6

 絵里香にタイムマシンを発明して貰いたい──。

 それだけを言付けると、不意にアニマと名乗った少女は消え失せた。

 理由も言わず、僕に挨拶もなくだ。

 実に失礼な少女だ!

 もっとも、アニマが消えたというのは、正確な表現ではない。何しろアニマは、絵里香の言葉を信じると、僕の身体の中に棲みついているのだそうだ。単に、僕と絵里香の視覚に自分の姿を投影することをやめ、今は僕の身体の中で眠っているのだろう。

 眠っている?

 いや、違う。

 絵里香の推測では、アニマは僕らと関わることをやめ、何か自分だけの用事に戻ったらしい。

 正直、気分が悪い。

 だってそうだろう。

 自分の知らないうちに、身体の中にもう一人──というより他人か?──別の知性体が存在して、勝手な活動をしているなんて、気味が悪く感じて当然だ。

 それも元は、風邪のウイルスだぜ!

 いったいアニマの正体は何だろう?

 どうも、僕の印象では、絵里香は何か掴んでいるようだ。知能指数三百の天才にかかれば、一言、二言、言葉を交わしただけで、アニマの正体はほぼ、見当がついているのだろう。

 でも、僕は一切、知らされていない。もしかすると、僕に理解できないのかも。それで絵里香は、僕に説明しないのかもしれない。

 ちぇっ!

 僕は研究室の一角に、何とか座る場所を確保し、腰を下ろして絵里香を観察していた。

 絵里香は、というと、さっきから研究室をのしのしと歩き回って、ぶつぶつと何か独り言を呟いていた。時折、空中に指先を動かし、仮想のキーボードを叩いて、眼鏡に映し出したデータに見入っている。

 ピンク色縁の眼鏡は、絵里香の言によると、超高性能の、ウェラブル・コンピューターだそうで、手の動き一つで、データを呼び出せるのだそうだ。

 一心不乱に考えている時の、絵里香は余計な雑音を嫌う。

 やがて絵里香の顔に、会心の笑みが浮かんだ。何事か、解決したらしい。

「やったぞ! これで問題解決だ。アニマの奴、どこでこんなデータを手に入れたんだろう?」

 僕は立ち上がった。

 絵里香を見て、自分の眉を思い切り跳ね上げて見せた。

「どういう意味だい?」という意味だ。

 絵里香はピンク縁に指先を触れながら、説明した。

「アニマの奴、消える直前、おいらの眼鏡にタイムマシン開発に必要なデータを残していったんだ。時間偏流、時間物理学、空間歪曲エネルギーの数値、重力工学の理論、その他諸々だ。さあ、忙しくなるぞ!」

 ぱん! と両手を打ち合わせ、絵里香は猛烈な勢いで手の平を摺り合わせた。何か研究、開発テーマを見つけたときの絵里香は、生き生きとしている。

 が、僕は心配だった。

 絵里香の言葉によれば、僕と絵里香はこの研究室に監禁されているという。

 ちらっと外部を監視するカメラ映像を見ると、相変わらず伊藤という運転手は、ドアの前に立ちはだかって、微動だにしない。

 えっ?

 僕は小走りにモニターに近づき、画面にしげしげと見入った。

「絵里香──こっちを見てくれ」

「何だよ」と絵里香の面倒臭そうな声。

 何をしているのだろうと、絵里香を見ると、研究室に堆く積まれている我楽多の中に上半身を突っ込み、盛んに何か、探し物をしているところだった。

 がらがらと騒々しい音を立て、絵里香は次から次へと、様々な我楽多を四方八方に投げ捨てている。多分、タイムマシンを開発するための機材を探しているのだ。

 とうとう、絵里香の全身は、我楽多の山の中に埋まってしまった。

 いつものことなので、僕は構わず話し掛けた。

「院長先生がこっちへ来る」

「パパが?」

 素っ頓狂な声をあげ、絵里香は我楽多の山の中から、首だけ突き出した。がらがらがっちゃん! と盛大な騒音を蹴立て、絵里香は僕の隣へすっ飛んできた。

 僕はモニターの映像を指差した。

 分割された映像の中で、急ぎ足で研究室に近づく真兼病院院長、剛三氏の姿があった。

 剛三氏は出入口の前に立っている、伊藤に気づいた。何か話し掛けている。監視カメラは、マイクがないから、何を言っているのか判らない。研究室の建物は、遮音性が高いので、外部の音はまったく聞こえないのだ。

