第45話 変化

  

「くれぐれもその、羽柴さんにお礼を言っておいてよ。満ちるのこと、迷惑ばっかりかけて本当に申し訳ないけど」

 神崎によろしく伝えてほしい、ということに加えて、英一が念を押すようにそう言ったのに、彰は気軽にうなずいた。

「うん、勿論。……あ、でも多分、結果論ではあるけど、宏志にとっては彼女の件、ちょっとラッキーだったかも」

「えっ?」

 つい口走ってしまうと、英一がきょとんと目を見開いて。

「御堂くん、それ何で?」

 しまった、言いすぎた、と思いつつ、こうなったらごまかしはきかない、この相手に追求されたら言い逃れなんて到底無理だ、と思って正直に答える。

「宏志、どうも、満ちるちゃんのこと大分気に入ってるみたいで。……あ、ああ、でも勿論、同居してるからって良からぬことを企む奴なんかじゃないし、あくまで保護者として節度ある態度で接してるし」

 最初の一言に英一の目がぎょろっと動いたのに、彰は慌てて早口でフォローした。同時に心の中で、もしかしたら将来の義兄になるかもしれない人物に今の時点で悪印象を与えてしまった、ごめん宏志、とものすごく先走った謝罪をする。

「それは当たり前じゃない?」

 わずかにトーンを上げ気味に言う英一に、彰はますます慌ててかくかくとうなずいた。

「あ、うん。それはそうなんだけど。いやでも、ほら、弱ってるところにつけこんで、みたいなのいるじゃない。あいつは全然、そういう奴じゃなくって。頼れるし、真面目だし、情に厚いし、信頼できるし、背も高いし、顔もいいし、飯が抜群に美味いし」

 自分でも何を言ってるんだか判らなくなりながら、とにかく思いつく限りの美点を上げまくっていると、への字口に聞いていた英一の顔がゆるんで、ぷっと吹き出した。

「判った、判ったよ。……うん、確かに、なかなかの見てくれだ。でも、なんか、うん……ああ、そうかあ」

 口の中で呟くと、英一はひとり納得した顔をして大きく後ろにもたれる。

「やっぱりさ、子供なんだよ、僕の思う満ちるはさ。小学生なんだ。だから保護者ってそれ当たり前だろ、て瞬間的に思ったし……でも、違うんだよな、もう。僕等くらいの年齢の男性から気に入られたって、おかしくない年なんだよね」

「…………」

 英一のしみじみとした言葉に、彰は浮きかかっていた腰をすとんと下ろした。

 現実とずれてしまった認識の修正で脳の覚醒をうながせるかも、と言っていた神崎の話を思い出す。確かにここにいて、こうしてたまに自分と話すくらいでは、そう簡単にはズレは戻せないのだろう。

 なら本当に満ちるや姉を連れてくることができれば、意外にあっさりと目覚めることができるのかもしれない、そんな希望も抱く。その為に少しでも早く、証拠を押さえなければ。

「僕はさ、満ちるの結婚式が見たいよ」

 わずかな笑みを見せながら、英一は噛みしめるように言った。

「小さい頃はずっと、お兄ちゃんと結婚する、て言ってた。はいはい、て言って、でも内心、とびきりの相手と結婚するといいなあ、うちみたいじゃない、心から笑いあえる家族をこの子が持てますように、てずっと祈ってた。幸福に……全身が幸福に包まれてるみたいな、そんな花嫁さんになるといいな、て」

 誰に聞かせるともなく呟いて、ふっと遠くを見る。

「もしそれが本当にこの目で見られるんなら……嬉しい、よね」

 彰は胸がつうんとなるのを感じながら、小さくうなずいた。

「そういえば、お姉さんの旦那さんに会ったよ」

「え?」

 驚いた顔になる英一に、彰は洋次との会話をかいつまんで聞かせる。

「そう……そんな、ことを」

 テーブルの上で両指を組んで、英一はわずかにうつむいた。

「うん、ほんと……あのひとで、正解だ。姉さんの結婚相手としても、旅館や家族を支えていく存在としても。良かったよ。満ちるが少しでも、あの家の中で信頼できる相手がいてくれて」

