第3話 初陣へ

 シルクは、見渡す限り真っ白なもやの中を必死に走っている。


「はぁ、はぁ」

 息を吐く、吸う。なぜ、こんなにも息苦しいのか。今まで、どうやって呼吸をしていたのだろうか。自分がこれまで普通にやってきたことが分からない。うまくできない。


 そんな、思うように動かない自分の体にもどかしさを感じる。

 目の前の暗さとは反比例するかのように、心臓の音は自己主張を激しくしていく。まるで、耳の隣まで飛び出てきたかのようだ。肺も痛みをもってきしむ。


 自分はいつから、こうしているのか。いつまで、走っていればよいのか。それを思い出せることもない。

 なぜ、こうしているのか。なぜ、ここまで苦しまなくてはいけないのか。考える余裕がない。


 進んでいるのか、戻っているのか。それすらも分からない。後ろは振り返ることが出来ず、前にすら道がない現状では意味がない疑問だ。


 ただ分かっているのは、自分は逃げているんだということ。相手は過去の自分か、それとも、記憶の底に眠らせた苦しき思い出か。

 そして、追いかけているんだということ。まだ、何も見えない。でも、あと少しで手が届くかもしれないと必死につかもうとして――。


「コケコッコーッ!」

 耳を貫くけたたましい騒音に、シルクの意識は一気に覚醒した。


 じとり、とした眼に映るのは真っ赤なとさか。

「……やぁ」

 寝ぼけているシルクは、目の前のそれに声をかける。彼の意図を察するわけでもなく、ここっ、ここっとのどを鳴らしながら、鶏はシルクの体の上をうろうろとさまよっている。


「お勤めご苦労さん」

 そんな鶏の白い羽毛めがけて、横から手が伸びてきた。鶏は、存外おとなしくその腕のなかにつかまっていく。

「相変わらず、朝に弱いな。シルク」

 にかっ、と笑うのはアゼルだ。ここでようやくシルクの頭が回転を始める。


 そういえば、昨日アゼルに声をかけていた。もし、約束した時間までに起きてこなかったら援助を頼む、と。方法は、と問われたから、任せる、と答えたことも同時に思い出した。

 さすがにこの方法は予想外だ。眼前に置かれた鶏の一声は、起床ラッパよりも頭に響く。


「どこから連れてきたんだい、それ」

 まだ本調子ではないシルクは頭を抱えつつ、視線をアゼルの顔から胸の辺りに落とす。


 彼の腕のなかには、未だに立派な雄鶏が捕まっていた。そして、やはり驚くほどに大人しい。あちら、こちらをキョロキョロとしているが、アゼルの手から逃れようとはしていない。

 これは、アゼルの持ち方が上手いのだろうとシルクは思う。ずいぶんと手慣れているものだと、感心さえする。


「城内の鶏舎から失敬してきた」

「泥棒じゃないか! 」

 声を張ったシルクの様子に、彼の調子が戻ってきたことを確信したアゼルは満足げに鶏を連れて部屋を出て行く。その背中を見送りつつ、シルクは大きく息を吐いた。


 視界に右手がうつる。手を伸ばしてもつかまらない、そんな映像が背景に見える。

「久々にみたな、ああいう夢」

 昔はよく、わけのわからない夢を見ていた。起きた時に詳細は忘れてしまうのだが、今みたいに断片的な感覚が残っていることが多かった。

 ラドーアに言われた通り、自分では自覚していなくても緊張が襲っているのだろう。そう、シルクは不可解な夢に結論づけた。

 わざと勢いをつけて立ち上がる。自分自身を鼓舞するかのように。



 そして、詰所にて。

 ラドーアは昨日のように、約束の刻限より遅れてやってきた。支度に手間取ったシルクも間に合うかどうかの瀬戸際だったので、ゆっくり来てくれて助かったといえる。

 着席して落ち着くなりラドーアは心底申し訳なさそうに、それでいてあっさりと、今日の予定を口にする。


「さっそくで悪いんだが、演習も兼ねて山賊退治にでも出向いてもらおうか」

「え、いきなり」

 アゼルは本当にラドーアに対して口に扉がない。思ったままのことを声に出すと、ラドーアは芝居がかった様子で目を丸くする。

「なんだ、私が座学でもするかと思ったか。実戦向きなんだろ、アゼルよ。その実力を見せてみな」


 アゼルは天を仰いだ。実戦向き、とは昨日シルクに対して誤魔化しも兼ねて使った言葉だ。本心から言っているので問題ないのだが、さすがに昨日の今日で言われるとは思わなかった。

(聞いてたのかよ、爺さん。趣味悪いぜ)

 そんな風に、アゼルは音量控えめに愚痴を零す。隣りにいるのでそれが聞こえていたシルクは、扉に耳をつけて中の様子を伺うラドーアの姿を想像して、吹き出しそうになるのをなんとか我慢した。


「先日、鉱山が占拠された事件があってな。まぁ、それ自体は解決したんだが、問題はその後よ。逃げ落ちた山賊が村を襲って、あちこちひどいことになっている。人手が足りんから新人を回してくれ、とのことだ」

 簡単に行ってしまえば詰めが甘い連中の尻拭いだな、とラドーアは笑った。

「俺達は何でも屋か」

「似たようなもんだ。こと、この北部ではな」


 ヴェレリア王国北部地域。

 かつて、多数の民族が共存していた場所であったが、十年ほど前にその対立が激しくなったのを機にヴェレリア王国が武力介入をした。そして、ヴェレリア王国が全土を制圧。その後に正式に王国が自国領とした経緯がある。

 そのため、その時に起こった争いで生まれた敗残兵が野盗化したのをはじめ、王国に反抗する民衆の思いを根強く、未だに混乱が続いている。

 駐屯する北部軍は治安維持も目的の一つとなっている。


「シルク」

「はい」

「お前に他の新兵も預ける。指揮をとってみろ。できるだろ? 」

 ラドーアは真っ直ぐにシルクを見つめた。挑むかのように睨めつける瞳は、同時に信頼の光を宿していた。


「はいっ」

 先程よりも強く頷く。迷いのない、素直な眼光。

 ラドーアはその様子に表情を崩し、卓上に地図を広げるのであった。

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