第三百八十二話

 食べ過ぎで動けなくなり、調査は明日以降に延期。

 などと愚かな真似をするほど仁も理香もアホではない――と、考えていたアストが裏切られたような気持ちになったのは店を出た直後に仁が近くの公園のトイレに籠城を決め込んだため。

 理香の方も危うかったと言えば危うかったのだが、幸いというべきか、彼女は仁ほど時間を掛けずにトイレを済ませており、今はアストと一緒に仁を待つ身。

 尤も、お腹を壊している点では仁と同列なので、多分に呆れを含んだアストの瞳は冷たいままであり、突き刺さる彼女の眼差しより逃れるように理香は虚空に視線をさまよわせた末に誤魔化すが如く口を開く。

「にしても、あのカレー美味しかったわね。私が外で食べたカレーたちの中でも間違いなくトップクラスの味だったわ」

「理香さんってぇ~、そんなに外でカレーを食べる機会が多いんですかぁ~?」

「お店で食べる、って意味だとそんなにはないわね。キャンプとかでカレーを食べる機会はそれなりだけど」

「理香さんは如何にもアウトドア派っぽいですからねぇ~。オタク気質でぇ~、インドア派なますたぁ~とはあまり気が合わないような気もしますぅ~?」

「仁はインドア派じゃないわよ。かといってアウトドア派でもない。どっちつかずで両方いいとこ取りをするタイプね」

「ああぁ~、納得しましたぁ~。それでぇ~、キャンプとかでぇ~、食べるカレーよりもぉ~、さっきのお店のカレーの方が美味しかったんですかぁ~?」

「そんなことはないわよ。あくまでお店で食べたカレーの中ではトップクラスってだけで、みんなで食べたカレーの方が美味しかったわ」

「みんなじゃなくてぇ~、ますたぁ~と一緒に食べたカレーが美味しかったんじゃありませんかぁ~? そういう意味だとぉ~、さっきのカレーもぉ~、ますたぁ~がいたから美味しく感じた可能性が高そうですぅ~?」

「……ち、ちなみにアスト、アンタはさっきのカレーは美味しかったの?」

「露骨に話をそらさないでくださいよぉ~。まあでもぉ~、美味しかったというのは間違いありませんねぇ~。だからといってぇ~、お腹を壊してしまうほどたくさん食べる気にはなりませんけどぉ~」

「あっ、仁が戻ってきたわ。まったく、トイレにどれだけ時間を掛ければ気が済むんだか。本当に仕方のない奴ね」

 冷め切った視線から逃げるためか、トイレより帰還した仁へと駆け寄る理香の背中をアストは黙して見つめる。

 その眼差しは必然的に理香の前方にいる仁へも向けられるのだが、冷えた視線など慣れ切っている彼には効果無し。

 ただしあくまで表面的な話であり、内心では我が娘同然の存在より向けられる冷淡な瞳に、言い知れない感情を抱いている。

 もちろん、それを表に出してしまうような迂闊な真似はせず、平静を装いながら駆け寄って来る理香に縋り付く。

「ちょっ、いきなり何をするのよ!?」

「理香ちゃん、アストが冷たい。慰めて?」

「慰めて欲しいのはむしろ私――コホン! 今のは何でもないとして、アストはアンタの娘みたいなものなんだから、アンタが宥めなさいよ」

「無理です。年頃の娘に父親が接したところで、噛みつかれて罵倒を吐かれて足蹴にされてありがとうございます状態になるだけなのです」

「足蹴にされるまではまああり得そうだけど、そこでありがとうございますなんて言ったら下手をすると親子の縁を切られるわよ」

「ハッ。これだから年頃の娘は父親の気持ちを何もわかっていない」

「確かに私も義父さんの気持ちはわからないけど、少なくともアンタよりは義父さんの気持ちに寄り添っているって自負できるわ」

「良イカね、理香ちゃん。昨今の父親は娘に対して愛情を持ち過ぎている。故に例え罵倒されようと、蹴られようと、唾を吐き掛けられようと、それで気持ちよくなってヘブンリー状態になれるのだよ。むしろなれない奴は父親失格なり!」

