はまたも感心させられた。

        *

その日の放課後、鈴穂、千景、学夏の仲良し三人組は週一回木曜日だけ活動している文芸部の部室となっている情報処理実習室へ。そこには最新式に近いデスクトップパソコンが四〇台ほど設置されてある。 

文芸部の主な活動内容は小説やエッセイ、詩、俳句、短歌、川柳などの創作。パソコンを使って作業をすることも多いため、ここを部室として使っているのだ。

ところがこの三人は、アニメ鑑賞をして過ごすことがほとんどである。顧問はいるものの、放任状態となっているため特に咎められることはないという。三十名ほどいる他の部員達もネットゲームで遊んだり、動画投稿サイトや某巨大ネット掲示板なんかを眺めたりして本来の活動内容とは全然違ったことをしている子は多い。真面目に活動している子は少数派なのだ。ちなみに男女比はほぼ半々である。

三人は一台のパソコンの前にイスを寄せ合い、近くに固まって座った。鈴穂が電源ボタンを入れ、彼女のパスワードで起動させる。

「さっそくこれ見ようよ」

千景は録画した深夜アニメが焼かれてあるブルーレイを通学鞄から取り出し、投入口に入れて再生した。

「おう、いきなりシャワーシーンですか。筋肉もいいね」

 開始十秒で、学夏の表情がほころぶ。

「やっぱ男は二次元に限るよね?」

 流れてくる高画質かつ高音質な映像を眺めながら、千景はにやけ顔で問いかける。

「その通りね。三次元にはろくなのがいないよ」

「確かに二次元の男の子はすごくいいけど、私は恋愛対象にまではならないなぁ。髪の色が変だし。あんな水色とか緑とか、ピンクとかオレンジとかあり得ないでしょ」

 鈴穂はキャラクターよりも若干、ストーリー重視なのだ。まだ、この二人ほどは萌え系深夜アニメには熱中していないようである。

「そこには突っ込んでやるなって。すずぽんはまだまだ二次元世界初心者やね」

「鈴穂さんは、ワタシや千景さんのようにまではのめり込まない方がいいよ。もう戻れなくなっちゃうからね」

 学夏はにこにこ顔で自虐気味に警告した。

 そんな様子を鈴穂のお部屋から、

「スズホちゃんったら、あんなテンプレートでmass production typeのアニメ美男子キャラに鼻の下伸ばしちゃって」

「アニメキャラはプロのキャラクターデザイナーの造形。おれさま達をデザインしてくれた賛太君は所詮アマチュアだから、容姿で劣っちまうのは仕方ないぜ。だからおれさま達は内面で魅力を出さなきゃな」

キャロルと怜央はちょっぴり嫉妬心を抱きつつモニター越しに眺めていたのだった。           

    ☆

鈴穂達三人はあのあと午後五時過ぎに学校を出て、朝のSHR前に打ち合わせた通り、伸実を除く三人で最寄り駅前に聳え立つ烈學館の建物側に近寄ってみた。

 四階建てで、東大本郷キャンパス安田講堂を髣髴とさせる赤茶色の煉瓦造り。周囲の建物と比較して威圧感があった。中学受験、高校受験、大学受験全てに対応している、わりと大きめの進学塾で少人数制、習熟度別クラス、熱血指導が謳い文句らしい。

入口横には東大○○名、京大○○名、灘○○名、東大寺学園○○名、神戸女学院○○名などなど名門校の合格実績が書かれた看板も目に付く。 

「遅いぞ、こんな基本的な数列の問題くらいもっとパッパッパッと解かんかいやっ!」「ぅおーい、なんでこんな簡単な問題間違うんじゃボケェッ! おまえそんなんじゃ灘どころか六甲にも受からへんぞぉっ!」「そこの二人、ぺちゃくちゃおしゃべりするんやったら今すぐ出て行けぇーっ!」「これ何やっ? こういうくだらんもん持ち込むなって塾規則に書かれとったやろうがぁっ! 字ぃ読めんのかぁぁぁっ!」 

 建物内からは、こんな講師達のドスの利いた怒声が三人の耳元に飛び込んで来た。

 その声と共にパシーッン! と竹刀で床や机を思いっ切り叩いていると思われる音も。

 教室の窓が開かれていたこともあり、より一層聞こえやすくなっていたのだ。

「噂通り昭和体質で講師が酒呑童子も怯えて泣き出す怖さみたいだね。女の子のすすり泣く声も聞こえて来たし。私、こんな所に週五で通わされそうになってるのかぁ……これは、勉強真面目にこなさないとマジでやばいよね。私、筋金入りの豆腐メンタルだし、もし入らされたら初回授業で速攻PTSDになりそう」

 鈴穂は苦々しい気分だ。

「すずぽん、大ピンチやね」

 千景は他人事のようににこにこ笑っていた。

「さすが熱血指導が売りなだけはあるね。鈴穂さん、期末に向けて勉強頑張って下さいね。スポーツその他実技とは違い、筆記試験のための勉強は頑張れば必ず報われますから。健闘を祈ります!」 

 学夏はきりっとした表情でエールを送ってあげた。


 夕方六時頃。

「ただいまー」

「おかえり鈴穂、お部屋はもっときれいにしなさいね」

「分かってるってママ」

 鈴穂は途中、伸実のおウチに寄りノートと今日配布されたプリント類と、近所のスーパーで買った伸実の大好物の抹茶シュークリームといちご大福を届けて自宅に帰って来た。

手洗い、うがいを済ませて二階に上がり、

いない、よね? 今朝は姿を見かけなかったし。

鈴穂は恐る恐る自室の扉を開ける。

すると、 

「Welcome home! スズホちゃん」

「おっかえりーっ、スズホルマリン」

「おかえりなさいませ、鈴穂さん」

「おかえり、鈴穂お姉ちゃん。今日の数学の授業は楽しかった?」 

「おかえり鈴穂君、汗臭いぞ」

 教材キャラ達がみんな揃って爽やかな表情で出迎えてくれた。

「……夢じゃ……無かったの。昨日の、出来事は……」

 鈴穂は顔をこわばらせる。

「だから現実だって。スズホルマリン、もう認めちゃいなよ。オレっち達はキャラデザのサンタンパク質の空想と現実の二面性を持っているのだ。光が波と粒子の二面性を持ってるのと同じようにね」

