第8話 血の色の森に鳥は啼かない

 地獄の灰は地上に満遍なく降り積もって、平等に人間を行き場のない道に追い込んでいった。国家元首も芸術家も医者も魔法使いも平等に死んだ。


 金持ちや社会的地位のある人達は、灰を防ぐ手段を一般市民よりは多く用意できたから少しは延命できただろう。でも、権力や金でどうにかできても限界はあるし、そういういわゆる「持てる者」は混乱期に戦争と略奪という、悪魔のしわざとは別の理由で削られて、すり潰されて、結局灰を被った。


 生き残りの人々が積極的に守ろうとしたのは、魔法の使い手だけだ。


 まあ、当然のことだ。


 この世界で何とか人間が生きていられるのは防毒マスクや浄水装置、村とか町を守る防毒隔壁のおかげで、そういうものを作り出せるのは魔法使いしかいない。


 最後の魔法の塔に護法軍が駐屯地を作って厳重に警護しているのはそのためだ。魔法の力の総元締めである魔法の塔と、そこに住むほんの数人しかいないトゥルーメイジたちが失われたら――どうなるのかな? たぶんもっと多くの人間の死が二次関数みたいに跳ね上がるんだろうな。


 ついでだから少し説明しておくと、この世界の魔法は神様に与えられたもので、魔法使いはその力の源に近づこうとする人たちのことだ。だから坊さんとか神父とか牧師とか、宗教の出家修行者みたいな存在を想像して欲しい。下は修行僧から上は大司教、頂点にいる真の魔法使いは法王とか教主とか、そういう感じだ。


 防毒マスクに欠かせない霊薬をつかったフィルターなんかを作るのは階級が下の方の修行者の役目なんだがそれも年々数が減っている。生活の維持に欠かせない存在だからむやみに忙しい――というか酷使されている上に、毒を受ければ魔法使いも死ぬ。下っ端を指導する高位の魔法使いも死ぬ。教育者がいないと弟子が育たない。霊薬を必要量生産できる体制はどんどん崩れていく。


 悪循環が極まっている。


 そうやって上に上に原因を辿って行くと頂点にいる真の魔法使いたちに行き着くわけだけど、これもまあ似たような話になる。つまり魔法の本質に一番近いトゥルーメイジたちも頭数が減りすぎて今さらどうにもできないのだそうだ。


 それならもうどうにもならないんだろう。


 魔法の力が栄華を誇っていた時代のことなんて俺には知る由もないが、魔法を使える者が多い場所、魔力の根源に近い場所ほど灰の毒を抑える力や方法が多いことは事実だ。逆に言えば魔法の力の及ばない場所、魔法使いの少ない地域はそれだけ危険が多い。俺はたまたま命拾いして、魔力の中心地である最後の魔法の塔とその近くの街を往復する仕事につけたわけで、この世界に来てしまったことを除けばその他大勢の世の人たちよりははるかに運が良かったといえるだろう。


 いまはそうでもない。


 俺は初めはまったくそんなつもりはなかったのに、魔法の塔を出発してからもう一週間以上馬車を走らせ続けている。


 目的地は旧アベリー市と呼ばれている都市。魔法の塔からも、俺のささやかな住まいからもどんどん遠ざかっていくルートをたどることになる。


 旧アベリー市は、昔は交易で栄えていた大都市だったらしいが、灰が降りだしてからはそれが災いして戦争や略奪や疫病やその他諸々でそれはもう酷いことになった。


 住民の多くは毒の灰で死に、無意味な戦火で殺され、略奪された。何割かはフィーンドになって隣人を殺したり殺されたりもした。生き残った住民もそんなところでは暮らせない。街を離れざるを得なくなって、残った住民はさらに死に続け、それを繰り返した。


逃げられない者だけが残った。


 それから十年かそこら経つ頃には毒の灰による絶滅の波のほうがさらに深刻になり、廃墟の街よりももっと行き場のない難民が集まってきた。


 それで結局また同じように周辺地域の人やモノが流れる場所になったという。


 そんな場所に何の用があるのか知らないし、聞きたいとも思わないが、俺は相変わらず荷台に乗っているルシウムを運んでいる。


 別に休みなくぶっ通しで馬車を走らせているわけじゃない。道中の宿場に停めて休みはとっている。


 それも、俺の普段の暮らしよりずっとまともな休息だ。かなり安全性の高い料理を食って、蒸し風呂でないお湯を使った風呂にも久しぶりに入れた。


 そんな贅沢は俺の財布の中身で気軽にできるものじゃない。


 護法軍の後ろ盾を持つルシウムが気前よく払ってくれたからだ。


 だからなんというか、情けないと思われるかも知れないが、結構悪くない気分ではある。


 予定になかった旧アベリーまでの道を走らせることになったのは全く気に食わないし、ルシウムの態度はもっと気に食わない。だが――腹がいっぱいになるとか体が清潔になるとか、そういう生理的な気持ちよさには抗えなかった。


