第4話 皐月・2
――笛の音がする。
部室の裏庭で、次の舞台用の室内のセットのドア枠の木を切りながら、彰はふっと顔を上げた。
やけに懐かしい、ふるぼけたような音色……ああ、これ、リコーダーだ。
「上手いね、皐月」
隣でドア本体の色をハケで塗っていた同級生も、手を止めて音の方へ顔を向けながらそう言う。
「え、これ、遠野さん?」
「うん。今度の舞台、ナマ音がさあ、欲しいんだって。部長が。それで、持ち運びできるような楽器持ってるの誰かいないか、て言ったら、あの子がリコーダーなら持ってる、て言って」
「ああ、それで……これ、何て曲?」
「ええと、あれよ、ほら……そう、
「へえ……」
メロディは知っていたけれどそんな奇妙なタイトルがついていたとは知らなかった、彰はそう思いながら音の聴こえてくる部室の方をもう一度振り仰いだ。
周囲で別の大道具の作業をしている仲間達も、手を止めて音に耳を傾けている。
「いい曲だなあ……」
「ね。リコーダーの音、合ってる。ナマ音正解ね、これ」
「そうだね」
背筋を伸ばして見上げると、陽が傾きかけた紺色の空を、烏が一羽、横切っていく。
その羽根に音が乗って更に遠くに飛んでいくような気がして、彰は胸の中がすうっと澄んでいくような心持ちを覚えた。
それは一年生も終わりに近い、後期試験の真っ最中の出来事だった。
さすがに試験中にはサークルも休ませてもらって、この時期はバイトも入れずに彰は試験に専念していた。学校から成績に応じて学費軽減の措置をもらっていたので、落とす訳にはいかない。
四時限目の試験の後に、食事をつくる時間を節約して明日の予習をしよう、と売店へと向かう。
売店のある校舎の近道にとサークル棟の脇を横切っていくと、見覚えのある人影が走り出てくるのが見えた。
――遠野さん?
立ち止まって目で行方を追うと、皐月はその隣、今はもう使われていない古いサークル棟の外付けの非常階段を、カツカツと靴音を鳴らしながら駆け上がっていく。
どうしたんだろう……?
そのどこか切羽詰まったような様子に、彰は気になってそちらに足を向けた。
鉄骨の階段の冷たい手すりに手をかけ見上げてみたが、昇り切ってしまったのか皐月の姿はもう見えない。
陽の落ち始めた、明かりの無いその階段を、彰は用心しいしい昇って。
階段の一番上は、そのまま屋上に繋がっている。
そこへ足を踏み出しかけた瞬間、「来ないで」と小さいが鋭い声がして、びくり、と彰の動きが止まった。
三メートル程先に内階段からの出入り口の段があって、その下にしゃがみ込んでいる人影が見える。
「……遠野、さん?」
その声に確かに涙の気配を聞き取って、彰は息を呑みながらそう呼びかけた。
「大丈夫だから、こっちに来ないで」
すぐに返された声は、やはり確かに涙声で、彰はどうしていいのか判らずにその場に立ち尽くす。
「あの……」
「あのね、落としちゃったの」
「え?」
何を言えばいいのかも判らずにかけた声を遮ったその言葉に、彰は面食らった。
「コンタクト。急にゴミが入って、すごく痛くて、目をこすったら落ちちゃった。それで涙が止まらないの。こっちに来たら踏んじゃうかもしれないから、御堂くん下戻ってて」
ほんの少ししゃくりあげながらもしっかりとした口調でそう話されて、彰の動揺は急速におさまって。
それと同時に、さっと頭が動き始める。
「じゃ、ここで落としたの?」
「……え?」
「踏んじゃうかも、てことは、この上に上がってきてから落としたんだよね?」
「え……え、ああ、まあ」
急にてきぱきとした口調になった彰に比べ、皐月の声は妙に曖昧な響きに変わる。
「この位置から、そこに行くまでの間に落としたんだね?」
それを全く意に介さず、彰はそう続けて。
「うん……」
「まっすぐ歩いた?」
「……多分」
「そう」
うなずいて、彰はその場にしゃがみ込んだ。
「御堂くん?」
「そこ、動かないで」
「え?」
彰はポケットから家の鍵を取り出すと、キーホルダーに付けている小さなライトを点灯した。
「御堂くん」
「コンタクトの大きさから考えて、ここからその位置まで、辺十五センチくらいのグリッドを横八マスくらいでひとつひとつつぶしていったら、踏まずに、確実に見つかるから。だから遠野さんは動かずにそこにいて」
そう言いながら、彰はセメントの上にさっと目線を走らせていく。
「御堂くん……」
「大丈夫。俺、目はいいから。心配しないで」
ライトの光を動かしながら顔を上げずにそう言うと、皐月が少し身じろぎする気配がした。
「……ごめん」
そして唐突に放たれた言葉に、彰はえ、と顔を上げる。
「ごめん、嘘」
「……えっ?」
全く事態が掴めずに素っ頓狂な声を上げてしまうと、皐月が肩を動かして大きく息をついた。
「嘘。わたしも視力、結構いいんだ」