「それに共感する父親は確実に娘に嫌われるわね。というか、今すぐに世界中の父親に謝った方が良いんじゃない?」

「俺の父親は紗菜に足蹴にされたり、唾を吐かれたりしたら喜びそうな気がする」

「…………あー」

 具体例を出された理香は唸るような声を漏らす。

 即座に否定できなかったのは、仁の父親に関して理香は何とも言えないが故。

 よく知らないというのが実情ではあるのだが、仁の父親という時点でまともな人物ではないことは明らか。

 万が一、億が一にも常識人だったとして、仁や紗菜を育て上げた以上、まともな精神のままではいられないのは確実。

 母親が仁と紗菜を育て上げたという可能性も否めないが、少なくとも夫婦の仲は良好なのは周知の事実であり、常に一緒にいる以上、妻だけに育児を任せたりしないであろうことは想像に難くない。

 だからこそよく知らなくても仁の父親というだけで変態の烙印を押せるのだが、そのために仁の言葉を否定できなくなってしまい、固まったまま動かなくなった理香に悪戯をしようと仁が黒ペンを取り出す。

「ますたぁ~、何を為さるおつもりですかぁ~?」

「理香ちゃんの額に肉の文字を入れる。額に輝いている肉の文字が理香ちゃんに大いなる力を与えてくれると信じて」

「女性にぃ~、その文字を入れるのはぁ~、お勧めしませんねぇ~。第一ぃ~、バレた時に行われる制裁がぁ~、恐ろしいですよぉ~?」

「ハッ! 制裁が怖くて悪戯ができるか。それに俺は理香ちゃんのために肉の文字を入れようとしているのだよ。こうすることで理香ちゃんの体に筋肉モリモリな一族の凄まじき怪力が宿るはずなのだから!」

「油性ペンでぇ~、肉の文字を入れただけでぇ~、怪力無双になれるのならぁ~、世の中はぁ~、超人だらけになっちゃいますよぉ~?」

「油性ペンじゃない。特殊な加工を施した水性ペンだ。水で簡単に洗い落とせるが、水以外では落とせないという割と優れものなんだぞ。書いてからすぐに乾くから手に付く心配もない」

「それはぁ~、便利そうですねぇ~。ところでますたぁ~、一つご忠告を申し上げてもよろしいでしょうかぁ~?」

「許す。何なりと申すが良い。今日の俺は紳士的だから、大抵のことは笑って聞き流してやれるぞ」

「忠告なのにぃ~、聞き流されてもぉ~、困りますがぁ~。まあいいですぅ~。聞き流しても聞き流さなくてもぉ~、結果は変わりませんからぁ~」

「むっ? それはつまり今そこにある危機ということか? 面白い。どんな危機でも怪力無双を誇ることになる理香ちゃんが解決してくれようぞ」

「その理香さんですがぁ~、既に正気に戻っていてぇ~、拳を固く握り締めているのはわかっていますかぁ~?」

「無論だとも。ツッコミはどれだけ凶悪でも甘んじて受け入れるのがボケの務め。というわけで理香ちゃん、殴るなら頬でお願いします。お腹を殴られるとまたトイレに逆戻りしなければならなくなりそうなので」

