はるけき私のサルバドル

第三艦橋大破

コンバートイントゥーマネー

 切りつけるような冬の外気が古い荒屋に染み入ってくる夜中、薄らかび臭い布団に包まって目を閉じても眠れないでいる。がたがたと歯の根が合わずに膝を抱いた屈曲側臥位でいるのは寒さだけのせいではない。

 0時を過ぎた頃だから、いつもならもうそろそろあいつが帰ってくる。息を殺して固まっていても逃れられることではないが、それ以外の方法が僕には存在しなかった。


 そうしていると、ほどなく調子の悪そうな60型マークⅡのエンジン音と、タイヤが砂利を踏むパキパキという音が近づいてくる。薄い窓ガラスがテールランプの赤を滲ませて、閉じた目にもその色が写る。さらにきつく瞼を瞑り首をすくめていると、独り言ともしわぶきともつかない声が聞こえてくる。鍵がガチャガチャと鳴って、建て付けの悪いガラスの引き戸を開けようとしているが、どうやら鍵穴が渋く、酩酊しているであろうあいつはだいぶ難儀をしているようだ。一拍、鍵の音が止むと、「ガタンガタンガタンガタンガタン!!!」ガラス戸を叩き鳴らす物音が鳴り響く。


 僕は跳ね起きて、真っ暗な室内を転びながら玄関まで全速力で駆けつけた。錆で異常に固くなったスライド式の鍵を、汗ばんだ手で何度か滑らせながらようやく開けると、すでに拳を振り上げたあいつが、冬のいやに鮮明な月明かりに照らされて確認できる。咄嗟に手のひらで顔を覆い目と口を守る。病院には連れて行ってもらうことが出来ないから致命的な怪我は避けなければいけないからだ。


 指の間から振り下ろされる拳がはっきりと見える。次の瞬間、左の肩峰部に休息と栄養の足りない発育途上の体を吹き飛ばすのに十分な衝撃が加わる。三和土の段差に足を取られて頭から壁に打ち付けられる。あいつはそれ以上僕には追撃をしない。ギシギシと足音を軋ませて母親が寝ている部屋の方向に移動する。僕は四つん這いになりながらも慌ててあいつの足にすがりつく。なるべく憐憫を誘うような声で繰り返す。「お父さんごめんなさい、僕が悪かったんです。許してください」


 そのあとは振りほどくように蹴り飛ばされ、惰性で二、三回踏みつけられるだけで済んだ。気が済んだのか、よほど深い酩酊だったのか畳に直接敷いた万年床に倒れ込んむ音の後直ぐに鼾が聞こえてくる。僕はようやく安堵して、もといた寝床に物音を立てないようにそっと戻り気絶するように眠りに就いた。





「競一君そろそろ出番だから起きてアップしたほうがいいよ」

 控えめの音量だが自己主張の強いエキゾチックな民謡が聞こえ、独特で心地よい清涼感があるタイオイルの香りが充満する選手控え室のソファーで目を覚ます。

 あれから十数年経つけれど、殴り合いをしなくちゃいけない日は必ずその頃の夢を見る。起こしてくれた同じジムの練習生でタイからの留学生メイクフォンがうがい水とマウスピースをタオルに巻いて準備をしながら

「ああ、今日はムエタイかー。いくらキック系の試合は身元のチェックが甘いからって競一君は一応JBCのライセンス持ってるんだからわきまえないと」

 そうひとりごちるように諭してくる。節操なくファイトマネーの出る、選手のレベルがそう高くない大会にボクシングもムエタイも関係なく参加するのは今に始まったことではない

「気を使ってくれてありがとう。でもいくら安いファイトマネーでも足しにはなるし、試合の経験値は練習では手に入らないものだから。あと僕のこと本名で呼ぶのやめてね。せっかく偽名でエントリーしてるんだから」

 JBCこと日本ボクシングコミッションはジムの運営からライセンスの発行、選手のフィジカルな問題などに非常に厳しい。JBCが管轄しない試合、もとよりムエタイの試合などもっての他でバレたら一発でライセンスは剥奪される。そして再獲得することはほぼほぼ不可能である。でもそんなリスクを犯しても、ファイトマネーが二万円にも満たないこの大会にでるメリットはちゃんとある。格闘技の勝ち負けにオッズをつけてトトカルチョをする非合法な、昔ながらの営利団体に自分の勝ちにそのファイトマネー分の投資をしているからだ。高校の同級生で、何の因果かそんなところで働かなければいけない奴がいて。せっかくなので、そのつてで利用させてもらっている


 入念なストレッチをしたあと、縄跳びをしながら横目で対戦する相手のアップ風景を盗み見る。ミットを軽く流すような強度で打っている。オーソドックススタイルで体格は背は高めだが線が細い。呼吸数は平均して毎分35回程度。ミットの合間に饒舌に仲間と話し合っている。肌の色は浅黒いがムラがないから恐らく日焼けではないんだろう。今どき金髪のツーブロックで前歯が一本欠けている。パンチ、キックはミットの炸裂音からしてさして脅威を覚えるものではなさそうだ。


 僕の試合の順番が近づいてくる。バンテージチェックが終わって固定された拳に、8オンスのグローブを気休め程度だがナックル部分が薄くなるように力いっぱい引っ張って密着させる。マウスピースとファールカップの装着確認をされるとコーナー下に待機して、あとは先に行われている試合が終わるのを待つだけだ。


