第17話 墓参

  

 忠行に会った次の日、彰はネットで英一の実家を調べてみた。

 美馬坂、という珍しい名字と宮城県、温泉で老舗の旅館、という条件を入れるとすぐにその旅館は見つかった。場所を忘れていたとはいえこれなら見つけるのはそう難しそうではなく、なのにそれすらしなかった忠行の当時の気落ちに彰は少し同情した。

 あれこれと調べてみると、どうやら今その旅館を切り盛りしているのは若女将のようだ。幾つか写真が上がっていて、その容貌から英一の実の姉なのではないか、と彰は推測する。背が高くきびきびとした雰囲気の女性だ。

 かなりの山奥にあるその旅館は、それでも温泉そのものに歴史があって、なかなか人気があるようだ。老舗だけあって築百五十年近い純和風の旧館と、いわゆる和モダン的センスの洒落た新館とが立ち並んでいて、口コミも割と評判が良く、料理の写真も見るからに美味しそうだった。

 経営、あれから持ち直したんだ、と彰は胸をなでおろした。調べてみても一度は人手に渡ったとか、経営は実は別会社とか、そういう様子は無い。

 旅館のサイトを見ながら彰はしばし、考え込んで。

 英一と仮想都市で会ったのは、結局その二回だけだった。

 それから実験会場でも、学校でも顔を合わせたことはない。

 忠行の話を聞くに学校で会わなかったのはまあ当然なことだった。二度目に仮想都市で会ったのは十二月半ばのことで、その頃にはきっともう、英一は学校自体に殆ど来てはいなかったのだろう。

 あれから今の今まで、すっかり忘れていた。

 細い体と細い顔、そして細い目を思い出しながら、彰はひとりごちる。

 それなりに会話をして、かなり印象的だった彼のことを忘れてしまっていたのには実のところ、思い当たる理由があって――十二月、クリスマスから大晦日と年明けにかけて、皐月との関係が深くなったからだった。

 その出来事が印象的過ぎて、当時の他のことはすっかり頭から飛んでいた。「二年生の冬」と言われてまず頭に出てくるのはそのことだけで、それがあまりに大き過ぎて、でもまあそれは健全な二十歳の男子大学生だったのだから致し方あるまい、と彰は自分に言い訳する。

 思い出したはいいものの、結局その「バイト先で二度会って少し話した」以上の情報は何ひとつなく、それでも彰が実験内容にはできるだけ触れずに話した英一の自由奔放でのびのびとした姿に、忠行は一瞬、ひどく懐かしそうに目を細めた。

「……うん。ほんと、そういうヤツだったよ」

 そしてぽつりと一言だけそう言って、そこで話を終わらせて。

 それ以上何かを言うことは彰にはできなかった。

 ……今、どうしているのか。

 彰は画面を見ながら、また少し考え込む。

 こうやって経営問題については解決しているんだから、当時はともかく、今は苦労する日々を送ってはいない、と思いたい。だとしたら余計なおせっかいかもしれないけど、それだけでも忠行に教えてあげられたら、そう思う。

 彰はひとつ深呼吸して、体を起こして画面に向き直った。



 旅館の公式アドレス宛にメールを送ると、数時間もしない内に返信が送られてきた。

 その文章に、彰は息を呑む。

 彰が旅館宛に送った内容は「自分はかつて彼と同級生でバイト先で親交があった、先日共通の知り合いに会って、懐かしがっていたのでぜひ連絡が欲しいと彼に伝えてほしい」というものだった。