「良い度胸ね。その覚悟に免じてアンタのお願いを聞き届けてあげる」

 花が咲くような素晴らしい笑顔と、鎌鼬を発生させそうなほど鋭く、途轍もない速度で繰り出された拳が仁の頬を貫く。

 宣言通り、甘んじて拳を受け入れた仁は頬に防御を集中させる――などといった無粋な真似は行わず、敢えて無防備なところに会心の一撃を食らう。

 吹き飛ばされ、地面を転がった彼は動かなくなり、それから数分の後に頬を抑えながら自力で立ち上がる。

「反省した?」

「さ、流石は筋肉の神を宿した拳。俺の防御を軽々と突破するとは。お前のパンチで倒れたのは俺が三十四人目だ」

「反省した?」

「ゴメンナサイ」

「よろしい。傷の手当てをしてあげるから、こっちに来なさい」

「うい」

 自分で殴った傷を自分で治療するというのは如何なる気持ちなのか。

 尋ねようとしてアストは口を閉ざし、携帯式医療キットから道具を取り出して仁の治療を行う理香を複雑な気持ちで眺める。

 が、彼女の不器用さを前に複雑な気持ちなどすぐにかき消されてしまい、治療という名の拷問に近い凄惨な光景より思わず目を反らしてしまう。

 彼女自身は大真面目であり、仁のようにふざけている様子は欠片も無し。

 それなのに傷が広がるような治療しかできないのは、彼女が如何に不器用であるかを如実に示している。

「あ、あれっ? おかしいわね。前はちゃんとできたのに」

「じ、時間経過で覚えたスキルを忘れてしまったのか……恐るべし、理香ちゃん」

「そ、そんなわけないじゃない! そ、そりゃあ、最近はあまり練習している暇がなかったけど、だからって複雑でもない治療を忘れるなんて、そんな――あっ」

 言葉にならない絶叫が公園に轟き、アストは明後日の方向を見ることで主に起きている惨劇に気が付かないようにするという懸命な努力を行う。

 不幸中の幸いは公園内が無人であったという点と、あまりの激痛に絶叫自体があまり大きくなかったという点。

 それでも公園全体を揺るがすような振動を生んだのは仁の肺活量が凄まじいからか、はたまた理香の治療という名の拷問が常軌を逸しているからか。

 理解不能な現状に、情報処理を放棄した彼女は密かに設置しておいた超小型の監視カメラに自らの視界を接続。

 件の少女が住んでいる部屋の出入り口を見張ることで現実逃避を図る。

「ちょっ、マジでやめて! ゴメン、ゴメンナサイ! 滅茶苦茶謝るから、謝り倒すからマジで許してください!」

「そ、そんなに謝らなくていいわよ! 大体、これはお仕置きとかじゃなくて普通に治療しているだけなんだから! 治しているだけなんだからね!」

「治すという言葉を辞書で調べろ! これは治療行為じゃなくて殺傷行為だ! いや、本当にこのままだと出血多量で死ぬから!」

「そんなことない! そんなことはないわ! わ、私だってこれくらいはできるってことを証明してみせるんだから! だからアンタはおとなしく、このまま私に治療されていればいいの! わかった!?」

「わからない、わかりたくない! 何度も言うが、これ以上は俺の耐久力でも耐え切れないというか、既に崩壊一歩手前おおおおおおっ!?」

「い、いやいやいや、大袈裟なのよ、アンタは! こんなの、腕が取れたわけじゃないんだから、そんなに騒がない! そりゃ、皮膚がデロデロに溶けてちょっと気持ち悪くなっていたり、骨が見え隠れしちゃったりはしているけれども!」

「なんで頬の手当てをしていたのに、腕の方がヤバくなっているんだ!?」

「知らないわよ、そんなの! 神様にでも聞いてみなさい!」

「絶対に答えない、むしろ答えたくないだろう、神様も! というか神様に責任転嫁をするのは良くないことだと思います!」

「じゃあ誰のせいだって言うの!?」

「お前のせいだ!」

「わかっているわよ、そんなこと! だから責任を取らなくちゃいけないの! そう、私は責任を取って治療してあげないといけないの!」

「あっ、すみません、全部俺が悪いですから、自分で自分の治療をしたいと思います。いやほんと、お願いだからやめて。これ以上は、治療という名の拷問を続けないで。本当に勘弁してください! ねえ、理香ちゃん、聞いてます!?」

「ッ、私だってやればできるのよ。しっかりしなさい、理香、アンタはできる子、仁や東間の幼馴染みで、義父さんが自慢したがるような立派な娘に育たなくちゃいけないんだから。それが何処の誰かもわからない私を引き取って、育ててくれている義父さんへの恩返しでもあるってことを忘れちゃいけないのよ」

「ちょっと理香ちゃん! 俺はもう限界なんですけど!? 限界を超えろとか格好いいことを言われたとしてそれを実行に移せるかはまた別の話でありまして、もう限界を超えたいのなら、もはや悪魔の力でも何でもいいから人外の力を借りるしかないとかそういう問題でもなくうぅぅぅぅぅぅぅ!?」

 己を鼓舞するため、できないことをできるようにするために自己暗示する理香と、彼女を説得しようとしているのであろうが支離滅裂な言葉を紡ぐことしかできなくなっている程度には気が動転している仁と。

 彼等のやり取りを聞いているだけで胸に黒い何かが生まれるのを実感するアストであったが、初めてというわけではない感情を封殺。

 我慢する気はないが、ぶつける相手は選ぶべきと、自分自身に言い聞かせながら監視を続けていたアストは件の少女に動きがあったのを発見。

 何処かへ出掛ける彼女を追跡するべきか、はたまたしばらく様子を見るべきか。

 仁と理香の現状を考慮し、後者を選択したアストは敢えて報告はせず、取り敢えず成り行きに任せることに決めた。

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