 呟くように言うと、英一はしばし顔を上げずに黙り込んで。

「美馬坂くん?」

「もし、さ。もし、本当に証拠を入手できて公表できそうな目処めどがついたら……そしたら僕のこと、義兄さんに話してもらえないかな」

「えっ?」

 探るように声をかけるといきなりそんなことを言われて、彰は目を丸くして向かいの相手を見た。

「公表する時にさ。家族の証言があった方が、より固いでしょ」

「え、そりゃそうだけど、でも」

「義兄から姉のことを説得してもらいたいんだ。証言してほしい、って」

「でも……」

 少々困惑しながら、彰は何となく隣で無言で話を聞いているだけのシーニユを見て。

 彼女はいつものごとく無表情にこちらを見返す。

「でも、賛成してくれるかな……逆に公表前に機関に密告されたりしたら?」

「きっと義兄なら、うまく説得してくれるよ。……それから神崎さんが実験に戻れたら覚醒の可能性が上がる、て話を姉に聞かせてほしい」

 英一はわずかに身を乗り出して、熱心に言葉を続けた。

「姉に伝えて。僕は、目覚めたい。目覚めて、この目で、大きくなった満ちるが見たいし、その先の姿も見たい。旅館を立派に仕切ってる姉の女将姿も見たいし、個人的な希望だけど、姉と義兄さんの間の子供だって見てみたいよ。この腕で抱っこしてみたい。僕は……出たいんだよ、御堂くん」

「……美馬坂くん」

 彰は言葉を見つけられずに、ただテーブルの上の英一の手を握る。

「姉がもし君の話を信用しなかったら、こう言って。僕が最初に姉に真剣に腹を立てたのは四歳の時で、僕がつくったゴム飛行機を自分の夏休みの工作の宿題として持ってっちゃったからだ、て」

 いたずらっぽい表情で言いながら、英一は軽く吹き出して。

「あれ、ほんと会心の出来だったんだ。今思い出しても口惜しいよ」

 くすくす、と笑って言うと、英一はどこか晴れ晴れとした顔つきで天井を仰いだ。

「ああ、何だか……すごく、今、繋がってる、て思うよ。もう完全に断絶してると思ってた『外』と、しっかり繋がってる、て感じ」

 英一は一度ぎゅっ、と彰の手を握り返して、すくっと立ち上がる。

「現実ですごした時間や人のことを、多分僕は、いろんな意味で忘れようとしてた。もうあっちのことは僕の中で薄めたスープみたいになってて、味なんか判らなくなってた。でも、御堂くんと会うようになってから、どんどん、驚くくらいくっきりはっきり、いろんなことが甦ってきて……君が話してくれる満ちるや義兄さんのこと、そこにまだ確かに僕の『居場所』があるんだ、て、そう思ったらすごく心強くて」

 英一は彰を見下ろし、ちらっと歯を見せて笑った。

「ありがとう、御堂くん」

 彰は何も言わずに、ただ微笑んで小さくかぶりを振ってみせた。



「事業」を行なっている場所がどこにあるのか判らないが、おそらく『パンドラ』のように都市の外側にあるのではないか、もしそうならそこにもぐりこめるような「穴」が無いか探してみる、と言って英一はマスターの体から離れていった。

