第九話

 地下室一帯に充満する、鼻が曲がりそうな悪臭。

 鼻孔を刺激する血の臭いに終始顔を顰める仁は自らの手で殲滅した、自然のものではない生物たちの死骸を踏み砕きながら生存者を探す。

「もしもーし、囚われのお姫様ー、いたら返事をしてくださーい。いなくても返事をしてくださーい。鼻が曲がりそうなんでー、さっさとこの悪臭空間から抜け出したいんですー。手遅れにならない内にさっさと出てきてくださーい」

 手の甲に付着した返り血を掌で拭い落とし、靴の裏のこびり付いている血の痕を振り落とそうと足をブラブラと揺らしながら聴覚を研ぎ澄ませる彼は部屋の片隅から発せられる小さな物音を聞き逃さない。

 フェイントを交えながら物陰を覗き込む彼の顔面に悲鳴と共に鋭い拳が炸裂。

 火事場の馬鹿力によって鼻血が出るほどの拳を打ち込まれた彼は前歯が折れていないかを確かめつつ、錯乱状態に陥っている少女の腹に拳を打ち込んで黙らせる。

「いちいち気絶させるのも面倒なのでー、このまま連れて行きますねー。文句があるならどうぞー。まあ痛みでまともにしゃべれないだろうけどー。とはいえー、助けてあげたんだからー、お礼としてキスの一つくらいして欲しいかもなー」

 抵抗できない彼女の体を狩った獲物のように担ぎ上げ、死の臭いが満ち満ちている地下室からの脱出を果たす。

 保険医の家というある種の魔窟から出ることに成功した彼は通信機を取り出してアストロゲンクンシリーズに連絡を取り、後始末を依頼。

 自宅で寛いでいる保険医と一号に怯え切った少女を預けると時計を確認し、急がなければ遅刻してしまうことを己に認識させると通学路を駆け抜ける。

「HAHAHAHAHAHA! 誰も俺には追いつけない! 俺の前を走る者は問答無用で叩き潰してやる! だから誰も俺の前には存在できないのさ!」

 高笑いを響かせながら走っていた彼は通学路の途中で反転。

 自宅へ戻ると消臭剤を手に取り、体に吹き掛けて血の臭いを誤魔化しながら靴を履き替え、今度こそ学校に向かって走る。

 既に時間はギリギリ。全力で走って遅刻するか否かの瀬戸際。

 それでも彼は諦めずに走り続け、途中で諦めかけながらも最後まで走り続けたメロスの気分に浸る。

「まあメロスの場合、時間ギリギリになるまで余裕ぶっこいていたから必死に走ることになったんだけどね。子供たちよ、美談っぽく聞こえるだけのメロスのような大人になってはいかんぞ」

 誰かに向かって人差し指を向け、前方不注意により電柱と激突した彼は再び鼻血を垂れ流しにしてしまうも気にせず走る。

 たどり着いた時には正門が閉まる寸前。

 それを見た仁は全力でカバンを投げつけ、正門が閉じられるのを阻止しようとするも、慣れた手付きでカバンを受け止めた風紀委員にカバンを投げ返される。

「チィ、流石と言っておこうか。人外魔境と呼称できるかもしれない我が母校にて風紀委員を務められることはあるぜ」

「言わなくていい。ともあれ、ギリギリだぞ、影月。忙しいのはわかるが、仕事を引き受けるのは余裕がある時だけにしろ」

「さーせん」

「まったく。さっさと教室へ行け」

「ヘーイ」

 予鈴が鳴り響く中、紙一重だが間に合ったことにしてくれた先輩に感謝し、靴箱で上履きを履くと教室まで全力疾走。

 息を切らせながら艱難辛苦を乗り越えて教室まで到着したていを装う彼にクラスメイトたちは無反応。

 冷た過ぎるクラスの反応にいつの日か復讐を誓い、席に座った直後に本鈴が鳴り響き、担任の教師が扉を開けて入室する。

「うおっ、マジでギリギリだった。中々スリリングだったんだぜ」

「何していたんだ、お前」

「保険医、後始末」

「ああ。把握した」

「二人とも、私語は慎みなさい」

「ヘーイ」

「はーい」

 クラスメイトに注意され、生返事をする仁は朝の疲労による眠気に襲われるもホームルームが終わるまで我慢。

 その後、一時間目の授業――リューグが担当する授業が始まると同時に爆睡。

 いびきを掻きながら眠っていたため、当たり前のように叩き起こされて説教されるも鼻の穴を弄りながら無視したので担任である貞娘先生が呼び出される事態に。

 ここにきて己の愚行を全力で謝るも時既に遅く、貞娘先生のお話によって精神的に摩耗し切った状態で帰還した彼は半ば廃人状態に陥っており、昼休みになってようやく精神を回復、復活を果たす。