 その返事には、こう書かれていた。

『御堂様

 旅館 渾天こんてんの女将で英一の姉の清美きよみと申します。

 その時分は英一がお世話になったそうでありがとうございます。


 とてもお伝えにくい話なのですが、英一は大学を退学してすぐ、交通事故で亡くなりました。

 大学生活のことは当時よく楽しそうに話してくれていたので、短い期間ではありましたが、あの子にとってきっと良い思い出だったのだと思います。

 御堂様には英一の良きご友人でいてくださったそうで本当にありがとうございます。そのお友達にも、どうか姉が感謝していたとお伝えください。

 このようなお知らせになってしまったこと、大変心苦しく思っています。

 御堂様の今後のご多幸をお祈り申し上げます』



 その返信を前に、彰はしばらく悩んだ末、宏志に連絡を取って。

 宏志によると、忠行は今日の午前中にもう日本を発ってしまったらしい。

 英一の訃報に宏志は絶句していたが、どちらかと言うと忠行よりも、また身近で事故死した人に触れた彰の方を心配しているようだった。

 自分から忠行に知らせようか、そういう宏志の申し出を彰は断った。知らせるなら知らせるで、もう少し詳しいことを知りたい、そう思ったのだ。

「あまり深入りするなよ」と心配気に言う宏志に、彰は小さく、うなずいた。



 それから彰は、相手にもし良ければお線香を上げに行きたい旨をメールした。

 すると殆ど間をおかずに返事が返ってきて、英一が亡くなった後に母親が心痛の為に長く臥せっていたこと、今は回復しているが彼の話が出ると体調を崩すので申し訳ないが来てほしくはないこと、が丁重に綴られていた。

 それならばせめてお墓参りだけでもさせてほしい、と食い下がると、相手は「決して旅館には顔を出さないこと」を条件に、その場所を教えてくれた。

 旅館から二キロ弱程離れたその寺は、観光客向けではないらしく境内は非公開だった。地図を見るに割と大きな寺だったが、地元の檀家だけで保っているらしい。

 彰は次の日、宮城へと立った。

 新幹線の駅で降りレンタカーを借りて、途中でホームセンターに寄って線香と仏花を買う。

 今も自宅の寝室に置かれたままの皐月の遺骨には、普段は線香を上げていなかった。どうせなら本人の好きな香りがいい、と思って、彼女がよく買っていた藤の香りのスティック状のお香を線香代わりにしている。

 ……墓を、どうするべきなのかな。

 ナビに従って運転しながら、頭の片隅で考える。

 皐月の両親は、それについては彰に任せる、と言ってくれた。彰の親の墓に入れてくれてもいいし、別に新しく建てるのでも、特にきちんとしたお墓、というのではなく樹木葬とか宇宙葬でも構わない、と。

 花が好きな子だったから、樹木葬、というのは向いているのかもしれない。どこに入れるにせよ、ほんの少しだけ、茶太が眠っているという皐月の祖母の家の近くの寺のペット墓地に分骨するのもアリなんじゃないか。

