第32話 悪魔は灰の彼方より訪う

 春夏秋冬の概念はこの世界にもある。


 俺がいま暮らしているこの地方の天候は、晴れが続く時期と雨ばっかりの時期がはっきり分かれていて、一年に三回入れ替わる。


 新年は春から始まって、これが第一乾季。日本で言えば4月から5月くらいだと思う。梅雨から初夏にかけては第一雨季――というように、第三雨季までが繰り返される。


 第二雨季は、乾いた夏から一転して雨が続き、気温が下がっていく。秋の長雨ってやつと同じようなものだ。


 気温は高いのにマスクと灰合羽が手放せない時期に比べると、一応は過ごしやすくなっていく。


 暑さだけの問題じゃなく、雨粒が空気中の灰を巻き込んで落ちてくるおかげでずっと呼吸が楽になる。マスクなしでも過ごせるくらいだ、とたとえ話で言われることもある。実際に試すのはやめた方がいいけど。


 ただ、雨季ならではの危険っていうのもあって、そんなことを言い出せば乾季の時も危険だけどそれはひとまず置いておいて、そのひとつが『灰崩れ』とか『灰雪崩』とか言われている土砂崩れだ。


 灰の毒は植物も腐らせる。毒の染みこんだ土壌からは、この世のものとは似ても似つかないモノが生えたりする。旧アベリー市にまで荷物を運んでいったときにすれ違った、トゲのある真っ赤な何かが生えた森があったのを覚えているか? ああいうのだ。


 よくある話で、木がなくなると土を保持する力が弱まって土砂崩れや洪水が起こりやすくなる。


 それだけじゃなく、地面にはところかまわず灰が降り積もっている。乾いた灰の層が地面を覆っているわけだ。そこに長雨が降り続くとどうなるか。わかるだろう? 地滑りがおこり、ドロドロになった灰の濁流が川に流れ込むんだ。


 これが灰崩れだ。


 過ごしやすくなるといっても、季節の移り変わりの最初に降る雨は、年間を通して一番毒を含んだ水滴となって落ちてくる。


 灰の穢れをたっぷり取り込んだ毒の雨。


 黒い涙だ。


     *


 俺たち空箱運び一行は、黒い涙がおさまるまで途中の宿場町で立ち往生になった。


 視界も悪くなるし、足場もぬかるむ。


 陸王サイの頑健さと足の速さなら突っ切れないこともないけど、随伴するラルコが生きてそれについていける可能性はそれほど高くない。


 とりあえず黒い涙が透明になるまでは雨宿りだ。


「もう少し早く出発できていればよかったですねえ。ああ、反対にもう少し遅く出発してもよかったかも」


「黙りなさいラルコ。元々半月以上時間がずれ込んでいることを忘れたのか……」


 場を和ませるつもりだったのだと思うけど、ルシウムのラルコに対する態度は冷えた金属みたいだった。


 半月か。


 確かに俺が馬車で旧アベリー市まで例の箱を届けてからそのくらい経つ。


 いろいろと重なって俺が陸王サイを荷駄に仕立てるまで動かすこともできなかったのだから、荷物に関する責任者であるルシウムにとっては頭痛の種だろう。護法軍本部までは無理をしてでも急ぎたいはず……。


 そういえば考えたこともなかった。


 何で急いでるんだ?

 

 中身が重要な軍事物資なら理解できる。でも荷台に積み込まれた縦長の箱には何も入っていない。重要なのは『箱そのもの』だという話だから、要するに頑丈なだけで空っぽの箱を急いで届けようとしていることになる。しかも盗難防止に策を講じながらだ。


 純正魔法創造物アーティファクトは存在そのものが貴重だというのはわかる。箱の形をしているけど金塊よりも価値のあるものだ。


 でも護法軍は財産が欲しいわけではないだろう。一番重要なのは世界の法と秩序を乱す敵と戦うことで、最後の魔法の塔と大坑道を死守することだ。


 そのために必要なのは戦う力、戦い続けるための力のはずだから、箱だけあっても意味が無い。少なくとも俺には思いつかない。


 それに契約書の禁止事項のせいでそのことを尋ねようとすると舌が動かなくなるからこれ以上は知りようがない。


『運び屋は客の荷物を詮索するな』。


 雇い主から直接教わった数少ない言葉だ。


 俺は割りとそういうことは律儀に守る。


 守っていたはずなんだが。


     *


 同じ頃、俺の知らないところでいくつかの動きがあった。


     *


 灰崩れの土砂と濁流に襲われ、北方のアーパイン防毒農業地区が大きな被害を受けた。十年以上の試行錯誤を重ねて何とか灰の毒を除去する農法を確立した土地は分断され、毒の泥が畑に染み込んだ。