「フゥ。俺としたことが油断していたぜ。まさかあんな手で来るとは。リューグの奴、成長したな。俺は嬉しいぞ。頭を撫でてやってもいいかもしれん」

「むしろなんであんな堂々と爆睡できるのよ」

「リューグの授業は睡眠不足解消に最適」

「そうかな? むしろわかりやすくていいと思うけど」

「そうだよねー。リューグ先生、教えるの上手だもん。それに若いし、苦労人っぽいけどそれなりに美形だし、狙っている女子生徒も多いって噂だよー」

「土蜘蛛。告白。玉砕。誘拐。食事」

「アイツ等の場合、結婚相手を食べるのが問題だと思う。同種族ならまだしも、他種族が相手じゃ余程の変態じゃないとOK出ないだろう」

「しかもヤンデレ成分が入っているから、断られたら一つになろうと食べることが愛とか言っている時点で色々間違っている気がしてならない」

「お前の愛は侵略行為。その腐った認識、全て叩き返せばいいと思う」

「正面切ってそんなこと言ったら確実にキレられると思うけどなっと」

 弁当箱を片手に立ち上がった仁は職員室へ足を運ぶ。

 用事がなければまず生徒たちが入ることはない、大人たちの空間に堂々と足を踏み入れた彼は目的の人物を発見すると弁当箱を机の上に置く。

「……いきなりなんだ?」

「昼飯。昨日の夕飯の残りを詰め込んでみた。味は良いけど邪魔な物が多過ぎると評判だったぞ」

「それの何処が評判なんだ。というかどうしてお前が俺に昼飯を?」

「まあなんだかんだで世話になっているからな。それにいつもいつもパンばかりじゃ味気ないだろうと思って」

「フン、余計なお世話だ。が、ありがたく貰っておこう。生徒からの厚意を無碍にするほど薄情なつもりはない」

「素直が一番だぜー。俺のように素直に生きた方が楽に生きられるぜー?」

「お前は自分に正直過ぎ――いや、暴走し過ぎた。もう少し落ち着きを持てばストーカーの一人や二人、簡単にできるんじゃないのか?」

「その時は俺がお前をストーキングしてやる。ありがたく思え!」

「なんでそんなに偉そうにしていられるんだ。まあいい。爆睡するなとは言わないが、授業中に寝るのは控えるようにしろ」

「ういー」

 用事を済ませた仁はリューグに向けて手を振りながら職員室を後にする。

 直後、扉を開けて腰を直角に曲げ、大きく頭を下げてから再び扉を閉め、昼食を楽しむべく教室にいる友人たちの元へ戻る。

「ただいまー」

「お帰りー」

「何をしていたんだ?」

「リューグに弁当を届けてきた。俺ってば本当に教師想いな生徒の鑑」

「生徒の鑑は授業中に爆睡したりしないと思うけど」

「てめえは俺を怒らせた。覚悟しろ、神凪君」

「何故」

「仁さんは今日もお元気ですね。ですが今はお食事の時間ですから、あまり騒ぎ過ぎてはいけませんよ」

「ショウヘイヘーイ」

「なにそれ?」

「知らん。俺の口から勝手に漏れ出た異界の言葉だ」

「フーン」

 心から興味なさそうに鼻を鳴らし、持参のお弁当や購買のパンを食べるクラスメイトの友人たちに仁は不満を露わに机を叩く。

 が、委員長たる黒澤の微笑みを前に動きを停止。静かに、誰にも気付かれないように存在感を希薄にして細々とお弁当を食べる。

「あっ、仁。そのお弁当って」

「うむ。昨夜の残り物だ。弁当箱に詰め込んだだけなので何も変わっていないから味は悪くないけど食感は割と最悪」

「わかっているなら改良を加えようよ」

「これはこれで一つの失敗作として受け入れているので無問題。まあ紗菜とかが文句を言っていそうだが、適当に聞き流せばやはり無問題」

「妹の意見くらい聞いてあげなさいよ。じゃないと成長に繋がらないわよ」

「何度も何度も指導されていながら前進どころか後退しかしていない誰かさんが言うと説得力が違う。ある意味、別方向に前進しているともいえるが」

「うぐぅ!?」

「仁っちってば容赦ないねー。いくら本当のことだからって、そんな面と向かって言わなくてもいいんじゃないのー?」

「はぐぅっ!?」

「いけませんよ、黛さん。理香さんだって女の子なんですから、一生懸命にお料理の勉強を重ねたにもかかわらず、完成した物はおよそ料理とは呼べないような、歪過ぎる生命体であることに一番傷付いているのは理香さんなんです」