 反対のコーナーを見ると対戦相手の顔が見える。忙しなく仲間を見回し自らを鼓舞しようとしているのか拳を振り上げて気合いを入れるような声が聞こえる。メイクフォンが僕に耳打つ

「相手はずいぶん緊張してるね。競一君はシーライクだよ」

 リラックスしろという意味らしい。日本語がすごく堪能な割には会話中にタイ語をわざとまぜてくる。外国人であることをあえて演じるひょうきんな性格と端正な顔立ちでジムの女性練習生には人気がある。


 レベルの低い格闘技の大会は、無慈悲に淡々と進んでいく。僕の目の前で先に戦っている奴らは最終ラウンドが終わるとコーナーに戻らされ、あっという間に採点が終わりまたリング中央に呼び戻される。レフェリーによって勝者の腕が挙げられると、余韻に浸る間もなくリングを降りるよう追い立てられる。僕の目の前を敗者が胡乱な表情で、たたらを踏みセコンドにエスコートされながら通り過ぎる。さて僕の番だ。


 コーナーポスト脇のタラップを登り4本ロープの真ん中をすり抜ける。その場で軽いシャドーをしながらレフェリーに呼ばれるのを待つ。相手もリングにあがりセコンドが捌けると僕の適当に届け出た偽名がリングネームとして読み上げられる。それに応え右手を挙げてお辞儀をする。相手も呼名に応じて雄叫びをあげている。

「うるせえなあレンボン」

 メイクフォンがセコンドで苦笑いしながら呟いている。ちなみにレンボンとは病的な馬鹿。らしい。

 リング中央に呼ばれ注意事項を聞き、コーナーに戻される。メイクフォンが僕の肩を軽く叩いて笑っている。ゴングが鳴る。


 二三歩進みグローブタッチをしようと右手を軽く上げると、そのレンボンが突進してくる。グローブタッチを無視した右のストレートが飛んできたが、力んでいるせいか軌道が真っ直ぐではない。ガードを上げて芯に食らわないように当たるポイントをずらす。やっぱりさほどパンチはないらしい。相手は奇襲が成功したと思い込んで追撃してくる。だいたいのパンチ、キックを芯をずらしてわざと当てさせるが、こっちも反撃しないと採点の心証は悪いしレフェリーに止められるからこっちも一応手足を出す。そんな劣勢で1ラウンドが終了する。


 コーナーに戻り、メイクフォンが出してくれた小さなパイプ椅子に腰かける。

「競一君大丈夫?怪我はしてない?」

 さほど心配してはいない様子で笑いながら聞いてくる

「多分大丈夫。骨とか折れるとやっぱりそれなりに違和感あるしちょっとは痛むから」

 マウスピースを外された口に容れてもらった少量の水でうがいをして、蛇腹のホースがリング下のバケツに繋がっている漏斗に吐き出す。口腔内にも外傷は無いようだ


 セコンドアウトのアナウンスが流れ、立ち上るとすぐにゴングが鳴る。レンボンはずいぶん汗をかいている。呼吸数も毎分に求めると40回程度に上昇している。首の動脈の拍動を見ても毎分120回程だ。インターバル明けでこれは明らかなスタミナ不足だし、近づいて見ると目の結膜部分がうっすら黄色く見え、息もわずかに黴臭いのような口臭がある。肌の浅黒さも考えて、肝障障害の兆候が伺える。酒の飲み過ぎなのか、外国製の得体の知れないサプリメントで試合前にブーストをかけようとしたのか。因果関係は不明だが


 今回もグローブタッチをしようと僕は右手を前に出す。レンボンはまた小走りに拳を振りかぶりながら向かってくる。

「アライワ!こいつ本当にレンボンだね!」

 メイクフォンが相手に聞こえるほどの大声で楽しそうにはしゃいでいる。『アライワ!』とは『なんだこの野郎は!』といった意味なんだそうだ

 僕はコンバートサウスポーだから右手は普通のサウスポーより器用に動かせる。手のひらを少し広げて相手の視線を微妙に邪魔しながら引き付ける。


 レンボンが右のストレートを出そうと体を反らせて振りかぶった瞬間に渾身の左ストレートをレンボンの右第11・12胸椎、肋骨弓による胸骨結合がない浮遊肋に叩き込む。骨がたわんで軋む感触があった。なによりその下には、何らかの肝障害の前兆が疑われる肝臓がある。


 レンボンは明らかな苦悶の表情で倒れまいと必死にこらえている。恐らく折れているであろう右側の浮遊肋にさらに僕は左のミドルキックをコンパクトに三発入れる。そうすると、完全に右手のガードが下がり後退が始まった。追いかけるように左のストレートを伸ばすと真後ろに逃げるレンボンの顎に当り、そのまますとんと尻もちをついた。レフェリーが間に入りダウンを取る。ニュートラルコーナーに下がらされカウントを始めるが、8まで数えたところでレフェリーがレンボンの顔を覗きこんで、一拍間をおいてから両手を交差させる。これ以上の続行は不可能と判断して試合終了となった。


 リング中央で僕は腕を挙げられ勝利を告げられる。称賛の拍手はまばらで、僕もまた花道に追いたてられるように急いで降りなければいけなかった。

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