第四十八話
門下生たちの治療を終え、憔悴し切った東間を保護するべく東間を連れて理香の実家の中に押し入った仁の顔に直撃する花瓶が一つ。
砕けて散った花瓶と鼻。骨に異常はないが、痛みと鼻血に憮然とする仁は花瓶を投げた当人である理香を睨むも彼女には気付かれない。
かくいう彼女は親子喧嘩の真っ最中。
正しくは喧嘩ではなく理香の方が一方的に突っ掛かっており、彼女の養父たる師範は笑いながら義娘の拳や投擲を受け流している。
「この、この、この!」
空を切る拳や蹴りは非常に鋭いものばかり。
組手を行えば仁はおろか、格上の師範代であろうと数発に一撃は防御せざるを得ない辺り、流石は道場主の娘と褒め称えられるべきか。
しかし師範代には通じるかもしれない打撃も師範にはかすらせることさえ叶わず、虚しく振るわれる腕や脚は彼女から体力と気力を奪い取って行く。
ジリ貧だとわかっていても止めることはできない。
何故ならば守勢に入った瞬間、師範の繰り出す一撃が彼女の意識を断つから。
攻める手を休めればそれが終わりの合図となる。それがわかっているからこそ彼女は無駄と知りつつ攻撃の手を休めようとしない。
投擲物も彼女の無駄な抵抗の一つ。狙いを定めていないのは出鱈目に投げた方がまだ当たる確率が高いため。
そのせいで仁の顔に花瓶が直撃することになってしまったのだが、周りが見えていない今の彼女に指摘すれば戸惑いと驚きに動きを止め、師範に敗北する。
「やれやれ。何をやっているんだか」
集中している理香に届かない程度の音量で吐かれたつぶやきは師範の耳には届いたのか、彼の目が僅かに理香から外れ、生じた一瞬の隙を感じ取った理香が現在の自身が放てる最速の蹴りで師範の顎を見事に穿つ。
尤も、彼女が穿ったのは師範の残像の顎。
蹴りを放った体勢のまま、背後より人差し指で後頭部を突かれた途端、彼女の意識は暗転し、倒れ伏して動かなくなる。
「……化け物過ぎて笑えん」
思い浮かぶのは師範代の言葉。
いずれ本気の師範と戦い、打ち勝たなければならない時が訪れた場合、今の仁の実力では戦いが始まって一秒立っていられたら奇跡以外の何物でもない。
理香との戦い――戦いと呼ぶには実力差があり過ぎたが――で汗を掻いたらしい師範は豪快に笑いながら全裸となって風呂場へ。
全盛期を過ぎているにもかかわらず、筋骨隆々なある種の美しさを感じさせる肉体を眺めていた仁はあまりにも大き過ぎるソレを目撃したことで敗北感に打ちのめされながら辛うじて耐え、荒らされた家の中から理香を回収。
植物の妖怪に襲撃された方がまだ荒らされずに済んだと思えるくらいあちこちが破壊された屋内では落ち着いて話し合いなどできず、さりとて理香や師範の部屋に勝手に押し入るわけにもいかなかった彼は二人を抱えて道場に戻る。
「んっ? どうした、仁。忘れものか?」
「かくかくしかじか」
「成る程。わかるわけないだろう、いよいよボケたか?」
「俺は常にボケを優先する男ですよ。という冗談(?)は横に置いておきまして、実は理香がバーサーク化しまして師範と戦い、打ちのめされました」
「成る程な。大方、師範が理香のことをからかって、堪忍袋の緒が切れた理香が激情のままに挑み掛かり、返り討ちにされたんだろう」
「そんなにしょっちゅう喧嘩しているんですか?」
「ここ最近は毎日だ。喧嘩といっても道場で行う稽古と大差ない。異なる点をあげるとすれば師範が直接、手合わせを行っていることくらいだ」
「ほうほう。そういえば師範は指導こそしますが、組手は行っていませんな。やはり理香だけは特別なのでしょうか」
「さあな。ただ、どちらかといえば彼女の方が望んで師範に挑んでいるような気がする。その内、本当に師範に一撃入れる日が来るかもしれない」
「そんな日が来たら俺が下手にボケられなくなってしまいますよっと」
道場の隅に二人を寝かせ、彼等が目を覚ますまで暇潰しに門下生の相手をする。
談笑から口論、果ては軽い組手まで行い、容赦なく手当てを施された傷口を狙う彼に非難の声があがるが馬耳東風。
弱点を責める彼に戦い方に師範代は何も言わないどころか感心を示す一方、門下生たちの泣き喚く声を耳にした理香が復活を遂げ、とても可愛らしい笑顔ですっかり調子に乗っている彼を叩きのめして反省を促す。