「ごふぅっ!?」

「三人とも、酷いよ。そりゃ確かに理香の料理は料理と呼ばれる物全体に対する冒涜であり、許されざる侮辱でもあるけど、そういうことは明言せず、心の奥底に仕舞っておくべきだと思うんだ」

「げぼぁっ!?」

「理香。吐血。瀕死」

「幼馴染みたちとクラスでも仲のいい友人たちにボロクソに叩きのめされてしまったからな。否定する気にはなれないが、同情はする」

「理香!? どうした理香!? 誰にやられた!? 誰か、誰か助けてくださぁぁぁい!」

 教室の中心で白目を剥いて倒れている理香を抱きかかえながら大きな声で叫ぶ仁に視線が集中するも、叫んだ相手が相手だったためか、クラスメイトたちはすぐに興味を失ったように思い思いの時間を過ごす。

 薄情なクラスメイトたちに復讐の炎を燃え上がらせる仁は理香の遺体を大地に埋めるべくお姫様抱っこの体勢で教室の外に――

「いや、本気で埋めるつもり!?」

「地中に埋まればその内、理香の花が無数に咲き誇って超人として再誕を?」

「するわけないでしょ! むしろ無数の理香の花って何!?」

「一家に一人、理香ちゃん人形」

「嫌過ぎるわよ! っていうか放しなさい! なんなの、この恥ずかしい格好は!?」

「意識のない理香ちゃんになら多少悪戯しても理香ちゃん人形の呪いは発動しないかなー、とか思春期の男の娘特有の淡い願望が俺を動かしている?」

「放せ! それとそっち! 見てないで助けなさいよ! 委員長たちもどうしてニヤニヤしているの!? ああ、もう!」

 頼りにならないクラスメイトたちの生温かい視線と仁の腕から逃れようと暴れる理香を自由にはさせまいと意地で抑え込む仁の額にフォークが一本。

 頭蓋骨にまでは達せず、薄皮一枚を刺し貫いた程度だが、不意のフォークに驚いた彼が理香を解放してしまうには十分な威力があり、突然自由になった理香は廊下に尻餅を付いてしまう――

「――えっ?」

 まばたきをしている間に自席に座っていた理香が困惑して周囲を見回すと、クラス内に溶け込んでいるかの如く自然に控えているメイドさんを発見。

 状況から判断して彼女が理香を救出したと考えられるが、その理由、方法が見当もつかず、理香にできることはメイドさんを凝視することだけ。

 東間たちもようやく異変に気付き、理香を発見すると共にメイドさんを視認。

 いつ、どうやって教室に入って来たのか、誰も答えを出せずに戸惑い、しかし主たる黒澤とフォークを引き抜いた仁の両者だけは動揺を見せない。

 それどころか仁は教室内の自身の席に戻ると鞄を開け、中から布に包まれた弁当箱を取り出して彼女の眼前に差し出す。

「……仁様?」

「お弁当。なんとなくメイドさんの分も作ってみた。理由は知らん。単なる気まぐれだから受け取ってくれると嬉しい?」

「――ありがとうございます」

 硬直は一瞬。

 無表情無感情に弁当箱を受け取ったメイドさんはまばたきせずに凝視する仁の視界内から消えてみせる。

 文字通り一瞬も目を離していない。にもかかわらず、目の前から消えてみせたメイドさんに流石に驚きを隠せず、それ以上にそれが当たり前のことだと納得している自分がいることに驚く。

「うーむ。謎だ。謎過ぎる。答えが見つからないぜ」

「ねえ委員長、さっきのって――」

「メイドさんですよ。とても優秀な方で、私も何度もお世話になっています」

「それはいいんだけど、ちょっと神出鬼没過ぎない?」

「それがメイドさんの魅力の一つでもありますから。理香さんもうかうかしていると大変なことになりかねませんよ?」

「へっ?」

 向けられる意味深な微笑と言葉を理香は理解できずに首を傾げ、メイドさんがいた場所を注視するけれど答えは見つからず。

 ただ、胸中に言葉では説明できない小さな何かが生まれたのを実感。

 ほぼ同時に腹の虫が空腹を訴えて鳴り響き、購買で人気の焼きそばパンを齧り、評判に違わぬ味によって胸の中に生まれた何かをかき消した。

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