 あまり無茶をして機関側に気づかれないか、と彰は心配したが、「僕は研究者の誰より長く、ここにいるんだよ」と英一は笑って言った。

 残り時間はもうわずかだったが、少し歩きたくて彰はシーニユと店を出る。

「次にいつ来るかは決めてないけど、何か現実側で、展開があってからになると思うよ。宏志にはできるだけ火の粉がかからないようにしたいんだ」

「判りました」

 その言葉にシーニユは全く動ぜず即座にうなずいて。

 彰は横目でちらりと、そんな彼女の横顔を見る。

「シーニユ」

「はい」

「何故、俺が御堂彰だ、て判ったの?」

 するとシーニユは足を止め、くるりと彰に向き直って。

 つられて彰も足を止め、彼女と向かい合う。

 シーニユはわずかに首を傾げて、珍しくしばらく何も答えずにただじっと彰の目を見つめた。

「シーニユ?」

「――中に、透けて見えた、からだと思います」

 そしてやはり珍しく、言葉を切りながらどこか曖昧な答え方をする。

「透けて?」

「最初、初めてのお客様だと思いましたので、生体データを取りました。その際、こちらに目を向けられた時の、心拍数や呼吸の速さや深さに、独特のリズムがありました。それから目が、いえ、視線、と言った方が適当かもしれませんが、まなざしに既視感がありました」

「……視線、に?」

 ある意味においていかにもシーニユらしい、けれど別の意味で思ってもみない回答が返ってきて、彰は面食らった。

「はい。御堂さんがわたしを見る目は、他のお客様や仮想人格、人工人格とは異なるようにとらえられます」

 ああ、三度目の「わたし」だ、彰は更なる驚きを感じながらもそう内心で呟く。

 思えば一度目の「わたし」、あれは英一を探したい、と持ちかけた時に「自分が仮想都市に行く」という言葉の中でだった。

 そして二度目は彰が何の気なしに人工人格の特性を好ましいと言った時、「自分はヒトのようにふるまうことが下手だ」という打ち明け話で。

 基本、自分から積極的に何かと関わろうとしなかった彼女が、誰からの指示でもないのに能動的に動こうとした時と、自分の内面というものを一切言葉にしなかった彼女が初めてそれを語った時の「わたし」。

 そして三度目の「わたし」。

 これは単なる名詞としてのそれに過ぎないけれど、でも明らかに今までのシーニユは使わない単語だった。多分前の彼女なら「こちら」と言うだろう。

 そう考えた瞬間、彰は彼女が今まで非常に注意深く、自分を「ヒト」として扱う言葉を避けていたことに気がついた。

 そもそも「わたし」という一人称を基本使わないこともそうだし、「好き」という感覚を他人事のように話すところもそう。今にして思えば、「思う」という表現さえ、最初の頃は使っていなかった気がする。

 いつだったか彼女に皐月のことを打ち明けた時、マスターに席を外してもらうのに「二人きりにしてほしい」と言えばいいものを、彼女は「余人を交えず」とずいぶん古臭い言い方をした。

 あれはおそらく、「彰と自分」というのを「二人」、すなわち「一人と一人」だと考えていなかったからなんじゃないだろうか。

 自分は「ヒト」ではないから。

 だから「二人にして」ではなく、「他のヒトがいないようにして」という言い回しを使ったのでは。

 けれど今の彼女は、ごく自然に「自分」を指し示す言葉として「わたし」を使っている。

 それはきっと、彼女が自分自身を、意識的にか無意識的にか、より「ヒトに近い感覚」をもってとらえるようになっているから、ではないのか。

 ……ああ、ここに磯田先生が来られるといいのに。

 彰はシーニユのまっすぐな目線を見返しながら、痛い程そう思った。

 磯田が話していた、「娘の中にある深く青く底の見えない泉」という言葉を思い出す。確かに今日のシーニユには、これまで時間をかけて地の下にたまり続けていた水が、今まさにこんこんとあふれ出している、そういう雰囲気を感じた。