が、変な闘志を燃やす仁は反省の色を見せず、悪役を貫こうと顔芸を披露。
ヒーローショーが如き見世物となった組手は喧騒を生み、その五月蠅さは憔悴していた東間も我に返って起き上がるほど。
「ッ、何ですか、この騒ぎは」
「黙って見ていろ。止めるのは中々面倒だ」
「止めるって――うわっ!?」
不意の衝撃波に怯む東間は舞うような格闘の応酬に、理由はわからずとも何が起きているのかについて即理解。
東間や師範代、門下生たちが固唾を飲んで見守る中で展開される死闘はどちらが勝つか予想のつかない無手の戦い。
一進一退の攻防が数分に渡って続き、一部の門下生たちの間で明日の昼食を賭けた熱戦が繰り広げられ、師範代が鉄拳で黙らせられる。
刹那、唐突に訪れる決着の時。
交差する渾身の一撃が互いの頬に炸裂する。
より深く入ったのは理香の拳だが、純粋な威力は仁の拳が上回るため、総合的なダメージは互角。
数秒して膝を屈し、崩れ落ちそうになった体を支えるのは理香。
けれど彼の体を支えようとした彼女もまた立っていることが叶わず、重なり合うようにして倒れる。
「師範代?」
「引き分けだ。二人共よくやったと言いたいが、危機的状況だということを忘れて何をしているんだと文句を言いたくなる」
「危機的ですか? 師範がいるのに?」
「……敷地内から出たら危険だと言っているんだ」
「道場内は安全ってことじゃないですか。だから門下生のみんなも不用意に外に出ないようにしているんですね」
「そういうことだ。今夜はリューグの奴と飲みに行く約束をしていたんだが、延期するしかなさそうだ」
「お酒は程々にしてくださいね」
残念がる師範代の体を気遣いながら仁と理香を回収して二人をうちわで扇ぐ。
激しい戦いを終えた二人は肉体の疲労を取るためなのか、完全に寝入っている。
熟睡する者たちを見て悪戯心が芽生えるのは子供の証明か、何処からともなく油性ペンを持ってきた子供たちを東間が優しく、されど迫力ある笑みで諭す。
「ダメだよ、君たち。寝ている間にそういうことをするのは卑怯だ。やりたいのならちゃんと起きている時に正面から堂々とやった方がいい」
「正面から行けば許してもらえますかー?」
「度胸は認められると思うよ。どうなるかまではわからないけど」
「へえー」
「わかったー!」
怖さのある笑顔が恐怖以外の何かを刺激したのか、門下生の子供たちは怯えることなく逆に東間に懐き、彼の言葉を素直に受け入れて引き下がる。
その一方で女子たちも人間でありながら純粋に怖いと感じられる彼に強く興味を引かれた様子で今まで以上に積極的に話し掛けようとして互いに牽制し合い、殴り合いが始まり掛けたので慌てて止めに入った東間が彼女たちを一人ずつお説教。
時間を掛けてじっくりと、けれども責めるような真似はせず、あくまで諭すことにのみ尽力したためか、仁と理香が回復する頃には子供たちと女子たち全員に演説のようなことをしており、熱心に聞き入っている門下生たちを見て理香は面白くなさそうな顔をする。
「どうした理香、変な顔をして。腹でも痛くなったのか?」
「お腹の調子は悪くないわよ。わかっているくせにそういうこと言わないの」
「と、言っておりますが師範代、理香ちゃんのこの感情は嫉妬なのでしょうか。それとも東間きゅんがどうして女の子にモテるのかわからない自分が、もしかすると女子という生き物のカテゴリーから外れているのではという恐怖なのでしょうか」
「もう一回、ぶちのめされたいの?」
「落ち着け、理香。仁も、理香が立派な女の子であることは昔からよく知っているはずだろう。なにせお前たちは昔から一緒に」
「セクシャルハラスメント!」
平手打ちを直撃した師範代は見事な三回転を披露。
食らったのが仁だったら頭から壁に突っ込み、昏倒していたところだがそこは師範代としての意地を見せつけ、回転しながら体勢を立て直すと壁と激突する前に着地し、乱れた服と髪を整える。
「事実を言っただけでセクハラ扱いとはな。難しい年頃になったものだ。昔はもっと素直で可愛かったのに」