 今日の昼、記者が押し掛けていたのに、気づかなかったのも、同じ理由による。

 何度か押し問答を繰り返した後、剛三氏は、研究室のドアへ近づいた。カメラの視界から剛三氏が消えた直後、ドアノブが回され、剛三氏が研究室へ入ってきた。

「おい、絵里香。あの伊藤という男は何者だ?」

 ドアを空けて入室した途端、開口一番、剛三氏は、絵里香に質問を投げ掛けた。絵里香は剛三氏の言葉に、ぐいっと身を反らし、口を開いた。

「パパが知らないなら、おいらが知るはずはないな。あいつは、パパに雇われて、運転手になったと言っているぞ」

 剛三氏はぱくんと、言葉もなく大口を開けた。そのまま二度、三度口を開閉させ、ようやく立ち直って言葉を発した。

「知らんぞ。そんな運転手など、雇った覚えはない。この場所を守っていると、主張していたが……何しろ、父親だと納得させるのが、大変だった」

 絵里香は肩を竦めた。

「あいつは、おいらを護衛しているんだそうだ! 何から護衛しているか、知らないが」

「護衛?」

 剛三氏は呟いた。

 何事か、考えているらしい。一瞬、空白の時間が流れた。が、絵里香は父親の様子に気づくことなく、突慳貪つっけんどんな調子で、口を開いた。

「それよりパパ、何の用?」

 絵里香の言葉に、剛三氏は我に帰った。

「そうだ! 実は絵里香。お前に聞きたいことがあったんだ」

「おいらに?」

「うん……。あの薬だ」

 剛三氏はやや前屈みになって、絵里香に向き直った。

「絵里香が自分に注射した薬だ。あれの詳しいレシピを教えてくれないか」

 父親の言葉に、絵里香は疑わしげな表情になった。

「そんなの聞いて、どうすんだ?」

 剛三氏は作り笑いを浮かべた。

「つまり……絵里香が、あの録画で自分に注射した、薬の成分を明かしたろ? だが、あの薬品の調合では、どう考えても、同じ結果になるとは思えない。もしかしたら、あの録画で言っていない、他の成分も含まれているんじゃないかと思ってな」

 剛三氏の言葉を聞いていた絵里香は、徐々に引き締まった表情を浮かべた。絵里香の表情に構わず、剛三氏は先に続けた。

「あの薬は、劇的な体質改善を図れる、奇跡の薬品だ! ダイエットばかりじゃなく、もしかしたら夢の若返りさえも、望めるかもしれないんだ。な、これが医学会に与える衝撃を考えてくれ。だから、詳しい成分を、教えてほしいんだ」

 絵里香を掻き口説く、剛三氏の口調は、熱っぽいものになった。最後には剛三氏は、絵里香の両肩をがっしりと掴んでいた。

「なあ、絵里香……教えてくれ」

 絵里香はゆっくりと腕を挙げ、自分の肩を掴んでいる剛三氏の手を払い除けた。腕を払い除けて、首をはっきりと左右に振った。

「駄目だよ、パパ。実を言うと、おいらだって、詳しいレシピは覚えていないんだ。録画で喋ったのは、適当な薬品名だ。おいらの喋った薬品を調合しても、同じ薬が作れるとは思えねえ……」

 剛三氏の両肩が、僅かに下がった。が、剛三氏は諦めなかった。

「それじゃ、残っている薬だけでもいい。全部使い切ってしまったわけじゃないんだろ? 少しでも残っていれば、成分分析をして……」

 絵里香は、剛三氏の言葉を遮った。

「いや、駄目だ! 同じ成分の薬を調合しても、多分、効き目はない。恐らく、投与した途端、被検体は死ぬよ」

 剛三氏の顔に、怒りが上った。

「なぜ、そう思うんだ! 絵里香、何か隠していることがあるのか!」

 絵里香の視線が、僕に向かった。

「あの時、薬を最初に投与した時、啓太は驚くべき変身を果たした……。その後、おいらも自分に注射して、また別の変身を果たした……。これには、ある原因が関わっている」

 絵里香の口調は、考え深げで、ゆっくりとしたものだった。いつもの、せかせかとした、他人の理解などお構いなしの調子とは、まるで違っていた。

「これから、おいらは、ある発明をするつもりだ。おいらが考えるに、啓太とおいらの変身は、今から発明するものに、関わっている──」

 剛三氏は機嫌をとるかのように、絵里香に質問した。

「その発明とは、何だね」

「タイムマシンだ! おいらは今から、タイムマシンを開発する!」

 絵里香の言葉に、剛三氏の顔色が、真っ赤に染まった。

「馬鹿なことを言うな! 絵里香! お前はそんな戯言で、パパを誤魔化せると思っているのか? いいから、さっさとあの薬を寄越しなさい!」

 明らかに、剛三氏は激昂していた。僕が今まで見たことのない、怒りの表情を顕わにしていた。僕の記憶では、剛三氏は、常に温和な表情を崩さなかったのだが……。

 絵里香は白衣のポケットから、薬瓶を取り出した。

「ほら、これだよ」

「これが……!」

 剛三氏の顔が、喜悦に歪んだ。ブルブルと震える指先で、絵里香から薬瓶を受け取ると、大事そうに内懐に収めた。

 その時、ガチャリと音がして、ドアが開いた。そこに、伊藤が立っていた。

「大丈夫ですか。大きな声が聞こえまして……」

 伊藤は唇をあまり動かさない、独特の喋り方で話し掛けた。伊藤の巨体は、出入口をほとんど塞ぐほどだった。

 絵里香はずいっ、と一歩前へ出ると、声を張り上げた。

「心配ない! いいから、持ち場へ戻れ!」

「承知しました」

 伊藤は大きな身体を折り曲げるようにして、一礼すると引き下がった。剛三氏は、伊藤の身体を避けるように、出入口から外へ出て行った。

 ドアが閉まると、絵里香は眉をひそめた。

「妙だな。この研究室は、厳重な遮音性を持たせているんだ。あれくらい怒鳴っただけで、外に聞こえるわけがないんだが……」

「耳が良いんだろ?」

 僕が一言挟むと、絵里香は「けっ!」と吐き捨てた。

「どうでもいい! ともかく、タイムマシンを作るぞ! おいっ、啓太、今からおいらの助手として働け! 判ったな?」

「判ってるよ……」

 今さら「嫌だ」など、言えるものじゃない。

 これじゃ明日、家に帰れるかどうか──。

 僕は諦めの心境になっていた。

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