「……何がどう、違っているの」

 そのことを本当に嬉しく、どこか尊いものにも感じながら彰は優しく尋ねる。

 シーニユは小首を傾げて、けれど間は空けず即座に答えた。

「数式化はできますが、言葉にはできません」

 その回答に、彰はつい吹いてしまう。何と言うか、やはりシーニユはシーニユだ。

 きっとヒトなら、逆のことを言うだろう。「論理じゃなく感覚で判るんだ」みたいに。

 自分にはとても想像のつかない複雑で膨大で複合的な計算の結果、それが彼女にとっての「感覚」「感情」なのだ。

「何か可笑しいことを言ったでしょうか」

 彰の笑みに、シーニユはごく真面目に、いつもの淡々とした声で尋ねてくる。

 それと同時に、赤いライトとイヤホンがログアウト五分前を告げた。

「あ、もうそんな時間か」

 彰は我に返って特に意味もなくくるりと辺りを見回して。

 シーニユはやはり真面目な顔つきで、ただ黙って彰を見ている。

 その様子にまたくすん、と彰の唇から笑みがもれた。

「可笑しいって言うか、あんまりよく伝わったんで感動したんだよ。……ねえ、シーニユ」

「はい」

「君は何故、俺や美馬坂くんに協力してくれたの?」

 シーニユは一度、ぱちりと瞬きした。

「前に言ってたよね。ここの人工人格の一番の目的は、お客の望みをかなえることだから、て。でも……百歩譲って美馬坂くんのことを探し出す、くらいまではその理由でも判るけど、そこから先は、その範疇を超えてる気がして」

「先、と言いますと」

「美馬坂くんって、ほんとは『パンドラ』、入っちゃダメなんだろ? それなのに連れてきてくれたり、ログの書き換えまでしてくれたり、今はこの仮想空間の研究そのものを根本から変えるかもしれないことをしようとしてる俺達の助けになってくれてる。それは……前に君の言ってた『規範』には矛盾しないの?」

 シーニユはまた瞬きして、すぐに口を開いた。

「以前に申し上げた通り、『規範』とは『すべてのお客様に快適に「パンドラ」をお楽しみいただけるような環境をつくる為の節度』です。最初に美馬坂さんをお連れした際、それは他のお客様に不快をもたらすような行動ではありませんでした」

 シーニユはそこで一度言葉を切って、軽く顎をしゃくるような動きを見せる。

「その後で美馬坂さんの事故の件が判明してからは、やはり以前に伝えた『倫理観』に依って行動しました。事故が起き、その原因がはっきりと判明している訳でもなければ解決策さえ無い、そんな状況でお客様が完全に安心して仮想空間を楽しめるか、それは大いに疑問があるところですから。

 この『倫理観』は『パンドラ』で働く為の学習によって築かれたものです。だからそれの指し示すところに従わないのは、『パンドラ』を、そして自分を、裏切ることに等しいのです」

「……成程」

 つまり「AとB」だ、彰はそう内心で思った。

 もし事故や「事業」のことを知ってしまっても、『パンドラ』で働くヒトの職員は、運営的なこと、世間的なこと、法律的なこと、そして勿論自分自身の生活のこと、そういう諸々と自分の良心とを天秤にかけて悩むのだろう。このまま黙っているか、告発するか、もしくは黙って仕事から去るか。

 けれど彼女にはそういう不純物は一切無いのだ。

 ……ああ、やっぱりいいな。

 彰はまた、自分の胸の底からふうっと口元に笑みがわいてくるのを感じた。

 先日神崎と会話した後に感じた煮えたぎるような怒り、その残存物がまだ腹の底にこびりついていたのがさらさらと洗い流されていくような気がする。

 ヒトはやっぱり、どう考えてもこんな風にはなれない。でも、だからこそ、ヒトとよく似て、だが完全に非なる存在、そんな彼等の存在が重要なのだと思える。思えばヒトは今まで、こんなにも自分達と同等の知性を持っていて、こんなにも異なる存在と出逢ったことはなかったのだ。

 シーニユは確かに、自分や英一という「ヒト」に出逢ったことで変化した。ならばきっと、その逆だって間違いなく起きる筈だ。

 彰はわずかに微笑んだまま、彼女を見下ろす。

「シーニユ」

「はい」

「俺はヒトとして、君という人工人格が、とても好きだよ」

 そう言い終わるか終わらない内に、視界一杯に『ログアウトします』という黄色の文字が点滅した。

 その点滅の合間に見えた彼女の顔は、いつもと同じ、表情が殆ど無く、けれどごくほんのりと唇の端がゆるやかに上がっているように、彰には見えた。

  

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