 剛流磁がにこやかな表情を浮かべながら、肩をポンポンッと叩いてくる。

「……わっ、分かった。認めるよ、もう」

 鈴穂はついに観念してしまった。その方が精神的に楽だと感じたからだ。

「あのう、スズホちゃん、今日貧血で倒れた、いつもいっしょに学校に通ってる素敵なお友達がいるんだね。What‘s her name?」

 キャロルが問い詰めて来た。

「あっ、あの子は伸実ちゃんっていうんだけど……ていうか、なんで知ってるの?」

 鈴穂は当然のように驚く。伸実のことはこの五人に一度も話したことはないからだ。

「これで、スズホちゃんのスクールライフをライブビューイングしてたんだよ」

 キャロルはテレビ画面を指し示す。

 鈴穂の通う学校校舎の映像が映し出されていた。

「何これ?」

 鈴穂はケーブルの方にも目を向けた。

「このケーブルは、地球上のどの地点からでもライブ映像を映し出すことが出来る賛太君の発明品だぜ」

 怜央はどや顔で得意げに説明する。

「すっ、凄いな、あの人。どういう原理で、こんなことが?」

 鈴穂はかなり驚いている様子だった。教材キャラ達がテキストの中から最初に飛び出て来た時と同じくらいに。

「それが、賛太君自身にもよく分からねえみてえだぜ。小学校時代に好きだった女の子のおウチを覗きたいなという願望が、発明しようと思った動機だとは言ってたけど」

「……これ、非常にやばくない? 盗撮でしょ」

「鈴穂さんもそう思いますよね?」

 睦月は真顔で同意を求めてくる。

「そっ、そりゃそうでしょ」

「スズホルマリン、これでノブミトコンドリアって子のおウチ内部も見られるぜ」

剛流磁はそう言うとリモコンボタンをピッと押し、映像を切り替えた。

「こっ、これは――」

 鈴穂は思わず顔を画面に近づけた。

 伸実のお部屋の一部の映像が映し出されたのだ。ピンクのカーテンで水色のカーペット。窓際に観葉植物。学習机の周りにはオルゴールやスイーツアクセサリー。ゴマフアザラシ、モモンガ、コアラなどの動物やゆるキャラの可愛らしいぬいぐるみ、着せ替え人形なんかがたくさん飾られてある、じつに女の子らしいお部屋だった。何度も伸実のお部屋を訪れている鈴穂には特に目新しくは映らなかったが、こんな視点で観察したのはもちろん初めてのことだ。

「スズホルマリン、ノブミトコンドリアがおウチでどんな風にして過ごしているか知りたいでしょ?」

 剛流磁はにやっと微笑む。

「ダメダメダメッ!」

 鈴穂は冷静に判断する。

「あっ、ノブミちゃんっていう子、今からurinationかfecesするみたいだよ」

 キャロルは画面を食い入るように見つめる。

「わあああああああっ、ダッ、ダメダメダメッ。法律的に」

「スズホちゃん、見たくないの? 同性でしょ?」

「同性だからこそ見たくないのっ!」

 鈴穂は慌ててテレビの電源を切った。また映像が切り替わり、トイレで下着を脱ぎ下ろしている伸実の姿が映し出されていたのだ。伸実の穿いていた水玉模様のショーツを、鈴穂はほんの一瞬見てしまった。

「あーん、もっと見たかったのにぃ」

「オレっちもーっ。腎臓で血液から濾過され、膀胱に溜められた老廃物が排泄される重要な人体現象だもん」

 キャロルと剛流磁はふくれっ面で駄々をこねる。

「これは、プライバシーの侵害だよ」

「すまねえ鈴穂君、つい〝知る権利〟の方に意識を片寄せ過ぎちまって。これからは必要最低限の生活面だけを見るようにするぜ」

 鈴穂に困惑顔で注意され、怜央は申し訳なさそうに謝る。

「いやぁ、全く見なくていいんだけど」

 鈴穂は対応に困ってしまう。

「レオくんがスズホちゃんのことを知る権利があるって言ってたから、スズホちゃんのお部屋、勝手にinvestigateさせてもらったよ。面白いコミックやラノベ、けっこう持ってるね。ボクもコミックやラノベ大好きだよ」

「スズホルマリンって、三次元のヒトのオスやメスの裸が載ってる本は一冊も持ってないんだな。ベッドの下も調べたんだけど、収納ケースが置いてあって、中に服とゲノムならぬゲームが入ってただけだし」

「スズホちゃんはwholesome girlだね。いい子、いい子」

 剛流磁とキャロルは機嫌良さそうに話しかけてくる。

「あのう、あんまり私の部屋、荒らさないでね」

 鈴穂は悲しげな顔で注意しておく。

「鈴穂お姉ちゃん、このテレビ、テレビ番組は見れなかったよ。どのチャンネルに変えても受信出来ませんって出た。これじゃあド○えもんもクレ○ンしんちゃんもちび○る子ちゃんもサ○エさんも妖怪○ォッチも見れないよう」

 理密図は鈴穂のセーラー服スカートを引っ張りながら不満そうに伝えた。

「そりゃあ放送用のアンテナ繋いでないからね。このテレビはDVD・ブルーレイ視聴専用なんだ。繋ぐのは大学合格してからってママと約束してる。今は深夜アニメ、千景がDVDかブルーレイに録画して来たやつをこのテレビか学校のパソコンで見てる状態だから、早く生で自由に見られるようになりたいよ」

 鈴穂は苦笑いを浮かべて切望する。

「それじゃ鈴穂お姉ちゃん、お勉強ますます頑張らなきゃいけないね」

「うっ、うん」

「スズホちゃんは、ビデオゲームはプレイないの?」

 キャロルが質問してくる。

「ビデオゲームって、テレビゲームのことだよね。高校に入ってからはほとんどやってないな」

「そっか。でもそれは良いことだよ。勉強のobstructionになっちゃうし」

「そうだね」 

まあ、テレビゲームしてた時間が、アニメ雑誌やラノベを読む時間に取って代わっただけなんだけど……。

「ねえスズホルマリン、ノブミトコンドリア今度はお風呂に入るぜ」

 剛流磁は鈴穂が他の事に意識が移っていたのをいいことにまたテレビをつけ、伸実のおウチ内部を観察していた。

「うわっ、こらこらっ、ダメでしょ」

 今度は伸実が脱衣場で服を脱いでいる様子が映し出されていた。鈴穂は慌てて主電源を消し、剛流磁の頭をパシーンッと叩く。

「いたたたぁっ、ひどいよスズホルマリン」

 剛流磁が頭を押さえながらそう言ったその時、

「鈴穂ぉーっ、ご飯よぉー。今日播本先生、職員会議で遅くなるからいらないって」

 一階から母の叫び声が聞こえてくる。

「分かったーっ。すぐ行くぅ」

 鈴穂は返事をしたのち、

「伸実ちゃんがお風呂入ってるとこ、ぜぇぇぇったいに、覗いちゃダメだよ。睦月ちゃんもね」

 キャロル達の方を向いてこう念を押し、部屋から出ていった。

「これはチャンス! ノブミトコンドリアの入浴シーン、思う存分覗くぞぉーっ!」

 剛流磁はすぐさま嬉しそうにテレビをつけ、伸実のおウチの浴室を映し出した。

 ちょうど風呂イスに腰掛け、長い髪の毛をシャンプーでこすっている最中だった。

「おううう! ノブミトコンドリアは、この歳でまだシャンプーハット使ってるのかぁ。シャンプーハットの材質はEVA樹脂、シャンプーは弱酸性のものかな?」

「伸実お姉ちゃん、おっぱい大きいね。体積量りたぁーい!」

「ナイスバディだね、ノブミちゃん」

「伸実君って子、鈴穂君以上にメスブタ臭がきつそうだな。将来太りそうな体つきしてやがるぜ」

 キャロルと怜央も画面に食い入る。伸実は体をバスタオルで隠すことなく全裸姿だったのだ。

「皆さん、鬼の居ぬ間に洗濯はダメですよ」

 睦月は困惑顔で注意した。

「まあいいじゃんムツキアズマ」

「出た! 日本のことわざ。ちなみに英語では、When the cat‘s away,the mice will play.だよ。でもスズホちゃんは鬼って感じが全然しないよ」

