第43話 微笑み

  

 数日してできあがったスイッチを、彰は宏志に送った。

 入れ替わりに向こうから、「五日後の十五時に体験が決まった」という連絡が来る。

 彰はそれを、神崎に伝えた。

「先日君と話していて、思いついたことがある」

 すると神崎は、彰を手招いてそう話し出した。

「前に言った通り、東京の研究所には紙ベースですべてのデータが残っている。ということは、これは他に複製も捏造も効かない、最高の証拠と成り得る」

「それはそうですけど、でも一体、どうやって手に入れるんですか」

「私に『事業』のことを告発してきた部下は、まだ機関で働いている。今の状況に納得している訳ではないが、定年も近いし、この歳で職を失いたくない、と。彼に連絡を取って、資料を手に入れられないか頼んでみた」

 思わぬ話に、彰は目を見開いて座り直した。

「彼が言うには、保管庫から持ち出すことはおそらくそれ程難しくはない、と。今でも日々、新しいデータを持ち込んでいるから。だが、それを建物の外に出せるかどうかは判らない、と言われた。鞄を含む私物やコートは研究所の入館前に預ける決まりになっているし、それでなくても自分は『事業』に非協力的なことで上から監視の目で見られているから、と」

「そうですか……」

「まあ、どうやって持ち出すか、は彼や磯田くんとも話し合ってまたおいおい考えてみよう。それより、君の友人にはスイッチの使い方は伝えてくれたね」

「あ、はい」

 彰は軽くうなずいて。スイッチは奥歯にすぽっとかぶせる白い樹脂の中に仕込まれていて、それを三回、かちかちかち、と素早く噛むことで作動する。終了時にはこちら側の接続を切断することで、自動的にあちらに切り替わる。

 神崎の説明通り、肉体への直接的なフィードバックは宏志の方に入るので、実際に『パンドラ』内で活動する彰には今までとは違う、あちこちの感覚が無い奇妙な状況になるらしい。

 接続用のウェアの下着は、もし自分のことが機関にバレていなかった場合に『パンドラ』に入る為に、自宅から持参してきていた。頭部をカバーする帽子は神崎が材料を取り寄せ、彰の頭をスキャンして3Dプリンタでつくってくれた。

 接続当日、神崎はベッドから小型の車椅子に乗り換えて、自らの手であれこれとセッティングを行なった。

 その姿を見ながら、彰は片付けを手伝う際に澄子が漏らしていた、「御堂さんが来てくださってから、先生は見違えるように元気になりました」という言葉を思い出していた。神崎はもともとあまり食事に興味が無いそうで、最近はめっきり食べる量も減って心配していたのだが、今はずいぶんと食欲も回復して肌のツヤから違う、と。

 確かに彰の目から見ても、初対面の時に感じた枯れ枝のような印象は大分薄らいで、はっきりと生気が感じられた。

 このまま回復して、多少の手術が受けられるようになれば「もって三年」をもっと延ばすことができるんじゃないか、そんな期待をちらりと持つ。

「御堂くん」

 準備をしながら、神崎が彰を呼んだ。

「美馬坂くんに会えたら、聞いておいてほしいことがある」

「何でしょうか」

「あの事故に巻き込まれた、他の被験者の今の様子を……聞いて、もらえるだろうか」

 そう言われて、彰は不意を突かれたような思いがする。そういえば今まで他の被害者のことはすっかり忘れていた。

「その内の一人は、仮想空間の中で病気で亡くなっている。その後、彼は仮想人格同様殆ど眠りが必要なくなったのと、軽度の鬱状態になって美馬坂くん達と一緒にいるのが苦痛だ、と言って彼等からは離れていった。今はどうしているのか知らないが」

 そういえば出られなくなってから一年くらいで亡くなった人がいた、という話を英一がしていたことを彰は思い出した。確かに、自分だけが肉体を失って百パーセント出ることができない状況で、体が存在している英一達と一緒にいるのは辛いことだろう。

「後の二人と美馬坂くんは、私が引退した頃には仮想人格のコミュニティからは離れて、人工人格の教育などを行いながら暮らしていた。今はどうしているのか、聞いておいてほしい」

「判りました」

 準備を整えた彰は大きくうなずき、中へと入った。



 いつもと同じように、暗闇からさっと一瞬で視界が変わった。

「…………」

 彰は瞬きしながら、ぐるりとあちこちを見回す。

 もうすっかり馴染みとなった広場だ。今はちらちらと、小雪が舞っている。

 手の平を出して雪を受け止めようとすると、視界に入ったその手が自分のものとまるで違うのに面食らった。

 ……そうか、当たり前か、自分の手じゃないんだから。

 そう思いながらも、男と女、大人と子供のようにはっきりと異なる見た目ならともかく、同年齢で多少自分より背が高い程度の体格の相手の手が、一目ではっきり判る程に自分のそれとは違う、ということに改めて感心した。指のかたちも長さも、おそらく包丁タコらしき硬い部分も、何もかもが違う。

