Peaceful Wind ~風詠の詩~
黒猫時計
一日目
空が高い。遥か上空まで見渡せる、澄み切った青空。
この世界に三つある浮遊都市の一つ、
風詠が姿を消してから、一時期は閑散としていた都市だったが、今は様々な人々が移住しかつての賑わいを取り戻している。
自然豊かなこの都市は、今では観光名所の一つだ。
そんな都市の外れも外れ。最西端に位置する森を抜けた草原の向こう。小高い丘を越えた先にある岬に一人の女性が立っていた。
「おはよう。今日もいい天気ね」
淡い水色の髪の女性は、なにもない空中に向かって微笑み声をかける。普通の人から見たら、おかしな人だと思うかもしれない。しかし、そこに何もないわけではない。それは目には見えない。けれど、それは確実にそこにあって感じることが出来る。
彼女は風詠。遥か昔に失われたとされる、風の言葉を聞き万物を知るという伝説のジョブ。その最後の女性だ。彼女の名はウィルミナ。いつもこうして岬に立ち、風たちの声に耳を傾け言葉をかけては触れ合っている。
「……そう、嬉しいことがあったのね」
空へ手を伸ばすと、風はその手に纏わり指の隙間から抜けていく。心地よい風が吹き抜ける岬に立つ彼女は、まるで風の妖精のように美しい。真っ白なワンピースは風を受けて緩やかに踊り、透明感のある艶やかな長い髪は、空に溶けるように風になびく。
「ん? どうしたの?」
突然ウィルミナは、風が少しの緊張感を帯びたのを感じた。静かに目を閉じ、風の声に耳を傾ける。
「誰か来るの?」
どうやら森を抜けてくる人間が一人いることを風から聞いたウィルミナは、やわらかく風を身に纏い丘へと登った。
眼下に広がる草原の向こう、森の出口をしばらく見つめていると、一人の男性が辺りを見渡しながら歩いてくるのが見えた。
その男性は茶色を基調とし青や緑、そして白の配色を施された独特な民族衣装のようなものを身に着け、その背中にはリュートを背負っている。右手には音符の記号が描かれた大きなトランクを持ち、そして左手にはヴァイオリンケースを携えていた。
男性は羽の付いたつばの広い帽子を少し上げて草原を見渡す。草原の中央付近に大きな切り株を見つけると、そこまで歩いて行き手にした荷物を切り株の上へと置いた。
「彼、なにしてるのかしら?」
丘から男性を見下ろしながら、ウィルミナは風に聞いてみる。しかし風は分からないと答えているようだ。彼女はただ黙って男性の行動を見つめている。
切り株の空いたスペースに腰掛けた男性はふと空を見上げた。そして何度か頷き、少しして視線を地上に下ろすと、丘の上に女性が立っているのを見つける。
「あ、私に気付いたみたい」
帽子を少し持ち上げて挨拶をすると、ウィルミナもそれにつられて頭を下げた。しばらく互いに見合っていたが、やがてどちらからともなく歩み寄っていく。
彼女は珍しい客の来訪に、少し緊張しながらも丘を下ると男性と相対する。そして近付いて見て初めて気付く。彼は自分と同じくらいの年齢なのだと。
帽子を外し、優しい笑みをたたえた男性に、ウィルミナは不思議と心が穏やかになっていくのを感じていた。どうやらそれは風も同じようで、彼女を包んでいた風が二人の周りを優しく流れていく。
「こんにちは」
優しい声の挨拶に、彼女は少し驚いた様子でそれに答えた。
「あ、こんにちは」
「ここ凄くいいところだね。もしかして、君も旅行者?」
「え? ううん、私はここに住んでるの」
「えっ!? シルウィードに? 羨ましいなー。あ、自己紹介がまだだったね。僕はハウゼル。吟遊詩人ハウゼルだ、よろしく」
そう言ってハウゼルはウィルミナに右手を差し出した。しかし彼女は差し出された手を見て不思議そうな顔をしている。
「ん? あれ、どうしたの?」
「……なんで、手を出してるの?」
「え?」
予想外の言葉にハウゼルは呆然とした。手を出したまま左手で頬をポリポリと掻き、少し気まずそうに空へと視線を投げる。
その様子をウィルミナは、小首を傾げ訝しげに見つめている。
少しして彼はハッとした。
「もしかして、握手って知らない?」
「握手?」
「やっぱりそうか。握手って言うのは挨拶の一種だよ。主に二人が出会った時にするものなんだ」
「そうなんだ……。あ、私はウィルミナ」