 つらつらと考えながら、ふっと「皐月の死を完全に受け入れている自分」に気がつき、彰は愕然とすると共に底冷えがするような恐怖を感じた。

 時間、というのは……なんて、残酷な。

 下唇の内側を強く噛んで、彰は眉をしかめる。

 帰っても誰も居ない部屋、冷えた台所、いつまでも空のままの隣のベッド、そんなものに自分は少しずつ馴れつつある。

 ――ヒトの脳というのは、弱く馴れやすいのです。

 シーニユの言葉が頭をよぎった。

 いやだ。

 そんなことに、馴れたくない。

 山道の中、無意識の内にハンドルをきつく切りそうになっていて、それをぐい、と自動安全装置に戻されてはっと我に返る。

 ……ああ。

 小さく口の中にため息をついて、彰は改めて前を見直した。



 古びた店と住宅が立ち並ぶ、めっきり田舎の街の中にその寺はあった。

 門の隣に参拝者用の駐車場があったので、そこに停めて中に入る。

 五十代程に見える住職に話を聞くと、お墓の場所を教えてくれた。敷地の中、本道の隣に割と広い墓地がある。

 墓地の入り口でバケツに水を汲み着火装置を借りて、足を踏み入れて。

 住職の説明は奥の方の右手辺り、という大雑把なものだったので、探すのに少し時間がかかった。

 やっと『美馬坂家』と刻まれた墓石を見つけて、ほっと息をつく。

 石の側面に、他よりも格段に新しい彫り跡で英一の名があったのに、胸の肉をナイフでえぐられたような気持ちになった。日付は二年生の年度末、三月の終わりだ。

 軽く唇を噛んで、墓石にバケツの水をかける。

 花立てに仏花を入れ、線香に火をつけて線香皿に置いて。

 ひとつ息をつき、両手をあわせて目を閉じる。

 と、

「――あの」

 と突然、隣から声をかけられ、彰は文字通り飛び上がった。

「え、えっ?」

 その場から飛び退いて見ると、すぐ傍に学生らしい若い女性が立っている。

「え、あの、何か」

 一体自分が何をやらかしたのか、そうあたふた周りを見回しながら聞くと、彼女は思い詰めた表情で一度地面を見つめ、きっと顔を上げた。

「あの、兄の同級生の、方でしょうか」

「……え?」

 意外なことを言われて、どくんどくんと鳴っている心臓を沈めながら相手の顔を見直すと、目元が確かに、うっすらと英一に似ている気がする。

「そうです、けど」

「昨日、メールくださった方ですよね」

「はい。御堂、彰です」

 彰がうなずいて会釈すると、彼女はほうっと、ためていた息を吐き出す。

「すみません、急にお声がけして……わたし、美馬坂英一の妹で、ちるといいます。突然で本当にすみません」

「あ、いえ、こちらこそ急に押し掛けて申し訳ありませんでした」

 訪問を丁重に断ってきた姉のメールを思い出して、彰は慌てて頭を下げ返した。向こうからしたら当時は何の連絡も取ってこなかったのに、何を今更、といった感じなのかもしれない。

「いいえ」

 彼女は小さく首を振り、薄桃色の唇をきゅっと噛む。

「あの、大変失礼なことをうかがいますが……御堂さんはほんとに、兄の同級生なんでしょうか」

「えっ?」

 突然の出逢いの上に予想外な質問をされて、彰は面食らった。

「すみません、あの、ちょっと当時の兄について聞きたいことがあるんですけど、御堂さんが本当に兄の知人なのか確認したくて」

「ああ……本当に急なメールで、申し訳ありませんでした」

 彰はもう一度頭を下げて、はたと思い悩む。同級生なのはまぎれもない事実なんだけど、でも学部も違うし、大学内でどうこう、という思い出はゼロだ。

「あの、僕は学内と言うより、バイト先で一緒だったんですけど……そうですね、あの頃の美馬坂くんの印象は、アメンボみたいなひと、でした」

「え?」

 思い出し思い出し言った言葉に、満ちるが目をまん丸にする。

「あ、すみません、あの、悪口ではなくて」

 その顔に彰は慌てて言葉を足した。

「ほら、アメンボって、虫なのにまるで体重なんて無いみたいに、水の上に乗ってすいすいなめらかに動くでしょう。彼のちょっと浮世離れしたところとか、体が細くて腕や足もすごく細くて長いところとか、動きの素早さとか、何だか雰囲気が似てて。あ、ほんと、悪口じゃなくて、褒めてるんですよ、これ」

 きょとんとして聞いていた満ちるの顔が、だんだんと笑顔になって、それから最後にはくしゃ、と歪んで、頬にひと粒、涙が落ちる。

 ますます焦ってしまった彰に、彼女は深く、頭を下げた。

「大変、失礼しました。確かに御堂さんは、兄の友人だと判りました」

「そ、そうですか、良かった」

 今の話で本当に良かったのか、彰はほっと胸をなでおろした。

 ところが次の瞬間、彼女の口から飛び出した硬い声に、彰は意表を突かれる。

「あの、御堂さんは……兄の、死について、何かご存じなんでしょうか」



 この場にあまり長くいると人目についてしまうから、と、満ちるは彰の車に乗って、街を出て少し走ったところのファミリーレストランに彼を案内した。

 甘いものが好きなのか、ココアを頼んで運ばれてきたそれをひと口飲み、ふう、と肩を落として息をつく。

 英一の妹、という割にずいぶんと小柄だ。長い髪をポニーテールにして、明るめのベージュの太い毛糸で編まれたアランセーターに赤を基調としたタータンチェックの巻きスカートをはいている。

 車の中では道案内をするだけで、他には何も話さなかった満ちるにどう会話を切り出せばいいのか、悩みつつ彰がコーヒーを口に含むと、意を決したように彼女は膝の上でぐっと両の手を握って身を乗り出した。