「羽柴宏志様」

 と、突然後ろからそう声をかけられて、彰はびくりと肩を震わせた。

 ゆっくり振り返って、もう一度びくりとする。

「突然お声掛けして申し訳ありません」

 目の前の相手は、そう言って上品に頭を下げた。

 ――ヨシナダ。

 その名を思い出しながら、彰は心臓がどきどき波打っているのを感じる。

「本日は『パンドラ』の初めてのご利用、まことにありがとうございます」

 その様子を初めての体験者の緊張、と受け取ってくれているのか、ヨシナダは微笑んでそう言うと、彰が初回の時に聞いたのと同じ説明を始めた。

 すべて説明し終えると、「では、『パンドラ』ナイトゾーンをお楽しみくださいませ」とお辞儀をして、くるりと身を翻す。

「あ」

 その背中に思わず、声が出た。

「何か?」

 すかさず向き直った相手に、彰はまだ少し緊張を残しながら声をかけた。

「あの……ヨシナダさんは、人間……なんでしょうか」

 くすんだ赤色の唇が、きゅうっと吊り上がる。

「すべてのお客様が、同じ質問をなさいます」

 そしてやはり前に聞いたのと全く同じ言葉が返ってきた。

 そう、だから自分も、同じ質問をしたのだ。すべての初体験の客が、尋ねる問いだから。

「私はこの『パンドラ』の為に開発された人工人格です。この『パンドラ』には、それぞれのゾーンごとに少なくとも三桁の人工人格が存在し、お客様のサポートを全力で勤めております。――どうぞ、ご存分にお楽しみを」

 そして聞き覚えのあるくっきりとした口調でそう言って、優雅に頭を下げて去っていく姿を、彰はほっと息をつきながら見送った。



 歩き出してすぐに、奇妙な感覚に気がついた。

 自分がこの足を動かしているんだ、という自覚はある。だが、靴で地面を踏んでいる感触はよく判らない。

 あまり不自然な動きで目立たないよう気をつけつつ、彰はいろいろと試してみた。

 手で服や髪を触っても、指先にその感触は伝わってこない。が、手を動かしている、という自覚はやはりある。また、触っている、その指先が見えているのといないのとでは、感覚が違う感じがした。視界の外だと本当に無感覚で、でも見えていると何となく触っているような気分になる。

 神崎の説明からして、本当は見えていようがいまいが無感覚なのが正しいのだろうが、いつか磯田が言っていたように「見えている」というのは人間の知覚に大きく影響するのだな、と感心した。脳というのはずいぶんあっさり騙されるものだ。

 いきなりまっすぐ『Café Grenze』に向かうのは目立つ気がして、彰はとりあえず服を着替えて、カジノに立ち寄った。

 遊び方を教わって何回かスロットを試してみて、小さな勝ちと負けを繰り返してから店を出る。

 今度はちゃんと元の服に着替え直して、途中の店で軽く飲みながらダーツをして――飲んでも何の味も無いどころか、液体が口の中にあることさえ判らなかったが――そこから散歩を楽しんでいるふりをしてわざと遠回りをして、『Café Grenze』を目指す。

 幾つもの角を曲がって道の先に赤茶色の丸い看板と、窓からわずかに漏れるオレンジ色の灯りに、彰は脱力にも似た、心底ほっとする感覚を味わった。ようやく家に帰り着いた、そんな気さえする。