ウィルミナは彼に名を名乗ると、少し恥ずかしそうに右手を差し出す。ハウゼルは嬉しそうにその手を優しく握ると軽く上下に振った。
互いに手を離すと、ウィルミナは彼に問いかける。
「ハウゼルは旅行者?」
「ああ、そうだよ。風詠が居たとされる風都シルウィード。美しい処だって聞いていたからね、一度来てみたかったんだ」
「そう。それで、来てみてどうだった?」
「想像していたよりもずっと綺麗だった! 苦労して来た甲斐があったよ」
ハウゼルは小さくため息をつき、腕を組み目を閉じてうんうんと頷いている。ここへ来るのに相当苦労をしたようだ。
「苦労? どういうこと?」
「予約が一杯でね。三ヶ月も待たされたんだよ。でも、ようやく取れたはいいんだけど、僕は観光ツアーで来たもんだから五日間しかいられないんだ」
「そんなに人気があるんだ」
自分が思っている以上に、この風の都が下界の人々に人気があることを、ハウゼルを通して知り彼女は驚いている。
彼は穏やかな顔をして草原を見渡すと、大きく深呼吸をした。
「ここは凄く気持ちがいいところだね。ウィルミナはよくここへ来るの?」
「いいでしょ? 私にとってはお庭みたいなところなんだ」
そう言ってウィルミナは、丘の上に建つ一軒の家へと視線を移した。それにつられてハウゼルもそちらへと目線を移す。
家は真っ白な外壁をしており、所々に独特な形の文様が描かれていた。よく見るとそれらは掠れており、長い月日の経過を、歴史を感じさせる外観だった。
「あの家に住んでるんだ」
「うん。私の家」
「ところでウィルミナのジョブって何かな? 出会った時からなんだか不思議な感覚を受けるんだけど……」
「……どんな?」
ウィルミナに聞かれたハウゼルは、少し悩みながらも答えた。
「う~ん。旨く言えないんだけど、なんかこう、自然に包まれてる感じ? ここが特別なところだからかな? こんな感覚は今まで世界を旅してみて味わったことがないからさ、よく分からないんだけど。もちろん自然豊かな所は旅したことはあるよ。でもなにかが違うっていうか……」
「うん。それもあると思う」
「やっぱりそうか。……それより、それ“も”って、どういうこと?」
ハウゼルに逆に問われたウィルミナも、少し戸惑いながら口を開く。
「う~ん。きっと言っても信じてもらえないから、いい」
それを聞いた吟遊詩人は、まるで子供のように目を輝かせて言った。
「分かった! もしかして『風詠です』とか?」
「えっ!? どうして分かったの?」
「――って言うのは冗談……て、えええぇぇぇー!? そ、そうだったの?」
「……うん」
彼女が風詠だと知ったハウゼルは、まるで鳩が豆鉄砲をくらったかのような顔をしている。ウィルミナはそんな彼を見てクスクスと笑った。
「そんなに驚かなくても」
彼女の言葉に我に返ったハウゼルは、数度瞬きをして目の前にいる女性の顔を見つめる。整った顔立ちでブルーの瞳は大きく、見ているだけで吸い込まれそうな、しかしどこか心が落ち着くような、そんな不思議な力を持っている目。
そして、先ほどから感じていた自分を包み込むようなやわらかな風。ハウゼルは不思議と、彼女が風詠であるという事実を否定することなく、自然に受け入れられていた。
「驚くさ……だって、風詠だよ? あの伝説の……。あれ? でも風詠って遥か昔に滅んだっていう話だけど……」
彼の言葉に、少し伏せ目がちに小さく頷く。その表情は寂しげで、周囲の風も、少し重苦しい空気へと変わった。
「なにが、あったの?」
「……分からないの。風たちに聞いても、教えてはくれないから。だから、もうどうでもいいんだ」
「……そっか……」
二人の間に静かな沈黙が流れる。ハウゼルは、恐らく彼女が最後の風詠であろう事は間違いないと、今の会話で自ずと悟った。自分になにか出来ないものか、目の前の無理をして笑っているように感じるウィルミナを見て、彼は一人思案する。そして少し考えた後に答えを導き出した。自分になら出来る、いや、自分にしか出来ないこと。
「ウィルミナ!」
「ん?」
「明日、シルウィードの中央広場に来て」
「中央広場? どうして?」
「ボクがここへ来た理由はね、歌を歌いに来たんだ」
「歌?」
「うん。吟遊詩人だからね」
そう言ってハウゼルは、切り株の上に置いた荷物の方へと歩いて行った。ウィルミナも彼の後ろを付いて歩く。