 なにせマスクをつけていないと外出できない環境で、俺は外に出ざるを得ない御者。おまけにこの世界はどこでも慢性的な水不足だ。わかるだろう? そんな生活を余儀なくされる中で、冷たい水で心ゆくまで顔を洗えることの幸せが。


 釈然としないような、役得のような、両方が入り混じった後ろめたさのようなものはあるものの、俺は断る機会を失って、命じられるまま目的地へと向かっている。


 こういう時は、早めに諦めるに限る。


     *


 いつしか道は森の中へと差し掛かった。


 森といっても、幹があって、枝があって、緑の葉を茂らせている、いわゆる想像通りの樹木は少ない。


 多くが根から毒を吸い上げて幹の中が腐り、立枯している。その腐った木に寄生するように異様な蔦が絡みついているのが見える。有刺鉄線を束ねたようなそれは驚くほど鮮やかな血の色をしていて、葉も花もない。鋭く大きな刺を全身に生やし、宿主の木よりはるかに高く伸びる姿は――ここが地球とは違う生態系だということを除いたとしても、あまりにも異質だ。


 毒の灰をたっぷり含んだ土壌に生える悪魔の木。地獄の茨。


 灰色で塗りつぶされた大地に広がる真っ赤な森は、空から撮影したら白黒写真に血を垂らしたような画になるだろう。俯瞰するだけならともかく、実際その中を進んでいると強力に不安を掻き立てられる。


 包丁サイズの刺が無数に生えた木は、こちらから近づかなくても不意に襲い掛かってきそうな気がする。そんな例は今までにはない――と言われている。だからといってそれで安心できるかというと、別問題だ。


 この世のものではないとはいえ森の中だ。視界が悪い。刺は伸びてこなくても、どこかに灰賊が隠れているかもしれないという可能性もある。


 こんな場所に身を潜めるなんて正気の沙汰じゃないことはわかっている。でも灰賊なんてそんな奴らだ。みんな頭が狂ってる。


 やっぱりこんな道を使うべきじゃなかった――と俺は何度も御者台の上でそう思った。でもルシウムは時間がもったいないからこちらのルートを使うように指示してきた。頼んできたんじゃなくて、そうしろという有無を言わせない物言いでだ。


 俺は適当に了解して、ウロコ馬の進むに任せた。


 神経が磨り減る。


     *


 クチバシ型の防毒マスクのフィルターを通してなおわかる悪臭。


 御者台で熟睡していたところを、転落しそうなくらいビクリと体を震わせて俺は目を覚ました。


「……酷い臭いだ」


 荷台から灰よけの覆い越しに女の声が聞こえた。どうやらルシウムもそれまで眠っていたらしく、気だるげに伸びをしている様子が背中に伝わってくる。


「そろそろ目的地に近い。気を抜かないでくれ」


 言われてみれば、吹き上がる灰の向こうに建物の影が霞んでいた。俺は居眠りしていたこともあって、こんなに近い距離まで来ていることに気が付かなかった。


 ルシウムは幌と灰よけで目張りされた荷台に乗っていて、外の様子は見えないはずだ。


 俺はわずかながら尊敬の念を覚えた。安いものだと自分でも思うが、護法軍の軍人としての実力のようなものを垣間見た気がしたからだ。


「いや、別にそういうものではないよ。単に悪臭で気がついただけだ」


「悪臭?」


「アベリーの西側……つまりこちら側には河が流れている」


 そう言われて目を細めると、確かに濁った水面らしきものが前方に見えた。


 そして死体の山に気付いた。


 河を堰き止める量の死体。


 どうみても悪臭の源だ。


「もう少し遠くに捨てればいいものを。道徳心は無理でも、せめて衛生観念くらいは身につけてほしいものだ」


 ルシウムの忌々しげな物言いは蔑みに満ちていた。


 馬車は走り、死体の山が近づいてくる。


 その向こうに霞む街、旧アベリー市の姿。


 俺は吐き気を我慢しながら、街の中はこの光景よりはマシであってほしいと願った。


 当然その願いは届かない。

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