 自宅にも帰れない今、その感覚は本当にしみじみと心に沁みた。

 扉の前に立つと一度深呼吸して、ぎい、と手の平でそれを押し開く。

「いらっしゃいませ」

 すぐさま、カウンターの中からマスターの声が飛んできた。

 当たり前のことだが、宏志の姿をしている彰を見ても、相手には特段の反応は無い。

 彰は全身を店の中に入れて、奥の席を見た。

 ――いた。

 最初と同じ席に、最初と同じように座って、彼女は文庫本を読んでいる。

「こんばんは」

 入り口に立ってそう声を出すと、彼女はちらり、とこちらに目だけを上げた。

 一瞬で目線を落として、また本のページをめくる。

「…………」

 その指が、ふっと止まった。

 シーニユは今度は顔を上げ、まっすぐに彰を見つめる。

 彰は息を呑んで、その場に立ち尽くした。

「どうぞ、お好きな席に……」

 グラスに氷と水を入れながらそう言いかけたマスターが、そこに漂うただならぬ雰囲気に気づいたのか、ふっと言葉を止め、二人を交互に見た。

 シーニユは瞬きひとつせず、じっと彰を見つめている。

 彰の全身に、じっとりと汗がにじんだ。

 ややあって、かたん、と音を立てて椅子を引き、シーニユが立ち上がった。

 そしてまっすぐ、彰の前に歩み寄る。

 下から覗き込むようにしてまじまじと顔を見、まるで匂いをかぐように、一度すうっ、と音を立てて呼吸して。

 それから背筋をすっと伸ばすと、正面から彰を見据えた。

 薄い唇が開く。

「――御堂さん、ですね?」

 彰の胸の内に、ここ半年近く味わったことのない、言葉にできない幸福感がどっと満ち溢れた。



「……ありがとう」

 その気持ちをどう言葉にするべきか、数秒悩んで、でも他に何の言葉も見つけられずに彰はそれだけを口にした。

 視界の端に、細い目を見開いているマスターの顔が見える。

 シーニユはほんのわずかに眉根を寄せた。

「お礼をいただくような覚えがありませんが」

「俺にはあるよ」

 もう何度目か、いつかと同じやりとりに、思わず彰はくすっと笑みをもらした。

 すると目の前で、シーニユの顔がほんのわずかに、けれど劇的に変わった。

 一ミリもない程、目と眉の端が下がって、少しだけ瞳が細まる。

 ごく小さく頬骨が動いて、閉じられた薄桃色の唇の端の端だけが、つついた程度につん、と上向いた。

 顔の動きはたったそれだけ、けれどそれだけで表情そのものが大きく変わった。

 そこから発せられる柔らかな光のような、それは疑いようもない「微笑み」だった。

 彰の胸が大きく打たれる。

「では、遠慮せずに頂戴することにします」

 そしていつもと同じ淡々とした、けれどほんの四分の一音程高いトーンでそう言うと、彼女は小さく頭を下げた。



 彰がとりあえず今の状況の説明をしようとすると、彼女はそれを、片手を上げて止めた。

「美馬坂さんを呼びます」

「えっ?」

 驚く彰を尻目に、彼女はさっと身を翻して店のカウンターの中に入っていく。

「説明は一度で済ませた方がロスが少なくすみますから」

「いや、でも、どうやって」

「マスター、すみませんが」

「判りました」

 尋ねる彰に答えず、シーニユはマスターにそう声をかけると、彼は心得顔でうなずいてカウンターから出てきて、先刻まで彼女が座っていた椅子に腰掛ける。

 そして彰の方を見上げて、かすかに微笑んだ。

「どうか、彼女を頼みます」

「え……」

 彰がとまどって何も言えずにいると、シーニユがカウンターの中、店の一番奥の壁に取り付けられたデルビル電話機の前に立った。

 あれ、あんな古風な電話機、前からあったっけ?

 それはいかにもこの店に似合ったアンティークぶりで、でも前には確かにこんなものは無かったのに、と彰は思った。初日にカウンターの奥の壁に扉も何も無いのを見て、がっかりした覚えがあるのだから。

「シーニユ、それ」

「先日美馬坂さんが作ってくれました。ホットラインだと」

 振り返らずにシーニユは短くそう言って、ラッパの先のような形の受話器を取り上げ片耳に当てると、電話機の側面についたハンドルをくるくるとまわした。

「――シーニユです」

 彰が目を丸くして見守っていると、彼女は少し頭を傾けて電話機の正面についた丸い送話器の部分に口元を寄せてそう話し始める。

「今こちらに、御堂さんがいらしてます。……ええ、そうです。こちらの準備はできていますので、可能ならすぐにおいでください。……はい、お願いします」

 てきぱきとそう言い終えると、かちん、と受話器を戻して。

 すると突然、がくり、とマスターの首が折れるように前のめりに曲がった。

 彰が思わずびくっとした次の瞬間、またばね仕掛けのようにその首が起き上がる。

 そしてぱちぱち、と二、三度大きな瞬きをした。

「……え?」

 髭の口元から小さく声を上げながら、きょろきょろと店内を見回して。

「え、シーニユ?」

 彰の姿を見て細い目をまん丸にすると、助けを求めるように首を巡らし、カウンターの中の彼女を見やって。

「シーニユ、この人だれ……え、ええっ?」

 尋ねかけた途中でぴんときたのか、すっとんきょうな声を上げてまた彰を見た。

 その姿が可笑しくて、彰はぷっと吹き出してしまう。

「ええ……え、まさか、御堂くん?」

「当たり」

 半信半疑な様子で聞くのに、更に可笑しくなって彰はおどけて答えた。

「えー……また一体どうして、そんな格好で。てか、その人誰?」

「こないだ言ってた、僕の親友。満ちるちゃんを預かってくれてる」

「ああ……」

 小さくうなずきながら、英一は立ち上がって彰に歩み寄って。

「でも、どうやって?」

 しげしげと宏志の体を眺めながら、興味津々と言った声でそう尋ねる。

「君と同じ。猫かぶってるんだ。……説明するよ」

 彰は笑ってそう言うと、カウンターの中のシーニユを手招いた。

  

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