第42話 理想

  

 次の日から彰と神崎との、奇妙な同居生活が始まった。

 家政婦さんは高田たかた澄子すみこといって、ここから自転車で十数分のところから毎日通っているそうだ。朝は七時半頃に来て朝食をつくり、掃除や洗濯や買い物、神崎の身のまわりのことをして、六時過ぎに夕食を食べさせて帰る、というのが日課なのだとか。それを週六日、一日は代理の人をよこすそうだが、その時の食事は前日に彼女が全部用意して冷蔵庫に入れているのだという。

「最初は週五日だったのだが、本人が『家にいてもやることがないので毎日来ます』と言ってね。週一日休んでもらうように頼み込むのが精一杯だったよ」と神崎は少し笑って言った。

 そんなことからも判るように、彼女は雇い主である神崎がいかに快適にすごせるかに全力を費やしているのが見ていて判った。何気ない会話の中で知ったのだが、彼女が働き始めて半年程した頃に娘さんがちょっと難しい病気にかかって、この近辺に対応できる医者がいなくて途方に暮れていたのを、神崎がその病気に詳しい医者のいる病院を紹介して、すっかり軽快したのだそうだ。もともときっちりと仕事をするタイプの女性だったそうだが、それ以来本当に献身的につくしてくれるようになったらしい。

 神崎は確かに食事について制限がある、という訳ではなかったが、それでも彼女は彼が少しでも食べやすいようにと、麺類は短く切るとか、水気の多いものにはとろみをつけるとか、実に細かく気を配っていた。彰は最初手伝うつもりでいたのだが、見ている内に、ああ、これは自分自身の手でやりたいんだ、と判って料理に手を出すのはやめにした。

 週に一回、医者の往診があるとのことだったが、それ以外は全く人の出入りの無い、静かな生活を二人は送っているようだった。 

 今回のことで神崎は研究に向ける意欲が刺激されたのか、宏志に送るスイッチをつくりながらも、連日のように大量の本を注文したり、ネットから海外の論文を山のように印刷しては熟読していた。ネット上でも勿論読めるが、目が疲れるし好きなだけ書き込みができるから、と、紙で読むことを重要視しているようだ。

 そのこだわりは昔からで、機関で研究を始めて以来、すべてのデータを紙で保管するよう神崎主導で取り決め、今でも東京と長野の研究所にはそれぞれに同内容の書類の巨大な保管庫があるのだそうだ。

「電子データは媒体によって劣化もするし改竄が比較的簡単だ。勿論それはそれで当然残すしバックアップも取るが、同時に紙の資料で残しておく、というのは重要だと私は思う。何千年先でも形式を問わず確実に読める、というのは紙ベースの最高の価値だ」

「でも、紙だって劣化したり破損したりしませんか?」

 ベッドの機械に備え付けのテーブルで拡大鏡を嵌めてスイッチをつくる神崎の隣で、プリンタからどんどん資料が印刷されていくのを、一本ずつまとめて読みやすいようにファイルに綴じていきながら彰は質問して。

「長期保管用に加工された特殊紙とインクを使用している。保管用のケースは防火・防水を施して、中は真空になるようにしているし、部屋の温度や湿度を管理しておけば殆ど劣化は無いよ」

「内容を変えたものをつくって入れ替えたら簡単に改竄できてしまうんでは?」

 我ながら底意地の悪い質問だとは思うが、数日一緒にすごしている内、相手がこういう会話をむしろ楽しんでいることが判ってきて、あえて彰はそう突っ込んでみる。

「すべての用紙には透かしで通し番号がふられている。番号をふる為の機械は、一度使った番号は再度使えないよう設計されている。万一印刷し損ない、などで同じ内容をもう一枚刷ることになった時は、その旨を記載した用紙を挿入することになっている」

「それは徹底してますね……」

 さすがに反論の余地もなく、彰は素直に感心した。確かに、千年どころか百年もしない内に電子データの保存形式は移り変わっていくだろうし、そう考えたら紙での資料保管、というのは劣化と場所を取ることさえクリアできれば優位な方法なのかもしれない。

「私はこの研究が、宇宙への発展とはまた別の意味で、千年先の人類にも必ず役に立つものだと考えているんだよ」

 少し疲れたのか、拡大鏡を外すと澄子に内線で緑茶を頼んで、神崎は軽く肩を回してふう、と息をついた。

 彰のまとめている資料を寄越すよう手振りで伝えてきたので、出来上がっているものをつくりかけのスイッチの脇に置く。

「仮想空間や人工人格の発展は、人類の次の進化に繋がるものだと私は思う。人間はもっと、人工人格を見習うべきだ」

「え、そっちですか?」

 更に刷り上がってきた論文の用紙をとんとん、と揃えながら、彰は思わず声を上げた。

「人工人格をヒトに近づける、ではなくて?」

「君も言っていたろう。ある意味で人工人格はヒトよりも信頼に値する、と」

「あ、ええ、まあ」

 最初にここを訪ねた日の会話を思い出して、彰はうなずく。

「私もあれと、全く同意見だ。美馬坂くんは人工人格に『無駄』を覚えさせることでヒトに近づくんじゃないか、と言ったそうだが、私はそんなことは不要だと思っている。ヒトは無駄や遠回りが多すぎるんだ」