 不幸中の幸いで、第二乾季で実った作物は収穫済みだったものの、今後の生育にきわめて大きな影響をおよぼすことは明らかで――農夫や重農魔法使いたちは呆然と立ちすくむしかなかった。


 少しでも作物を守ろうとする人たちと、命を省みろと止める人たちの悶着があって、決着する前に絶望が現れた。


 ボロをまとい、背中を丸め、杖をついた老人がいつの間にか灰色の泥に覆われた畑の只中に立っていた。


 老人だということだけは遠目にも明らかだったが、ほとんど前屈みになるほど丸まったその背中までの高さでおそらく3メートルは超えていた。


 巨大な老人の姿をした絶望が、泣き喚く赤ん坊みたいな顔で笑うと、杖の先からぼこぼこと泡を立てて灰色の泥人形が這い出してきた。


 誰かがその巨老人を『クレイマンサー』と呼んで、いつのまにかそう呼ばれるようになった。


 生存不能領域から訪れるグレイ=グーだ。


 湧いて出る下僕の泥人形は毒の塊でもあり、捕まった人間は死んだ。


 黒い涙が降り止んだあと、死者行方不明者は609人にのぼった。


 これはアーパイン地区の人口のおよそ8割にあたる。


     *


 アクアカレン漁港は19年前のちょうど同じ季節に住民のほとんど全てがフィーンド化する灰禍に見まわれた。


 護法軍による必死の包囲攻撃にもかかわらず陥落は果たせず、奪還は不可能と判断され人類の統治下から放棄された。


 護法軍高級士官モリブデンはかつてその奪還作戦に参加するも、フィーンドとの交戦中の怪我が元になって化石病に罹り、両膝から下を切断することを余儀なくされた。


 魔法によって動くこの世界の義肢はその後の軍人としての人生に対するハンデキャップとはならなかったものの、彼にとっては生涯の屈辱の証だった。


 時は流れ、黒い涙が降りだすのと同じくしてアクアカレンのフィーンドが活気づき始めたという報を受けたモリブデンは、危険な毒雨の中、自ら前線に出て指揮を取った。


 物理的、魔法的に封鎖された漁港からはすでにフィーンドの群れが這い出し、二重囲いのバリケードが破られていた。


 19年の月日で中のフィーンドは食料不足で餓死したと思われていたが彼らは死んではいなかった。死にながら生きていた。生きながら死んでいた。


 ほとんどミイラのように干からびた体に黒い涙が吸い込まれ、かすれた声で苦悶する彼らは人間に擬態した枯れ枝のようでもあり、ミイラを適当にバラバラにしてくっつけたような異様な姿を見せていた。


 元から人間のパロディじみた姿なのに、19年物の化け物は2体もしくはそれ以上の個体が融合していた。


 おそらく共食いした結果と考えられた。その上で、干物みたいに乾燥した状態で年月を過ごしていたのだろう。


 それがいまこの時に蘇った。


 黒い涙は雨季が始まる度に起こる現象だから、それがトリガーになっているとは考え難い。ではいったい何がフィーンドを干からびた生死の狭間から呼び覚ましたのか?


 疑問の答えは、護法軍キャンプの背後に自分から姿を表した。


 裸の女の姿をしたグレイ=グー、あの大坑道籠城戦にも現れた『フィーンドの女王』だ。


 女王の指の運びひとつでミイラ化フィーンドが一斉に襲い掛かり、さらに女王自らが率いていたフィーンドが雪崩れ込んだ。挟み撃ちの形になったキャンプは混乱に陥りながらも徹底抗戦した。護法軍は常に徹底抗戦するのだ。


 ミイラ及びノーマルフィーンドは、女王の操作により異様な凶暴性を発揮した。


 虎の子の硬化霊薬短針弾散布装置フレシェットスプリンクラーまで破壊され、モリブデン指揮する護法軍は窮地に追いやられた。


 対フィーンド戦術に長けていても、女王には通用しなかった。


 作戦を弄しようとも無駄に終わった。


 グレイ=グーは倒せない。


 魔法も銃弾も焼夷霊薬も通用しなかった。


 モリブデンは一部の精鋭とともに抜剣突撃まで試みた。


 追儺バニッシュ魔法刻印済みの剣で首を刎ねても女王は死ななかった。


 グレイ=グーは殺せない。


 死ぬのは人間の特権のようだ――モリブデンが最後に残したウィジャ・メモリにはそのように記録されていたという。



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