「吟遊詩人って歌を歌うんだ」
「あれ、吟遊詩人を見るのは初めて?」
「うん」
こくりと頷くと、切り株の上に置かれたヴァイオリンケースを開ける彼の行動を興味深そうに見つめている。
「よっ、と。歌は明日聞いてもらうとして……あ、どうぞ座って」
ヴァイオリンと弓を取り出し終えたハウゼルはケースをトランクの上に重ね、ウィルミナが座れるスペースを確保するとそこに彼女を座らせる。自身はその目の前に立ち、優雅なお辞儀をしてみせた。
「では、この出会いに感謝して、ウィルミナに一曲送ります。聞いてください」
言い終え、ヴァイオリンを左肩に乗せ顎当てに顎を乗せると、それを持ち上げるようにして構える。指板の上の弦を押さえ、ブリッジ辺りの弦に弓を当てると、左右に引き演奏を始めた。
美しい音色もさることながらその立ち姿も美しく、初めて見る楽器の生演奏に、ウィルミナはしばしの間、時を忘れてハウゼルに見入っていた。
しかし彼の演奏中、ウィルミナはあることに気付く。風たちが集まっているのだ。まるで彼の奏でるヴァイオリンの音色に引き寄せられるように。
やがて演奏が終わると、ウィルミナは自然と拍手をしていた。彼女の反応が思いのほかよかったのを見たハウゼルは、照れくさそうにはにかんでいる。
「どう、だった?」
「すごくよかった。風たちも好きだって」
「本当!? ……あ、そうか。風詠は風と会話が出来るんだっけ?」
「うん。みんな気持ちがいい旋律だって言ってるよ。ところで、今のはなんていう曲?」
「白き草原の花」
「素敵な名前ね」
「伝統ある曲なんだ」
ハウゼルはヴァイオリンを片付けた後、ウィルミナの隣に腰を下ろす。そして今しがた思ったことを彼女へと問いかけた。
「今“みんな”って言ったけど……風は一つじゃないの?」
ウィルミナは彼へ視線を向けると、顔を正面に戻し空を見上げた。ハウゼルはその横顔を見つめながら答えを待っている。
「風は一つだよ。……でもね、一人じゃないの」
「ん? どういうこと?」
「風にもいろんな感情や想いがあってね、その言葉がいくつも聞こえてくるんだ。だから、“みんな”なの」
「へ~、そうなんだ。じゃあ、今も?」
吟遊詩人は興味深そうに訊ねる。視線をハウゼルへ戻すと、彼女は大きく頷いた。
「うん」
「風たちは、今なんて言ってるの?」
「ハウゼルの曲を聞いた子たちは、明日を楽しみにしてるって。他の子たちは……色々かな。今日のシルウィードの空は気持ちがいいとか、草木と戯れるのが楽しいとか言ってるよ」
「風たちも、僕の歌を楽しみにしてくれているんだ。なら、頑張らないとね」
空を見上げた彼は、肌で感じる風たちに向かって優しく微笑み声をかけた。
少しして、ハウゼルは何かを思い立ったように急に立ち上がる。
「あっ!」
「っ! ど、どうしたの」
あまりにも突然だった為、ウィルミナは胸を手で押さえ、目を見開いてハウゼルを見上げた。周囲を流れる風も少し驚いたようだ。小さなさざめきとなって風を切りながら彼女の周りに集まっていく。
「しまった! 広場の下見に行かなきゃ」
「下見?」
「うん。それに許可貰わないと」
「そっか、演奏会の……」
「ごめんね」
そう言うとハウゼルはリュートを背負い、トランクとヴァイオリンケースを持ち彼女の前に立つ。ウィルミナもスッと立ち上がると、二人は視線を交わした。
「明日、来てくれるかな?」
「うん、もちろん!」
「ありがとう! じゃあ、また明日」
「うん」
ハウゼルは別れを告げると、走って森の出口へと向かった。彼女はそんな彼の背中に向かって手を振っている。
やがて吟遊詩人の姿が森の中へと消えた頃、ウィルミナは切り株の上へと腰を下ろす。
「歌、か。……うん、楽しみだね。みんなで行こうね」
しばらくの間風たちと会話をし、きりのいいところで話を切り上げると、ふと空を見上げた。いつもと変わらない綺麗な空。でも今日は、なんだか少しだけ違って見える。
それは、彼女の心に芽生えた感情のせいかもしれない。しかしこの時のウィルミナには、それが何かは分からなかった。
「よっ、と。私もそろそろ帰ろう」
立ち上がると、風を纏い丘を登り、ウィルミナは自分の家へと帰っていった。
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