「例えば、何でしょうか」

 最後の論文をファイルに綴じて、彰は軽く息をついて。

 そこへちょうど、澄子がお茶を入れて二人のところへ運んできた。

「あ、ありがとうございます」

 ソファテーブルの端にファイルを寄せて、お茶を受け取る。

「例えば、何か生活を革命的に便利にするような発明ができたとする。だがヒトの中には必ず、その技術の穴をついたり、逆手に取ったりして悪事に利用するものが現れる。だからせっかく便利な技術が発明されても、ヒトは大抵、それをどこかセーブして使用することをせまられる。何とも莫迦莫迦しい話だよ」

 一礼して部屋を出ていく澄子を見送ってから、湯飲みを手に神崎は再び饒舌に話し始めて。

「結局、自分が得することしか考えていない。その為により大きな全体の利益が阻害されることなど気にも止めない。その悪事の為に技術に様々な規制が課せられることで、結局その当人も不便な思いをすることになるのに、そういう大局を見通すことができないんだ。短絡的だね」

 そう言ってずっ、とお茶をすする神崎を、彰は不思議な既視感をもって見つめた。今と同じような話を、前に聞いた気がする。

「ヒトはむしろ、人工人格を見習うべきだ。彼等はそんな下らんふるまいはしない。その便利さをどうしたら完璧に利用し尽くせるか、そういう方向でものを考える。人工人格をヒトに近づける必要なぞない、むしろヒトが人工人格に近づくべきだ」

 ……ああ、そうだ、シーニユだ。彼女が言っていた。

 まろやかな中にきっちりと苦味と渋みの沈んだ、温かいお茶を喉の中に落としながら、彰は思い出した。『パンドラ』でアルコールを摂るとどうなるのか、という会話をしていた時にそんなことを言っていたっけ。

「すべてのヒトが人工人格のようにものを考え、ふるまえるようになれば、現実界が暮らしやすくなるのは勿論、仮想空間での長期の生活もぐっと簡単になる。どれだけたくさんの人間がいても、平穏で、穏便な生活が送れるようになる筈だ。それは理想の空間だよ」

 彰はことり、と小さな音を立てて湯飲みを置いた。

 神崎の言いたいことは判る。世界中の人間がそういう逸脱行動をしなくなれば、皐月の事故だって起きずに済んだ筈だ。だから自分も、その意見には諸手をあげて賛成するのが当然だ。

 ……でも。

 何かが小骨のように喉の奥にひっかかっていて、簡単にはうなずけない。

 それが理想郷なのは判る。思考が最短ルートで理想の結果に接続し、そこから決して他の方向にはぶれない世界。すべてがスムーズで、摩擦や軋轢の一切無い世界。

 きっとその世界では、トロッコ問題に迷うような人はいないのだ。

 そこでの結論は自分には判らないが、すべての人が問いを聞いた瞬間に、完全に同一の回答をするのだろう。

 ――考えるのは考えるよ。とことんね。

 今はもう遠い昔、自分が本当にまだ若かった頃に英一から聞いた言葉が、彰の中に甦る。

 そして同時に、ずきりと胸が痛んだ。

 ああ、本当に、そうなれば……世界が神崎の言うような場所になっていれば、皐月の事故も、英一達の問題がここまで根深くなることも、きっとなかったのだろう。だから本当なら、やはりここは、うなずくべき、うなずきたい、そう強く思う。

 ……だけど。

 自分は確かにその周辺に存在はしているけれど、奇禍を直接身に受けた訳ではない。そんな立場からこんなことを言えば、被害にあった当の人間からは「安全な場所にいるから言えることだ」と罵られても仕方がない。でも。だけど。

「……僕が出会った人工人格に、似たようなことを言った子がいました」

 彰の声に、神崎は口をつぐんでこちらを見る。

「ヒトはヒトであるが故に、せっかく『便利さ』や『自由さ』が実現されてもそれを百パーセント享受することができない。それはとても、不自由で理不尽なことだと」

 神崎は何も言わずに、それでもどこかひどく満足げな顔つきでうなずく。

 彰は胸の奥に何かがぐうっとせりあがってくるのをこらえて、言葉を続けた。

「でも、彼女はこうも、言いました。人工人格には『迷い』が無い、と」

 神崎の眉がぴくりと動く。

「二つの選択肢があって、すべての状況がその内のひとつを取るべきだと示していても、ヒトは迷い、挙句に違う方を選んだりする。それは人工人格には決してできない、ヒトの持ち得る驚異的な能力だと、そう」

 彰の胸の中で、何かが音を立てて渦を巻いていた。

「僕には……ヒトがどちらであるべきなのか、今は判断ができません」

 すべてのヒトが人工人格のように判断ができる、皐月の事故が起きない世界。

 それは自分には素晴らしいことだ。他のどんなものと引き換えにしても、皐月が生きて隣にいる、それが自分にとっての正解だ。

 だけど。

 そういう世界の中で、果たして自分と彼女は、あんなに深く、結びついただろうか?