「今のは師範代が悪いですよ。他に誰もいないのならともかく、大勢の門下生の前で過去を暴こうとすれば理香ちゃんじゃなくてもキレますって。あと、理香は今もこれからも可愛いです。そこは譲れません」
「ちょっ、えっ!? い、いきなり、何を言っているのよ!」
「門下生のほとんどはこちらのことなど意に介さず、彼の話を聞き入っているか、多分に邪気をはらんだ嫉妬の眼差しを東間に向けているかのどちらかだが、それでもダメなのか?」
「それでもです。壁に耳あり障子にメアリー。誰が何処で聞いているかわからない以上、黒歴史を暴露するのは禁則事項です」
「お前にとっても黒歴史なのか?」
「忘れられない歴史です」
「そこは忘れなさいよ! もしくは封印しなさい! 永遠に!」
「まあそんなことは置いておきまして師範代、東間きゅんはどうしてあそこまで女子にモテるのでしょうか。女食らいという称号を持つ師範代なら、東間きゅんの魅力について理解できるはずです」
「勝手に不名誉な称号を付けるな」
「大事な話なんだから置いておかない!」
「むう。二方向からの異なる種類のツッコミ。一つしかない口では防戦一方っていうかいつになっても話が進まないんで、いい加減に東間きゅんを回収してきますから師範代は門下生たちの面倒をよろしくお願いします」
「だから話をすり替えるな!」
「何をするつもりかは知らんが、無理はするなよ、ガキ共。無駄に命を張ることは勇気ではなく蛮勇だということを忘れるな」
「ういうい」
「仁も師範代も、少しは私の話を――」
食い下がる理香を無視し、師範代が道場内全体に響き渡るほど大きく手を叩く。
爆音を連想させる巨大な音に門下生及び東間の視線が集まり、師範代たちの方を振り向いた東間は自身が何のためにここに来たのかを思い出し、適当なところで話を打ち切って仁たちと合流。
いきなり話を打ち切られたことに門下生たちから不満の声があがるが、軽傷といえど怪我人故に遠慮していた師範代は彼等の元気が有り余っていると解釈し、悪寒から逃走を試みた生徒たちを一瞬で捕縛すると稽古を開始。
師範の手で似たような目に遭わされてきた仁と東間は内心で稽古に励む以外に道がなくなってしまった彼等に同情するも表には出さず、彼等の犠牲によって得られた貴重な時間を有効活用しようと相談を始める。
「つまり東間きゅんがモテるのは特殊なフェロモンを出しているか、もしくは相手が人外であろうと物怖じせず、むしろ責め側に回れる希少な人間だからか、本質的に優しいことを感じ取られているからかのいずれかだと思う?」
「植物だから炎と除草剤に弱い、ってことでいいのかな?」
「でも、普通の除草剤は通じないみたいよ。あの子たちが襲われた時に試してみたけど元気だったって言っていたもの」
「ってことはやっぱり保険医が事前に準備していた可能性が高いのか。まさかとは思うけど、黒幕が保険医でしたってことは無いよね?」
「それは無いな。もしも黒幕があのアホ師匠ならとっくに判明している。アレは自分が実行した犯罪を隠しておくような奴じゃない。むしろ嬉々として、自慢げに語って聞かせるだろう。東間きゅん発言が無視されたことで割と傷付きました」
「だけど無関係ってことはないだろうね。校長先生も保険医の元を訪れていたってことは彼女が何かしら関わっているって判断したってことだろうし」
「うーん。直接は関わってないけど、間接的に関わっているってこと? あの保険医が当事者にならず、脇役として事件に関わることなんてあるのかしら?」
「考えられるのは無関心だったが、何らかの事情で関わりを持つことになった。もしくは関わりを持った誰かが裏でコソコソと何かしているとかか?」
「関わりを持った誰か――」
理香のつぶやきに二人が顔を上げ、保険医と密接な繋がりを持つ誰か――彼女の弟子であり、義理の息子のような親しい関係を持つ仁を凝視。
慈愛に満ちたその瞳は告白すれば全ての罪を許すと語っており、優しく肩へ乗せられた二人の掌を掴んだ仁は彼等の次の発言を待たず、全力で握り締めた。
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