「旅館に、いただいたメール……あのメルアド、姉夫婦以外に、大番頭さんと、予約とかフロントとか担当してる番頭さんも、見られるんです」

 話を聞くに、大番頭は彼女がまだ子供の頃から長いこと働いている人なのだそうで、彼女にとっては第二の父、と言ってもいいくらいの人らしい。勿論英一のこともとても可愛がっていて、亡くなった時には号泣していたそうだ。

 学生時代の友人から連絡が来た、というのを彼は喜んで姉に伝えて、それなのにその話を聞いた姉はひどくきつい様子になって、「そのメールは自分が対応するから」と彼や他の番頭の端末からは削除してしまった、というのだ。

 だから姉が相手にどう返信したのかは判らなかったが、少ししてお線香を上げたい、それからすぐにお墓参りをしたいので場所が知りたい、というメールが続いて届いたのに、そのメールも姉が来て削除していった、と。

 確かに大女将はいまだに坊ちゃんの話を聞くとお辛そうだけど、せっかく坊ちゃんのことを思って連絡してくれた相手にあれはあんまりじゃないかと思う、満ちる嬢ちゃんからも何とかとりなしてもらえないか、そう頼まれて彼女は姉のところに行ったのだそうだ。

「……カンカンになって、怒られました」

 目を伏せながら、満ちるはまるで今まさに叱られているかのように肩をきゅっと小さく縮める。

「兄が亡くなった時には、事故の状況が状況だったので取材の申し込みが幾つも来たんだ、と……それがキツい内容で、しつこくて、母は臥せってしまったんだ、姉はそう言いました。今頃になって連絡を取ってくるなんてきっとその時の記者の関係か何かに決まってる、アンタも三川みかわさんも、あ、大番頭のことなんですけど、二人とも絶対にその相手とは連絡を取るな、てものすごい剣幕で怒鳴られて」

 話しながら彼女は無意識なのか、何度も耳元に落ちる細い毛を指で耳に掛け直した。

「もともと、キツいところのある人ではあるんですけど……でもあんな怒鳴られ方したのは、初めてで。何て言うか……尋常じゃ、なくって」

 わずかに眉をひそめてそう言うと、彼女は軽く身を震わせて。

「それで、何だか、わたし……怖く、なって」

「こわい?」

 意外な言葉に驚いて聞くと、少し青白い顔色をして、彼女はうなずく。

「兄が、亡くなった時……わたし、顔を、見せてもらえませんでした」

 ボリュームのボタンをひねったかのように、すうっと声が小さくなって。

 わずかに唇を開きながらも話し出すのをためらっている様子に、彰は水を向けた。

「あの、事故の状況が状況だった、ていうのは……どういう」

 満ちるはふう、と聞こえる程の深い息をついて、再度気持ちを立て直すようにきちんと座り直すと口を開く。

「兄が亡くなった時、わたしは小学校の卒業式の後の春休みでした。友達の家で遊んでいたところに突然、母方の祖父母が迎えに来て、二人の家に連れていかれて、それからお葬式までずっと、そこにいたんです。病院にも、行かせてもらえなくて……そもそも兄が事故にあった、ということ自体を、すぐには話してもらえませんでした」

 とてもひどい事故だったから顔は見せられない、姉は辛そうにそう言った、と彼女は話した。家に戻った時には母親は既に倒れて入院していて、葬式にも出られなかったそうだ。

 お棺の蓋は一度も開けられることなく、英一は荼毘に付された。

 それからしばらくは、呆然とすごしたと満ちるは言う。

「何もかも、あんまり非現実的で……何が起こったのか長いこと理解ができなくて、悲しむことさえ、できませんでした」

 その言葉に皐月の死に直面した後の自分の姿に似たものを見て、彰は悲痛な思いがした。

「兄の死を、実感したくて……でないと自分が今いる世界がすべて嘘みたいに思えて、わたし、お葬式から半年くらい経ってから、兄の事故のことを調べたんです」

 一度言葉を切って、彼女は短く息を吸う。

「でも……ありませんでした」

 彰は思わず、彼女の顔を見直した。

「新聞にも、ネットのニュース検索にも、どこにも……兄の事故の件を、見つけることができなかったんです」

 真っ青な顔をして、それなのに燃えるようなまなざしをして、彼女はまっすぐに彰を見返す。

「数ヶ月は、ひとりで悩みました。でもどうしても、我慢ができなくて……勇気を出して、姉に聞いたんです。何故ニュースに無いのか、と。すると姉は、まず子供がそんなことを調べるもんじゃない、と烈火のごとく怒って、それから『誰にも内緒だ』と念を押して、答えてくれたのが……兄を轢いた車の運転手が、ある国のVIPだったんだ、と言うんです」