 ヒトは愚かで、遠回りばかりして、間違った方ばかりを選んで、けれども……確かにそういう揺らぎの中にこそ、自分と彼女の間に間違いなく存在した、あの輝きが宿ったのではないか?

 時に下らなく下賤で最低な結果を世界にもたらすヒトの思考、だがもしもそれをすべて真っ平らに、一直線にしたなら、その逆側のものもすべてが消え去ってしまうのではないだろうか? 

 それは確かに「能力」であり、振れる方向が真逆なだけなのだ、多分。

 そう思いながら、胸の奥が苦しい。

 神崎の言うような世界であれば、皐月の事故は無かった。

 それが判っていて、でもそれが「理想の世界」だとはどうしても思えない。

 けれど皐月の犠牲の上に「ヒトの揺らぎ」を肯定するのも嫌だ。彼女の命は、他の何ものにも引き換えにはならない。

「……ふむ」

 もう一度お茶をすすって、神崎は湯飲みを置いた。

「人工人格は間違うことができない、ということか」

 彰は気づかれないよう細く息を吸って深呼吸して、気持ちを落ち着かせてから口を開いた。

「まあ、間違い、の定義によりますけど……その場に提示されたすべての条件から人工人格の脳が導き出した計算結果、それに彼等は逆らうことができない、ということなのではないでしょうか。片方を取る、という結論が出たら、もうひとつは完全に切り捨てて活動できる、そんな感じなのでは」

「…………」

 神崎は両手を腹の上で組んで、顎をしゃくるように上げて天井を見上げて。

「それは、考えるべき新しい課題のひとつかもしれないな。ありがとう、御堂くん」

「いえ。……少し、失礼します」

 彰は立ち上がって小さく頭を下げると、神崎の部屋を出た。



 自分の客間に戻ってぱたん、と扉を閉めると、大きく息をつく。

 胸の奥が焼けたように熱かった。

 軽く額に触れてみると、そこもほんのりと熱を帯びているように感じる。

 は、と胸の底から息を吐いて、彰はベッドに横たわった。

 きつく目を閉じると、筋肉が疲れて瞳が乾ききっているのが判る。

 ……ああ、そうか。

 久しく感じていなかった腹の中の感覚に、彰は気がついた。

 自分は、怒っているんだ。

 腹を立てている。

 自分から皐月を奪った存在に。

 あんなことがなければ、きっとこんな風にぐちゃぐちゃと考え込まずにさっくりと「ヒトが人工人格のように考えるなんておかしいですよ」と言えた。何の疑問も持たずに。だってそれが、正しいと思うから。

 実のところ、それが正しいと思っているのだ、今だって。

 なのにそう言い切ってしまうのが辛い。

 それはまるで、自分が皐月の事故を肯定しているような気がするから。「ヒトはそういう生き物なんだから仕方ないじゃないか」と言っているのと同じ気がするから。

 だけどそんな訳がない。仕方がなかった、そんな筈は無い。

 彼女の命が失われたこと、それが仕方がないことだった筈が無い。

 目の奥がじいんと熱くなって、まぶたの裏に一瞬で水が満ちる。

 彰の脳裏に、事故の直後に少しだけニュースで見たきりの、今までずっと思い浮かべもしなかった、運転手と同乗者の顔と名前がくっきりと浮かんだ。

 彰はそれを、初めて腹の底から憎んだ。

 全部消えてしまえばいいのだ。ヒトの愚かさなど。皐月の命を奪った、あんな下劣な連中など。ああいう下らないものを可能な限り排除して構築された『パンドラ』、世界はああいう風になるべきなのだ。ヒトは人工人格のようでいい。いや、いっそヒトなどいなくてもいい。

 涙が幾筋もこめかみをつたって髪の中を流れ落ちていく。

 むせるように息を吸うと、胸の中でごうごうと嵐の音が鳴っている気がした。

 やけになってる。判ってる、そんなこと。

 もし本当に世界がそんな風にできていたら、自分と皐月は、きっとただの友人のままで終わったのだ。

 ……でも、彼女が失われないならそれでいいじゃないか。

 ああ、もう……判らない、心が踏み荒らされた泥の地面のようだ。

 ぐるり、とうつぶせになって、彰は枕に顔をうずめる。

 すると濁った頭の奥で、先刻思い出した英一の言葉の続きが響いた。

 ――どっちかに決めるっていうのはさ、こっちかも、でもそうじゃないのかも、て、もやもやあれこれ考えあぐねてる自分の気持ちを全部折って捨てる、てことでしょ。そんなことしなくていいよ。と、僕は思うよ。

 深く深く、熱い息を吐く。

「……美馬坂くん」

 かすれた声で名を呼ぶと、細い目を更に細めた、ひとなつっこい笑顔が浮かぶ。

 本当は一度も「実物」を見ていない、その笑顔が。

 決めなくていい。

 またどっと涙があふれて、枕カバーに染み込んでいく。

 そうなのだろうか。

 本当に、そうなのだろうか、美馬坂くん。

 AとB、今は選ばずにいることが、自分に許される、そう思っていいのだろうか。

  

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