「そうだな。スズホルマリン、怒っても全然怖く無さそうだし」

「鈴穂君は大和撫子っぽいぜ」

「ぼく、鈴穂お姉ちゃんの優しそうなところが大好きぃーっ!」

 睦月以外の四人は伸実の入浴シーンを眺めながら、楽しそうに会話を弾ます。

「皆さん、止めた方がいいですよ」

 睦月は再度注意するも、

「大丈夫だってムツキアズマ。ムツキアズマもいっしょに観察しようぜ」

「睦月君、べつにいいじゃねえか。ヒンドゥー教徒のガンジス川での沐浴に通じるものがあるし」

「今ちょうどお体ゴシゴシrubbingしてるいいところなのに。このあとは湯船に浸かってくつろぐという日本ならではのシーンが楽しめるんだよ」

「睦月お姉ちゃん、眺めてると伸実お姉ちゃんといっしょにお風呂入ってる気分になれるよ」

 四人はこう言い訳して、尚もテレビ画面に集中する。

「ねえ、皆さん……今すぐ、そういうことはやめなさいっ!」

 睦月は眉をへの字に曲げて、命令形で少し強めに言った。

 すると次の瞬間、

「ごっ、ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい睦月お姉ちゃぁん」

「ひいいいいいいい、すっ、すまねえ、ムツキアズマ」

「すまんっ、睦月君」

「アッ、アイムベリーソーリー。I‘m very afraid of you.Your face was much more fearful than a portrait of Beethoven.It equals namahage.」

 他の四人はびくびく震えながら慌てて謝った。剛流磁はとっさにテレビの電源を消す。理密図は泣き出してしまった。

睦月の顔が今しがた、般若面に急変化したのだ。しかも元の顔の大きさの五倍くらいまでふくれ上がっていた。

睦月の顔はそれから瞬く間に何事も無かったかのように元の可愛らしいお顔へと戻った。

「わらわは、怒りがある程度ふくれ上がると、こんな風になっちゃう設定になってるんです。きっと国語の学習内容に《能と狂言》があるせいだよ。鈴穂さんには絶対こんな醜い姿見られたくないです。穴があったら入りたいよぉ」

 睦月はとても照れくさそうに顔を真っ赤に火照らせで呟いた。

「「「「……」」」」

 睦月の恐ろしい風貌を見てしまった四人は、すっかり反省したようである。


「覗かなかった?」

夕食を取り、お風呂にも入り終えた鈴穂は再び自室へ戻って来た。

「あの、鈴穂さん。この人達、みんなで伸実さんのお風呂、覗いてましたよ」

 睦月は困惑顔で、四人を指し示しながら告げ口する。

「やっぱり……」

 鈴穂はムスッとなった。

「スズホルマリン、すまんね。もう金輪際やらないから。たとえウラン238の半減期くらい長い時間が経とうとも」

「アイムベリーソーリー、スズホちゃん。湯船に浸かるシーンがどうしても見たくって」

「鈴穂お姉ちゃん、ごめんなさーい」

「鈴穂君、もう二度とやらないから。おれさま、次こういうことしたら大石内蔵助のように切腹するか、ソクラテスのように毒杯を仰ぐぜ」

 四人は鈴穂の方を向いて深々と頭を下げた。

「鈴穂さん、ご覧の通り皆さんは大いに反省しているので、許してあげて下さい」

 睦月は鈴穂の目を見つめながら頼み込む。

「まっ、まあいいけど。今後は、絶対にやらないでね」

 鈴穂はこう注意して学習机の前に立った。机に貼られた時間割表を眺めながら、鈴穂は明日行われる授業の教科書・副教材、ノートを通学鞄に詰めていく。整え終わったちょうどその時、鈴穂のスマホ着信音が鳴り響いた。今放送中の深夜アニメのOP主題歌だった。

 電話がかかって来たのだ。

「伸実ちゃんからだ」

 番号を確認すると鈴穂はこう呟いてベッドに腰掛け、通話アイコンをタップする。

「もしもし」

『あっ、鈴穂ちゃん。ノートとプリントと、シュークリームといちご大福も届けてくれてありがとう』

「どういたしまして。お体は、大丈夫?」

『うん、おウチ帰ったあといっぱい休んだからもう平気。すっかり元気になったよ。あのね、鈴穂ちゃん、すごく言い辛いんだけど……全部同じ色で書かれてるから、どこが要点なのか分かりにくいよ。字も、読みにくくて』

「ごめん、伸実ちゃん。私の書き方、良くなかったね」

 鈴穂は電話越しにぺこぺこ謝る。

『いいの、いいの。鈴穂ちゃんが、一生懸命取ってくれたことが良く分かるから。気にしないでね』

 伸実は慰めてくれた。

「本当に、ごめんね。あっ、あと、連絡だけど、時間割変更で明日も家庭科があるよ。六時限目に。帰りのHRで阪井先生が言ってた」

『あの、そのことは、家庭科の授業でも連絡してたよ』

「えっ! そうなの?」

『鈴穂ちゃん、聞いてなかった?』

「うっ、うん。考え事してて」

『鈴穂ちゃん、授業中は集中して先生のお話聞かなきゃダメだよ。テストに出る大事なポイントもお話ししてくれるからね』

「分かった。次からは気をつけるよ。じゃっ、じゃあ私、そろそろ切るね」

『あっ、待って鈴穂ちゃん』

「なっ、何?」

 鈴穂はぴくっと反応した。

『あの……今度の土曜、明後日だけど、いっしょにショッピングに行こう』

「えっ!」

 伸実の突然の発言に、鈴穂はどきっとした。

『あの、今日の、お礼がしたくて……』

「あっ、そっ、そう? それじゃ、いっ、いいけど」

 鈴穂はやや躊躇う気持ちがありながらも、一応引き受けてあげた。

『ありがとう。それじゃ、またね、鈴穂ちゃん』

「うっ、うん」

こうして鈴穂は電話を切った。

「スズホちゃん、今のが百合フレンドのノブミちゃんだね? How long have you been dating with Shiho?」

「うわっ!」

 鈴穂はかなり驚く。

 すぐ真横にキャロルがいたからだ。現在完了進行形で質問もして来た。

「伸実ちゃんは百合フレンドじゃなくて、ごく普通の幼友達よ。物心つく前からの」

「幼馴染、つまりChildhood friendなんだっ! Wow! ムツキちゃんの予想した通りだね。ねえ、スズホちゃん、ワタシはノブミと知り合って十二年になります。を英語で言ってみて。ヒント、現在完了形を使うんだ。中学で習った単元でしょ?」

「えっと……アッ、アイハブ、ビーン、ノウン、ノブミ、トウェルヴ、イヤー」

「ノーノー、ダメだよ。You are wrong.I have been known Nobumi for twelve years.だよ。リピートアフタミー」

「アッ、アイハブビーンノウンノブミ、フォアトウェルヴイヤーズ」

「Good!」

 鈴穂が棒読み英語で言ってみると、キャロルはウィンクをして指でOKサインをとった。

「あっ、どっ、どうも」

 キャロルくん、三次元化してもやっぱけっこうカッコかわいいな。

 鈴穂ちょっぴり照れる。

「Hey、幼馴染ってことは、You have ever taken a bath with her,haven‘t you? いっしょにお風呂に入ったこともあるよね?」