「ええ?」

 話が急に妙な展開になってきて、彰は眉をひそめた。

「国際会議的なイベントで来日していた、王族とか大統領とか、そういう国のトップレベルの人だったんだ、て……だから公にはされなかった、でも事故の後しばらく、何か裏がある、と思ったマスコミが押し掛けて母が倒れた、だからあんたも絶対にこのことは口外しちゃいけない、そうきつくきつく言い渡されました」

「…………」

 それまで真剣に相手の話を聞いていた彰だったが、あまりに荒唐無稽な内容になってきたのに、少し気持ちが引くのを感じた。いくら何でも、それは無茶では。

「そんなことってあるのか、そうまだ子供のわたしでも思いました」

 けれどそこに、まさに今思っていることと同じ言葉を彼女が口にする。

「だって今時、そんな事故が目の前で起きたら、いろんな人が写真を撮ってアップしたりしますよね。完全に隠し通すなんて絶対に無理。ウチみたいな田舎ならともかく、兄は家に帰ってくる前、下宿先の方で亡くなったんだし。だからわたしは、聞いた時には、きっとこれは姉の嘘だ、そう思ったんです」

 自分もそう感じる、という気持ちを込めてうなずいて見せながら、彰はでも、と思った。でも、それは一体、何の為の嘘なのか?

 そこまで考えた時に頭に浮かび上がってきたひとつの単語を、また同時に満ちるが口にした。

「兄の死は……自殺、なんじゃないかと」

 自分の口でそう言いながらも、彼女はひどく辛そうにかくりと肩を落として。

「もしそうなら姉があんな無茶な話までして事故死だと言い張るのも、母が心痛で入院したことも、全部納得がいくんです。どんな死に方かは判りませんが、死に顔を見せられなかったのも、その辺に理由があるんじゃないか、って。でも」

 そこまで一気に言って、彼女は唐突に言葉を切った。

 けれどその先に何が続くのか、彰には手にとるように判った。

「美馬坂くんは、自殺するような人じゃない」

 だからそれをそのまま口にすると、彼女がぱっと顔を上げる。

 その瞳には涙が一杯にたまっていて、けれどそれだけではない理由で、きら、と光が放たれていた。

「そうなんです」

 暗い井戸の底に助けが届いた人のような声で、彼女は前のめりに言った。

「兄はそんなことをする人じゃない」

 何度もうなずきながらそう続ける彼女の頬を、ひと筋涙がつたう。

「僕も、そう思います」

 その姿に、何とか力づけたい、彰はそう思って自分も力強くうなずいてみせて。

 会って話したのはたった二回、けれど彼はそういうことをする人間ではない、そう彰には思えたのだ。

 ……でもだとしたら、一体彼の死の理由は何なのか。

 そう疑問が浮かび上がってくるのとまたも同時に、彼女は輝いていた瞳を曇らせ、ぽつんと言った。

「でも、そうしたら、やっぱり、判らなくて。だけどそれ以上は何も知りようがなくて、ずっとその謎を抱えたまますごしてきました。でも……去年、だったか、うちの温泉地の別のホテルが、経営が変わって。元は東日本を中心にしたホテルチェーンが経営してたんですけど、苦しくなって手放して、よそに売ったんです」

 いきなり内容の変化した話に、彰はとまどった。それがどう、英一の死と繋がるのか。

「そこで同級生の母親が働いてて。子供の頃から仲良くて、家にもよく行ってたんで、おばさんとも知り合いだったんです。だけどホテルが売られた後、リストラされちゃって。友達の家でその話を聞いた時に、おばさんが言ったんです。満ちるちゃんちは良かったよねえ、あんなに借金あったのに立て直せて、て」

