定義上寿司

negipo

第1話

 テントの外から雪を取って、コッヘルで沸かし始めた僕に、ねえ、と彼女が問いかけて、僕は頷いた。

 何か、符牒を決めていた訳じゃない。ただ小刻みに震える僕の手が、からからに乾いて掠れる彼女の声が、雄弁にその決断をお互いに催促しあっていた。

 床に置かれた、一個のいくらの軍艦巻き。二百名山を踏破する旅も終盤の北海道で遭難して八日目の、僕らの頼りない住処に残された最後の食料がそれだった。

「食べるか」と、僕が言うと、彼女は黙って首を振った。

「なんでねぎとろじゃなくて、いくらなの」彼女が百回はした質問を繰り返す。

「私、いくら好きじゃないのに」

「仕方ないだろう。ザックに残ってたのは、いくらだけだったんだ」

「ああ……。こんなんだったら、あなたと一緒に北海道なんか来るんじゃなかった」

「あんなにはしゃいでうにを食べていたくせに」僕が言うと、彼女は「そうね」と言って、しばらくの間黙った。

 ごうごうと風が巻いている。

「いくら、僕が食べていいのかな」

「だめよ」

「だって、好きじゃないんだろ、いくら」

「嫌いよ」彼女は言った。「だいっきらい」

「わかった、こうしよう、いくらと海苔は僕が食べる。シャリは、君が食べる」

「絶対に、だめ」

「なんでだよ。もうそれ以外、ないだろう」

 彼女は、じいっと僕の目を見て言った。「それが定義上、寿司だと言えると思う?」

「言えないね」僕は確信を持って言う。「そうなったら、いくらとシャリだ」

「じゃあ、だめじゃない」

「うん、よくわからないけど、こういうのはどうだろう」

 僕はコッヘルから溶け残っている雪を取って、シャリの形にまとめた。

「君はシャリを食う。僕は――」雪に海苔を巻いて、いくらを乗せた。「――これを食う」

 彼女が、なるほどね、と納得して花のように笑ったので、僕は嬉しくなって定義上寿司と言えるものを頬張った。

 帰れたら、最高の寿司屋で寿司を食べたいなと思った。定義特上寿司が、食べたいなと、思った。

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