 キャロルは付加疑問文を用いてさらに質問してくる。

「そりゃ何度もあるけど、キャロルくん、なんてはしたないこと聞くのよ」

 鈴穂は俯き加減で答えた。

「アイムソーリー」

 キャロルはてへっと笑う。

「ねえスズホルマリン、こういう本好きみたいなのにノブミトコンドリアと百合関係じゃねえの?」

 剛流磁は本棚から取った、女の子同士で抱き合っている表紙絵の百合系コミックスを鈴穂の眼前にかざす。

「私、百合系の漫画は大好きだけど、現実では百合なんかじゃないよっ! あっ、あのさ、怜央くん。昨日、地図帳から民族衣装を取り出してたけど、他の教材からも、写真や図に載ってるやつを取り出せるの?」

 鈴穂は頬をカァッと赤く火照らせ照れくさそうに否定し、怜央の方に話しかけた。

「もちろん出来るぜ。教科書借りるぞ」

 そう自信たっぷりに言うと怜央は、化学基礎の教科書を開いて手を突っ込んだ。

そして中から、金の延べ元素記号Auを取り出した。

「うわっ、すげえ。本物だ」

「怜央お兄ちゃん、すごーい!」

「レオくん、マジシャンみたい」 

 剛流磁、理密図、キャロルは大きく拍手する。

「あれ? でも中の写真はそのままだ」

 鈴穂は不思議そうにその教科書の該当箇所を見つめる。

「おれさまが取り出したものは、コピーされたものだからな。何度でも複製出来るぜ。今度は英語の教科書から、登場人物のボブ君を取り出してやろう」

怜央は得意げな表情で、今度は英文読解用の教科書に手を突っ込む。

数秒後、

「Ouch!」

 中から男性の叫び声がした。

ほとんど間を置かず、金色の髪の毛が飛び出て来た。

 怜央がさらに引っ張り上げると顔、首、胴体、足も姿を現す。怜央は本当にボブという登場人物を取り出して来たのだ。

「What‘s happen? Where’s here? Why am I here?」

 引っ張り出されたボブは周囲をきょろきょろ見渡す。彼はとてもびっくりしている様子で、かなり戸惑っていた。

「やっぱ英語かぁ」

 鈴穂は冷静に突っ込む。彼女はあの光景を先に目にしているので、もはやこんなことが起こってもあまり驚かなかった。

「ノープロブレムだよ。ボブはprobablyこのテキストの範囲を超える用法は使用してこないから。英語の得意な日本人高校生よりもボキャブラリーはずっと乏しいと思うよ」

 キャロルはこう推察する。

「Who are you?」

 ボブは教材キャラ達と、鈴穂のいる方に目を向け、中一レベルの英語表現で質問して来た。

「やっほー、ボブタジエン。オレっち、樅木剛流磁だぜ。英語ならI am Mominoki Goruzi.かな?」

「ボブおじちゃん、はじめまして。ぼくの名前は理密図です。十歳、小学四年生です。趣味はお絵描き、特に好きな食べ物はトーラス構造になってるドーナッツと、回転楕円体に近いお饅頭です」

 剛流磁と理密図は嬉しそうに自己紹介した。

「リミットくん、ボブは老けて見えるけどボクやスズホちゃんと同級生ってことになってるよ。おじちゃんじゃなくて、お兄ちゃんって呼んであげた方がいいかも」

 キャロルは笑顔で伝える。

「そっか。ごめんね、ボブお兄ちゃん」

「Oh! very cuty boy! I‘m very happy to meet you.」

 上背一八〇センチくらいあるボブは中腰姿勢で理密図の顔を眺めながらそう叫び、目を大きく開いた。

「キャロルお兄ちゃん、ボブお兄ちゃんさっき何って言ったの?」

 理密図は興味津々に尋ねる。

「とてもかわいい男の子だね、キミと会えてボクはとても幸せだよ。だって」

 キャロルはにこにこ顔で教えてあげた。

「わぁーっ、嬉しいなーっ! ぼくも幸せーっ」

 理密図は満面の笑みを浮かべる。

「Limit,I fell in love with you at first sight.Shall we dance and kiss?」

 ボブはこう告白すると突然、理密図にガバッと抱きついた。

「……うっ、うわぁぁぁん。こっ、怖い、このおじちゃん」

 押し込まれ壁際に追い込まれた理密図は途端に怯え出す。

 ボブにほっぺたをぐりぐり引っ付けられて、さらには耳元にフーッと息を吹きかけられたのだ。

「ちょっと、何してるのよ」

「ボブ君、理密図君嫌がってるからやめろっ!」

 鈴穂と怜央は慌ててボブの背後に詰め寄る。

「Get out of the way!」

「ぐぇぇぇっ!」

「いたたたぁっ、強いわ、この男の子」

 瞬間、ボブに蹴り飛ばされてしまった。

「Bob,Stop body contact to Limit at once!」

 キャロルは強い口調で注意した。

「No way!」

 けれどもボブは聞き耳持たず。

「In place of Limit,Hug me!」

「I’m not interested in middle age‘s man like you at all.You are,so to speak,ugly slug.」

 ボブは腐った生魚でも見るかのような目つきで、命令して来たキャロルに向かって言う。

「なんだってぇ! 失礼だね、このショタコン」

 キャロルはぷくぅっとふくれる。こぶしもぎゅっと強く握り締めた。

「今ボブ、何って言ったの? 早口で分かりにくかった」

 鈴穂が質問する。

「おまえのような年増には全く興味ない。おまえはいわば、醜いナメクジだ。だって。I‘m pissed off! I‘m as old as you! My birthday may be later than you! スズホちゃん、be interested inは~に興味があるっていう重要英熟語だから、しっかり覚えておいてね。否定文にはnotだよ。これを覚えたらハ○ヒの名台詞が英語で言えるよ。あともう二つ重要英熟語、not~at allは全く~ない、so to speakはいわば、例えて言うなら、っていう意味なんだ」

 キャロルはボブを睨み付けながらも、ちゃっかり鈴穂に英熟語を教えてあげる。

「I‘ll marry Limit in the near future.If the sun were to rise in the west,I wouldn’t change my mind.」

 ボブはスキンシップをやめようとはしない。

「やめてやめてやめてぇぇぇぇぇぇぇ~」

 理密図は大声で泣き叫ぶ。

「ボクは近い将来、リミットと結婚するんだ。仮に太陽が西から昇っても、ボクは決心を変えないよ。だってぇーっ。Pervet! Fuck you! Peice of shit! You are Homosexual! スズホちゃん、marryはtoとかwithを付けずに目的語を取るよ。marryだけで~と結婚するっていう意味になるんだ。あとIf主語were to動詞の原形で、もし仮に~したら、……だろうという意味だよ。この表現はIf主語should動詞の原形よりも、さらに実現可能性の低いことについての仮定に使われるんだよ」

 キャロルの怒りはさらに増した。けれどもボブの会話中に出て来た重要英語表現はしっかり解説することを忘れない。

「あっ、あのうボブさん。理密図さんとても怖がっているので……」

 睦月も彼の暴挙を止めさせようと説得に加わる。

「Really? Limit,Please don‘t be afraid to me.If you marry me,I‘ll buy anything you want to.」