 彰ははっと息を呑む。

 満ちるはその様子に気づかず、暗い目でテーブルの上のすっかり冷めたココアを見つめていた。

「わたし、何のことか、全然判らなくて……それで向こうはすっかり引いちゃって、聞き出そうとしてももう何にも教えてくれなくて。ごめんごめん、満ちるちゃんまだ小学生だったからお父さん達内緒にしてたんだね、もう今は順風満帆だから気にすることないよ、て」

 だからその足で母方の祖父母の家に向かってそこで聞き出した、満ちるはそう話を続けた。

 祖父母は大層渋っていたが、食い下がる満ちるに、絶対に両親にも姉にもこれを聞いたことは言わない、という条件で、父親が昔、無謀な投資に手を出して莫大な借金をつくってしまったことを教えてくれた。だから英一は大学を続けられず、退学することになったのだと。

 それなら一体どうして今があるのか、そう問うた満ちるに、また渋々と祖父母が話してくれたことには、姉の結婚相手、すなわち彼女にとっての義兄が遠縁からかなりの遺産を相続されることになって、それで立て直せたのだ、そう教えてくれた。

 姉と義兄は同い年で、二人が学生の頃からつきあっていた。義兄は普通のサラリーマンだったけれど、英一が亡くなって一年後に婿養子に入るかたちで結婚し、旅館を継いだのだ。

 義兄は姉とは反対に温厚でもの柔らかに人と接するタイプで、結婚前から家に来る度可愛がってもらっていた満ちるは、彼のことを信頼していた。けれども。

「そもそも遠縁から凄い遺産相続、て、それもずいぶん、つくり話めいていると思いましたし……もし真実だとしたって、全額ぽんとこちらに渡してくれるなんて、いくら義兄がお人好しでも有り得ない話なんじゃないか、って。とりあえず返済して、そのお金はまた改めて義兄宛に返していく、ならまだ判るんですけど」

 満ちるの言うことはすべていちいちもっともで、彰はうなずきながら聞いた。

「そこで、思ったんです」

 相変わらず憂鬱そうなまなざしで、満ちるは一度、言葉を切った。

「兄の死は、やっぱり……自殺だったんじゃないか、て」

「え?」

「兄には保険がかかっていて、その保険金を借金に充ててほしい、そう思ったんじゃないか、と。そういう目的の為なら、兄が自殺を選ぶ可能性も無い訳ではない、って」

 彰は口をつぐんで満ちるを見て。でも、それは……どうなんだろう。

「でも、おかしいですよね」

 彼が思っていることが伝わっているかのように、満ちるはわずかに唇の端を歪めて呟く。

「子供にそんな、ものすごい額の保険、かける、って……それじゃ掛け金だって相当かかるだろうし、学生の兄がそんなお金、自腹で払ってたとも思えませんし。実際姉がまだ結婚する前とか、今のわたしだって、学生保険的なものには入ってますけど、そんなバカみたいな額が下りる保険なんて、かけてないですもの、うちの親」

 そう言うと満ちるは、どこか苦しそうにひゅっと喉を鳴らして深呼吸した。

「それからちょっとは、もしかして姉の話が本当なんじゃないか、そうも思いました。事故を隠す代わりに、相手が大金を払ったんじゃないか、て。でも……やっぱりあんまり、バカげてますよね、そんな話」

 満ちるは苦い笑みを浮かべて、どこか捨て鉢な口調でそう言うと口をつぐんで。

 そのまましばらく、テーブルの一角をじっと見つめて黙り込む。

 その顔がみるみる青ざめていくのに、彰はどきりとした。

 しかめられた眉の奥、その頭の中で今どんな思考が組み立てられているのか、それが見える気がしたのだ。

 そしてその内容に、戦慄した。

「そう考えて……考えて、考えて、たどり着いた結論が、あります」

 言わないでほしい。

 彰の胸の内の思いは届かず、彼女は言葉を続けた。

「兄は……家族に、殺されたのでは、ないか、と」

   

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