 ボブは一応、日本語も理解出来ているようだった。彼は理密図に優しく微笑みかける。

「ボブおじちゃん、早くやめてぇぇぇぇぇぇぇーっ!」

 しかし逆効果。理密図はますます大泣きしてしまった。

「Why?」

 ボブはハハハッと陽気に笑いながら問いかけ、再度頬を引っ付ける。

「ロリコンのボブタジエン、リミットロコフォアいじめちゃダメだぜ」

 剛流磁はこう注意すると直径十センチくらいの鉄球に変身し、ボブの脳天にゴンッと直撃させた。

「Ouch!」

 ボブに衝撃が走る。両目が☆になった。

「引っ込め! 引っ込め!」

 剛流磁は元の姿に戻ると英語の教科書を素早く拾い上げ彼のいたページを開く。そしてボブの脳天に押し付け、中へと戻してあげた。

 これにてボブのZ軸成分が0と化し、二次元座標への変換が完了した。

「ああ、怖かったよぉ~。ありがとう、剛流磁お兄ちゃぁぁぁーん」

 理密図はえんえん泣きながら礼を言い、剛流磁にぎゅっとしがみ付く。

「どういたしまして。ボブタジエンは有害なホモサピエンスだったね。オレっちも対象外みたいだったし。ボブタジエンの質量を全てエネルギーに変換した方よかったかな? 質量×光速度二乗で、とんでもないエネルギーになっちゃうから不可能だけどな」

 剛流磁はにこにこ顔で物理学的に説明する。

「ボブってやつ、何がBob is the kindest boy in our class.だよ。教科書の本文と全然違うじゃないかっ! To tell the truth,Bob is not only lolita complex,but also crazy.」

 キャロルはまだぷっくりふくれていた。

「ボブ君は、肉食系男子ってことか」

 怜央はぽつりと呟く。

「肉食系男子って、ティラノサウルスみたいだな。犬歯も発達してるのかな?」

 剛流磁はすかさず突っ込みを入れた。

「ボク、肉食系の男の子は苦手だなぁ。スズホちゃんみたいな優しい女の子がいい」

 キャロルはそう告げて、鈴穂の手をぎゅっと握り締めた。

「えっ、あっ、あの……」

 鈴穂の頬は酸性を示すリトマス試験紙のごとく赤くなる。

「スズホちゃん、照れてるぅ。You are cute!」

 キャロルはにこっと微笑みかけた。

「そっ、そんなことないって!」

 鈴穂は必死に否定しようとする。

「鈴穂君、表情でバレバレだ。あのさ、英語の教科書にもう一人出てくるイギリス人男の子キャラ、トム君も引っ張り出してみようか? handsome boyって書いてあるから」

 怜央は微笑みながら問いかける。

「怜央お兄ちゃん、もう止めてぇ! また変なおじちゃんだったら嫌だよぅ」

 理密図はげんなりした表情で伝えた。

「このテキストに出てくる女の子、メアリーとジェーンとスーザンはきっとボブに悲しい目に遭わされてるね」

 キャロルはため息まじりに告げる。

「二次元平面上では本文通りのいい子かもしれないぜ。三次元空間上の女の子はオタクを嫌うひどい性格のメスブタが多いのと同じようにな」

「それにしても怜央くん、今日もスカート穿いちゃって、女の子の格好するのが好きなんだね」

 鈴穂はくすっと笑う。

「あぁ? スコットランドの文化をバカにしてんのか? このメスブタ。こいつはキルトと言ってだな、スコットランドの“男の”民族衣装なんだぜっ!」

 怜央は険しい表情で鈴穂を睨みつけながら強く主張した。

「ごめんなさーい。私、そのこと知識としてはかなり前から知ってたよ。でも実際見るとなんかおかしくて笑っちゃう」

 鈴穂はアハッと笑う。

「異文化に偏見持ちやがって、鈴穂君は国際人としては失格だな。こいつはおれさまの愛用ファッションなんだ。さてと、鈴穂君、今からは家庭学習の時間だっ!」

 怜央は険しい表情を浮かべたまま、鈴穂の後ろ首襟をガシッと掴んだ。

「えっ、いっ、今から?」

「当然だっ! 賛太君曰く高校生の本分は学業、大勢の友人同士で海や遊園地やカラオケボックスなんかで遊び回って恋愛なんかもしちゃってるリア充共は爆ぜろだからな」

 戸惑う鈴穂に、怜央はきりっとした表情で言う。

「鈴穂お姉ちゃん、勉強を一日サボったら、元の学力を取り戻すのに一週間はかかるよ」

 理密図はにっこり笑顔で忠告する。 

「さあスズホちゃん、シッダウン!」

「わわわ」

 鈴穂はキャロルの手によって無理やり学習机の椅子に座らされた。

「まずは学校で出されたホームワークからだよ」

「宿題は、今日は出てないよ」

「鈴穂君は、宿題が出てなかったら家庭学習はしなくてもいいと思ってるのか?」

「そりゃそうでしょ」

 怜央の質問に、鈴穂はにっこり笑いながら答えた。

 次の瞬間、

 パチーッン!

 と乾いた音が鳴り響く。

 怜央が鈴穂のほっぺたを思いっ切り引っ叩いたのだ。

「……なっ、何するの?」

 鈴穂は突然のことに動揺していた。徐々に泣き出しそうな表情へと変わっていく。

「愛の鞭だっ!」

 怜央はやや険しい表情で答えた。

「スズホちゃん、ホームワーク無くても授業の予習復習は当たり前だよ。ボク達、今日からスズホちゃんの成績をアップさせるために、シビアに学習指導していくからね。怠けたら体罰もあるよ♪」

 キャロルはにこやかな表情でさらっと告げた。

「えっ……」

 鈴穂はびくっとなる。

「学校では体罰は禁止されてるようだがな、おれさま達は容赦なくやるぜ」

「なんてったってボク達は非実在だから、仮にスズホちゃんが再起不能になるまでボコボコにしても、killしちゃってもcrimeに問われないもんね」

 キャロルはにこりと笑った。

「それ、婦女暴行罪だよ」

 鈴穂はさらに表情がこわばり恐怖心が増した。

「だからおれさま達は法律の適用外なんだって。真面目にやれば体罰はしねえから。鈴穂君、姿勢を正せっ!」

「ちゃんとseriousにやらないと、瀬戸内寂聴やかつての峰岸みなみちゃんみたいに坊主頭にしちゃうぞ」

「いっ、いたたたぁ」

 怜央に両サイドからほっぺたをつねられ、キャロルに髪の毛を引っ張られながらくどくど説教され、鈴穂の恐怖心はさらに高まった。

「スズホちゃん、まずはデスクの上をちゃんと片付けようね。ボク達がやってあげようとは思ったけど、それじゃあスズホちゃんのためにならないからね♪」

 キャロルはにこにこ顔で注意する。

「わっ、分かったわ」

 鈴穂はびくびくしながら素早く手を動かし、散らばっていた教科書、プリント類などを集め、隅の方へ寄せてスペースを設けた。

「それじゃ鈴穂お姉ちゃん、数学の特訓からやろう」

 理密図は数学のテキストを学習机の上にポンッと置く。

「でっ、でも、テキストは白紙じゃ……」

「大丈夫だよ。捲ってみて」

「わっ、分かった」

 鈴穂は不思議に思いながらも、理密図に言われた通りにしてみる。

「あれ? 問題文が、ちゃんと載ってる」

 鈴穂は現れた数式を凝視する。

「鈴穂お姉ちゃん、シャーペン持ってさっさと解いて。標準時間は五分だよ」

 理密図はそれを鈴穂に手渡した。

「わっ、分かった」

鈴穂はそこにある問題を解き始める。整式の乗法に関するものだった。

「鈴穂お姉ちゃん、答は合ってるけど遅ぉい! もう一回やり直し」

 理密図が開かれているページに手をかざすと、鈴穂がさっき書き写した文字が跡形も無く消えてしまった。

 さらに、問題が一新され数値まで変更された。

「こんな能力も使えるのかぁ」

 鈴穂はあっと驚く。 

「問題文は自在に操れるよ。すごいでしょ? キャロルお兄ちゃんも怜央お兄ちゃんも睦月お姉ちゃんも剛流磁お兄ちゃんもみんな同じ能力が使えるよ。テキストが最初白紙なのは、受講生の学力に合わせて演習問題のレベルを調整するためだよ」

 理密図はてへっと笑う。

「そっ、そうなんだ」

「鈴穂お姉ちゃん、感心してる暇があったら、さっさと問題解き始めて」

「わっ、分かった」

鈴穂は理密図に命令されるがまま、同じ単元に関する問題を解いていく。

「さっきよりは早くなったけどまだ遅いなぁ。もっと頑張ってね、鈴穂お姉ちゃん。次は単元変えるね」

 理密図は手をかざす。またも鈴穂の書いた文字が消え、問題が一新された。

鈴穂は続いて、一次不等式と因数分解に関する問題を解き始める。

 数分後、

「時間オーバー、それに、計算間違いも多いよ。次はこの単元の問題解いてね」

理密図がまたまた注意してくる。ぷっくりふくれて不機嫌そうだった。

「わっ、分かった。今度は順列・組み合わせかぁ。私、その単元は特に苦手なんだよねぇ」

 鈴穂は一問目の黒玉5個と白玉3個を一列に並べる時、白玉が隣り合わないような並べ方は何通りあるかという問題から悩んでしまう。

「鈴穂お姉ちゃん、手を休めちゃダメェェェーッ! 順列と組み合わせは習ったばかりでしょ?」 

「あいたぁーっ!」

 理密図にコンパスの針でほっぺたをプチュッと突かれてしまった。

「鈴穂君は、中学生の頃はテストの成績良かったみてえだけど、どんな勉強方法してたんだ?」

「その時は、テスト前だけ、一夜漬けみたいな感じで、やってたよ。それでも、けっこう良い点取れてたの」

 怜央から突如された質問に、鈴穂はけっこう怯えながら答える。

「鈴穂君、高校のテストではそんなやり方じゃ通用しねえってことは実感しただろ? 一夜漬けで身につけた知識は、ほとんどすぐに忘れちゃうんだ。本当の実力は身についてないってことを肝に銘じとけっ!」

「はいぃ、分かりましたぁぁぁーっ」

 きつい口調で厳しく注意された鈴穂は体罰されないようにと、必死に思考回路を巡らせシャープペンシルを動かし問題に取り組む。全部で十題あるうち八題目を解いている途中、

「あっ、あの、私、おトイレ、行きたくなったんだけど……」

 鈴穂は椅子に座ったまま足をくねくねさせ始めた。

「怜央お兄ちゃん、鈴穂お姉ちゃんがおしっこだって」

 理密図がにこにこ顔で伝える。

「ダメだ! 認めん。講義中のトイレ行きたいは、逃げるための常套文句だからな」

 怜央は厳しい表情で告げた。

「そっ、そんな……」

「おれさまは心優しいからな、思春期の女の子な鈴穂君にここで漏らせっていう羞恥プレイは強要せん。これにすれば大丈夫だ」

怜央はにこっと笑い、現代社会の資料集に手を突っ込む。そして環境問題に関する項目が載っているページからペットボトルを取り出し、鈴穂の目の前にかざした。

「でっ、出来るわけないでしょ」

 鈴穂は当然のように拒否した。

「スズホルマリン、チャック開けるね。あっ、パジャマだからついてないのか。じゃぁ、直接脱がしちゃえーっ!」

 剛流磁は鈴穂の側により、パジャマズボンを引っ張ろうとする。

「ボクも手伝うよ」

 キャロルも加担してくる。

「やっ、やめてーっ。あなた達のやろうとしてること、強姦よ。レイプだよ」

 鈴穂は全身をぶんぶん振り動かし必死に抵抗する。

「スズホちゃん、このままじゃおもらししちゃうよ」

「ちなみにペットボトルのペットとは、ポリエチレンテレフタレートのことだぜ。エチレングリコールとテレフタル酸との脱水縮合により作られるのだ。有機化学分野で習うぜ」

 けれどもキャロルと剛流磁の方が優勢だ。

「あっ、あの、怜央さん。厠には、行かせてあげた方がいいのではないでしょうか?」

「怜央お兄ちゃん、鈴穂お姉ちゃんがかわいそうだよ」

睦月と理密図が説得すると、

「……それじゃ、特別に許可してやるか」

 怜央は数秒悩んだのち、こう告げた。睦月君にあの恐ろしい姿に変身されては困る、と感じての判断だった。

「よっ、よかったぁー」

 鈴穂はガバッと立ち上がり、部屋から飛び出し一階にあるトイレへ駆けていった。

本当に、漏れるとこだったよ。

 トイレの扉を閉めようとした。

 その時、

「Wait! スズホちゃん」

「おれさまもお供するぜ」

 キャロルと怜央に阻止され、中に入り込まれてしまった。

「なんでついて来たのよ? パパとママに見つかったら面倒なことになるでしょ。っていうか覗きは犯罪よ」

 鈴穂は顔をしかめ当然のように困惑する。

「先輩として後輩の面倒を見るのは当然だからな」

 怜央はさらりと言う。

「えー、やめてよぉ」

「鈴穂君はおれさまとキャロル君と、家庭学習時間中はいつもいっしょだ。そばに付いてなきゃいけないんだ」

「レオくんはoldestだから、学習指導責任者なんだ。ボクもスズホちゃんと同級生だし」

 鈴穂の要求に聞き耳持たず、怜央とキャロルは真剣な表情で主張した。

「ねっ、ねえ。出て行ってよ」

 鈴穂は足をくねらせながら悲しげな表情でもう一度お願いする。

「それは不可だ。だってそうすると、鈴穂君絶対逃げ出すだろ?」

 怜央は困惑顔で問い詰める。

「逃げないよ」

「全く信用出来んな」

「スズホちゃんのstudyをabandonmentさせちゃうと、ボク達、学習教材として失格だから」

 キャロルは強い責任を感じているようだった。

「私が用足すとこ覗こうとする方がよっぽど失格だよ……もっ、もう限界だぁ~」  

 とうとう耐え切れなくなった鈴穂はパジャマズボンと水玉ショーツをいっしょに脱ぎ下ろし、便座に腰掛けて両手を膝の上に添え、ちょろちょろ用を足し始めた。

「メスブタがし尿を出す場面なんて見たいわけないだろ。センターピボットの散水を見た方がよっぽどおれさまの性欲が満たせるわっ」

「スズホちゃん、ボクもスズホちゃんのexcretion見ないようにするよ。I am a gentleman.だもん」

 怜央もキャロルも扉の方を向いてくれていた。

「鈴穂お姉ちゃんのおしっこ、きれいな放物線を描いてるのかな?」

「うひゃあああああっ! ちょっ、ちょっと、理密図くん、見ちゃダメッ!」

 いきなり横から、いつの間にか入って来た理密図に覗かれ鈴穂は思わず仰け反る。顔を真っ赤にさせながら慌てて恥部を両手で覆い隠すと残りの分も出し切った。

「鈴穂君、どうぞ」 

 怜央が爽やかな表情で三十センチほどの長さに千切り取ったトイレットペーパーを手渡してくる。

「余計なお世話よっ! 怜央くんのエッチ! もうっ!」

 鈴穂は頬を赤らめたまま不機嫌そうにサッと受け取り、後処理を済ませるとすぐにレバーを引いて水を流した。

「鈴穂お姉ちゃん、ぼくもおしっこぉ~」

「それじゃ、すぐに済ませて」

「分かった」

 理密図は幾何学模様のズボンとトランクスをいっしょに下げて、ちっちゃな男の象徴を出すと用を足し始める。

「あの、鈴穂お姉ちゃん、ぼく、そんなに見られると恥ずかしいよぉ~」

「さっきの仕返しよ」 

 鈴穂はにやりと微笑み、横からじーっと覗き込む。

「鈴穂君、酷いメスブタだな」

「You heartless woman!」

「あなた達ほどじゃないでしょ。私、手を洗ってくるから。理密図くんも、おてて洗った方がいいよ」

「気遣ってくれてありがとう、鈴穂お姉ちゃん」

 理密図は嬉しそうににっこり微笑む。

「どういたしまして。三人とも、少しだけここで待っててね」

 鈴穂は強く注意を促した。言うまでもなく両親にバレたらかなり厄介なことになると感じたからだ。

 洗面所は幸い、トイレのすぐ隣のお部屋にある。移動距離はごくわずかだ。

ママとパパも、今いないね。

 トイレから廊下に出た鈴穂は注意深く、周囲をきょろきょろと見渡した。

 安全確認が出来るとトイレに戻り、理密図のもみじのように小さな手を引いて連れ出す。

 そして洗面所へ誘導した。

「早く手洗い済ませてね」

「うん!」

 理密図は蛇口を捻り、

「水冷たくて気持ちいい♪」

 無事、手を洗い終えた。

「おてて拭いてあげるね」

 鈴穂は手拭いを理密図の手に押し当て、そっと拭いてあげた。

「ありがとう、鈴穂お姉ちゃん。優しいね」

「あの、理密図くん。声が大きいよ。見つからないように、部屋に戻ってね」

「うん」 

 鈴穂からの指示に理密図は小声でそう答えて、足音を立てないように一段七秒くらいのペースでゆっくりと階段を上がっていく。

 その時、

「あら鈴穂」

「マッ、ママッ!」

リビングの方から母が突然現れ、鈴穂はびくーっと反応した。

「どうしたの? 鈴穂」

 母の方も少しびっくりしていた。

「何でもない。いきなり現れたから驚いただけ。ママは、何しに来たの?」

「播本先生に用事があるのよ」

 母はそう伝えながら鈴穂の前を通り過ぎ、階段の方へ近づいていった。

えっ!

 鈴穂は焦りの表情を浮かべる。

 さらに悪いことに、

 トストストス。

父が二階の廊下を歩く音まで聞こえて来た。

非常にまずいよ、これは。なんでこんなあまりにタイミング良く。

 鈴穂の心拍数は急上昇する。

どっ、どうしよう。鈴穂お姉ちゃんのパパとママがぼくという極限値に近づいてくる。はさみうちになっちゃうよぉ。

 理密図も予想外の事態にかなり焦っていた。

こうなったら――。

 ふと、理密図はこの窮地を乗り切るグッドアイディアが浮かんだ。すぐに実行する。

「播本先生、ちょっとパソコン借りるわね」

「うん。分かった」

あっ、あれ? 見つからなかったの?

 鈴穂は両親が何事も無かったかのように階段ですれ違ったことに、当然のように不思議がる。

パパ、おトイレには、まだ行かないでね。

 鈴穂の願いが届いたのか、父はリビングへ。ほどなくしてテレビの音声が聞こえてくる。

よぉし、パパしばらく動かないな。

そう確信した鈴穂は階段を見に行った。

「鈴穂お姉ちゃん、ぼくもう少しで見つかるところだったよ」

「うわっ!」 

 鈴穂は思わず仰け反る。階段から転げ落ちそうになった。

 突如、壁の中から理密図が姿をにゅっと現したのだ。

「そんな所に隠れてたんだね」

「さっきはぼく、壁に複素数平面を作って隠れてたの。そこは普通の人には見えない、観測されない平面なの。だから鈴穂お姉ちゃんのママにもパパにも、ぼくの存在が認識されなかったの」

 理密図は満面の笑みで嬉しそうに説明する。

「なんか、よく分からないけど、とにかく見つからなくて良かったね」

「うん! じゃあ鈴穂お姉ちゃん。お部屋に戻っておくね」

 理密図が自室に戻ったことが確認出来、

「よかったぁー」

 とりあえずホッと一安心した鈴穂は、キャロルと怜央を迎えに行くため再びトイレの方へ。

「あっ、あの」

 ドアノブに手をかけ、扉を開けた。

 その瞬間、

「Oh! もう、スズホちゃん。ノックくらいしてね。Etiquetteだよ」

 キャロルに叫ばれた。

「あっ、ごっ、ごめんなさぁーいっ!」

 鈴穂は慌てて謝り扉を閉めた。そして自分の部屋へと戻っていく。

 キャロルが仁王立ちで、気持ち良さそうに用を足している最中に出くわしてしまったのだ。

 キャロルが穿いていたアルファベット柄のトランクスも鈴穂の目にしっかりと焼き付いてしまった。

やっちゃったぁ。でも、悪いのはキャロルくんの方だよ。

 自分の非は認めない鈴穂が自室の扉を開くと、残る三人は鈴穂の所有するマンガやラノベを読み漁ったり、携帯ゲーム機で遊んだりしていた。

「あっ、あのう、もう一度言うけど、あんまり私の部屋を荒らさないでね」

 鈴穂が優しく注意すると、

「ごめんなさい鈴穂さん。すぐに元の位置へ戻します」

「了解、スズホルマリン」

「鈴穂お姉ちゃん、すぐお片づけするね」

 三人は快く応じてくれた。

「さてと、問題の続きやらないと」

 鈴穂が椅子に座り、シャープペンシルを手に持った。

 その時、

「スズホちゃぁん」

「もう、鈴穂君ったら。シャイな子ね」

キャロルと怜央の声がするのとほぼ同時に、部屋の扉がガチャッと開かれた。

「ごっ、ごめんなさぁーいっ!!」

 鈴穂は反射的に謝る。

「べつにボク、気にしてないよ。I don‘t mind at all that I was peeped by you.」

 キャロルは頬をピンク色に染めながら自分の気持ちを英語で伝える。

「おれさまもキャロル君のあとに用を足したぜ。鈴穂君、なんで逃げたんだ? メスブタならこういうシチュエーション大喜びすると思ったんだが」

 怜央が不思議そうに尋ねて来た。

「するわけないでしょ」

 鈴穂は困惑顔で主張する。

「スズホルマリン、オレっち以外はごく普通に排泄行為をするからね。この四名は三次元空間上では現実のヒトのメスと同じだから。オレっちの場合は、飲食物は体内でエネルギーに変換されるからする必要ないけどな」

 剛流磁はにこにこしながら自慢げに語る。

「ド○えもんじゃん」

 鈴穂はすかさず突っ込んだ。

「ぼくもド○えもん大好き♪ 鈴穂お姉ちゃん、数学の話に戻るね。ぼく、鈴穂お姉ちゃんが学校にいる間、数学の中間テストの問題も拝見したけど、簡単過ぎだよ。問題集から数値もそのまま出されてるのが四分の一くらいあったもん。こんなので九〇点百点取ったって意味がないよ。問題を作った先生も手を抜き過ぎ。採点で楽をしようと思ったんだね」

「えっ、かなり難しく感じたんだけど」

 理密図の不満そうな指摘を鈴穂は即反論する。

「それは鈴穂お姉ちゃんに基礎力があまりついてないからだよ。入試問題は今まで見たこともないような問題が出るの。数値変えただけで解けなくなるようではダメだよ」

 理密図は鈴穂を見上げながら苦言を呈した。

「化学と生物もワークからのコピーがかなり目立ってたぜ。スズホルマリンの偏差値は化学四八.九。生物五二.一かぁ」

「古典も、ワークからそのまま出されている問題が多く感じられました。学年平均も七五点もありますし」

「世界史は本当に酷かったぜ。ワークからそっくりそのままので大半を締められてるからな。平均も八〇.三点って。鈴穂君は九一点取ってるけど、学年順位は六三位だし。得意科目みてえだが、これじゃダメだな」

 剛流磁、睦月、怜央の三人は鈴穂の個人成績表を眺めてため息をつく。

「確かに世界史百点いっぱいいたなぁ。あのう、もう十一時過ぎてるし。そろそろ」

 鈴穂は目覚まし時計の針を眺める。かなり眠くなって来ていた。

「ダメだっ! まだ今日の分ほとんどやってないぜ。高校一年生は家庭学習一日最低四時間はやらねえと」

 怜央は厳しく注意する。

「スズホルマリン、ほら見て。ノブミトコンドリアも家庭学習頑張ってるぜ」

 剛流磁に指摘され、鈴穂はテレビモニターに目を向ける。

 伸実が机に向かって、一生懸命数学の演習問題を解いている姿が映し出されていた。

「ほんとだ」

 鈴穂は食い入るように見つめる。普段ののほほんとした表情とは違い、真剣な表情をしていた。

「こちらは鈴穂君の頭が良さそうで気の弱そうなお友達、仙頭学夏君の様子だぜ」

 怜央がリモコンを操作すると、学夏のおウチ自室が映し出された。彼女もまた、机に向かって英語の演習問題を解いていた。

「学夏も、天才かと思いきや、やっぱ陰で努力してるんだね」

 鈴穂は感心しながら呟く。

「その通りです。学夏さんも、伸実さんも、長年刻苦勉励し続けて、あれだけの高い学力を身に付けたんですよ。テスト前だけ勉強すればいい、なんていう鈴穂さんのような浅はかな意識の持ち様とは違うのです。真の学力というのは、一夜漬けで身につくようなものでは到底ありません。鈴穂さんは、中学生の頃や高校の一学期に一夜漬けで覚えたことを、今もう一度やって解けますか?」

「……それは、自信ないなぁ」 

 睦月からの質問に、鈴穂は俯き加減で答えた。

「そうでしょう鈴穂さん。楽をして成績が上がるなんて、そんな甘い考えではいけませんよ」

「学問に王道なしは、ユークリッドの有名な言葉だよ、鈴穂お姉ちゃん」

 理密図は得意げに教える。

「さあ、スズホちゃん。次は英語を頑張ろう。スズホちゃん一番の苦手教科みたいだから、重点的にやろうね」

「分かった!」

 鈴穂は急にやる気がみなぎって来た。椅子に座るとさっそくキャロルが調節した演習問題を解いていく。

     ☆

まもなく日付が変わる頃、

「スズホちゃん、スペル間違えてる!」

「いったたたぁ、ほっ、ほっぺたそんなに強くつねらないで」

 時折キャロルから体罰を受けながら。

「鈴穂お姉ちゃん、ぼく、もう眠いから、寝るねー」

「わらわも眠いので、寝ます。子の刻以降に起きているのは辛いです。おやすみなさい」

「オレっちも眠くなって来たぜ。夜行性じゃないからな。スズホルマリン、あとは頑張ってねー」

 睡魔に負けた理密図、睦月、剛流磁は自分のテキストの中へと飛び込み就寝。

0時二〇分頃。 

「鈴穂君、夏にぴったりの夜食だぜ。元気が出るぜ」

 英語の特訓中、怜央が学習机の上に、あるメニューを置いてくれた。

 タイ名物、トムヤムクンだった。

「ありがとう怜央くん。これも地図帳から取り出したんだね」

「その通りだ。食い物だって取り出せるんだぜ」

「スズホちゃん、これ食べてLet‘s breathe for a moment.」

「じゃあ、いただきまーす♪」

 鈴穂は一旦シャーペンを置き、お皿に浸されてあったレンゲを手に取る。そしてお汁と具をいっしょに掬って口に運び入れた。

「かっ、からぁー」

 瞬間、両目を×にし舌をぺろりと出す。

「鈴穂君、辛いのは苦手か?」

「うん」

「すまねえ。ちょっと待ってろ」

 怜央はトムヤムクンを地図帳に戻し、代わりにタイ名物のデザートを取り出した。

「ありがとう」

 机の上に置かれると、鈴穂は備え付けのスプーンで掬いお口に運んでいく。

「美味しい?」

 キャロルがにこやかな表情で尋ねると、

「うん。けっこう甘くて」

 鈴穂は笑みを浮かべながら答える。幸せそうに全て平らげた。

「さあスズホちゃん、もう少しだけ頑張ろう。毎日コツコツ努力すれば、一時凌ぎではない本当のacademic abilityが身に付くからね」

 キャロルはウィンクする。

「分かったよ、キャロルくん。私、一生懸命頑張るから」

 鈴穂は再びシャーペンを手に取り、英文読解の演習問題を解いていく。

英語の今日の分を学習し終えた頃には午前一時過ぎ。鈴穂はようやく寝させてもらえた。

まさか、体罰されるなんて思いもしなかったよ。叩かれた所がズキズキする。物理的な暴力が振るわれない分、烈學館の方がマシなんじゃないの? ……でも、エッチなことはして来なかったし、優しくも励ましてもくれたし、それに、顔もしぐさも声もすごく萌えるし、これからもあの子達に教えてもらいたいなって感じたな。

 お布団の中で、鈴穂はそんなちょっぴりMっ気が芽生えて来た。彼女が眠りに付いてから数分のち、

「鈴穂さん、傷を治しておきますね」

 眼鏡を外した睦月が国語のテキストから飛び出て来て、鈴穂に向かって両手をかざした。

 すると鈴穂の顔や腕、下腹部、足に出来た痣が瞬く間に消えていったのだ。

「鈴穂さんの寝顔、いとらうたしです。わらわは体罰に加担しないので、ご安心下さいね。おやすみなさい」

 睦月は小声でそう伝えて小さくあくびをし、自分のテキストへと戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る