「…………」
地面に片膝をついたまま、彰は声も出ずに皐月を見つめて。
その視線に困ったように、皐月はわずかにうつむいた。
「……泣いてる、て、思われるのが嫌で」
――どきん、と彰の心臓が大きく打った。
「あっ……」
すくっ、と立ち上がると、どうしていいのか判らずに頭をかく。
「えっ……えっと、あの、こっちこそごめん、あの……それじゃ」
我ながらしどろもどろに言葉を繋いで、とにかく一刻も早くこの場を立ち去ろう、と身を翻しかけると、
「御堂くん」
と小さい声が、その動きを止めた。
彰は一度大きく深呼吸して、覚悟を決めると相手に向き直る。
皐月はしゃがみ込んだまま、泣き笑いのような顔でこちらを見上げた。
「嘘ついて、ごめん。……良かったら話、聞いてくれる?」
今度は心臓が喉の奥からせりあがってくるような感覚を覚えつつ、彰はこくり、とうなずいた。
「……この子。
皐月の隣に並んで座って、差し出された携端の画面には、白みが強い茶色の柴犬の仔犬と、頬を寄せ合うようにして弾けるような笑顔を浮かべている五歳くらいの女の子が写っていた。
その笑顔には、はっきりと今の皐月の面影がある。
「うち、わたしが四歳の時に、父親、脱サラしてね。それまでは大手のパン会社にいたんだけど、独立して自分のパン屋、地元の石川にオープンしたの。でも当たり前だけど最初はなかなか、上手くいかなくて」
彰に向かって話す、と言うより独り言のような口調で呟きながら、皐月は手首に付けた金の細い鎖のブレスレットの青い雫型のリモコンに、規則的に指を動かした。
その度に現れる写真には、すべて先刻の柴犬の姿がある。
「両親とも夜も昼も時間を惜しんで働いて、わたしはその間、近所の父方の祖父母の家に預けられてて。引っ越してきたから近所に友達もいなくて、祖父母が気の毒に思って、この子、飼い出したの」
彰の目の前を流れる写真の中で、少しずつ仔犬も子供も成長していく。
「両親や祖父母が自分を大事に思ってくれてることは判ってたし、どっちも大好きだった。でもそれはやっぱり、子供が親を好き、て気持ちで、でもこの子はわたしにとって、対等な『親友』だったの」
中学校の制服を着て、卒業式なのか花束を持った皐月が立つ隣に、ぴたりとくっつくようにお座りしている柴犬の姿がかわいくて、相手の声のトーンにも関わらずつい彰の口元に笑みが浮かんで。
それをちらりと見て、皐月の口元にもさびしげな笑みが横切った。
「ずうっとね、こうやって、一緒に……一人で留守番できるような年になっても、この子に逢いたいからそっちに行ってね。結局散歩は毎日わたし。受験の時にはちょっと控えなさい、て言われたけど、絶対受かるから、て言って」
次は高校の入学式なのか、満開の桜が植えられた川縁で、制服を着た皐月が犬のリードを引いている。
「親と喧嘩したり、学校の友達や成績のことで悩んだり、失恋したり……そういう、他の誰にも言えないような悩みも全部、この子に話すと頭が整理されて落ち着いて考えることができた。こっちが落ち込んだり泣いたりしてるとね、ちゃんと判るんだよね。きゅうきゅう鼻鳴らして体くっつけてきて、慰めようとしてくれてるの、ちゃんと伝わるの」
言葉の最後が震えて、ぽとん、と画面の上に雫が落ちた。
彰ははっと息を呑んで、つい相手の横顔をまともに見てしまう。
頬をひと筋、涙がつたっているのに気づいているのかいないのか、皐月はただ食い入るように画面を見つめていた。
「……もう、駄目なんだって」
息をきゅっと吸い込みながら、皐月がそう呟く。
「もうね、そもそも、年だから……あちこち悪くして、最近は散歩にも行けなくて。毎日寝てる、ばっかり。それでもね、電話して、おばあちゃんに携端で顔映してもらって、声かけると、じいっと伏せて目をつぶってても、絶対起きてこっち見るの。もう目も殆ど見えないのに。名前を呼ぶとね、不思議そうに匂いかいで、鼻鳴らして……『どうして触れないの』って顔して、じいっとこっち、見てるんだ」
ぽたぽた、と立て続けに画面に落ちる涙を、彰は見下ろす。
皐月と一緒でなく犬だけが単独で写っている写真は、きっと殆どが皐月が撮ったのだろう、そう感じられた。カメラに向けられた黒くつややかに輝く瞳に、撮り手に対する全幅の信頼と愛情がはっきり、見て取れて。
「多分、今夜……明日までもつかどうか、って」
軽く鼻をすすって、皐月は端末のスイッチを切った。
いつの間にか辺りはすっかり暗くなっていて、急な暗闇に彰はとまどう。
「……判ってるんだ、帰ればいいって」
その闇の中から、皐月の硬い声がする。
「試験なんか放り出して帰る。それが絶対、人として正しいって判ってる。でも」
すぐ隣にいる筈なのに、その声は何故かひどく遠いところから聞こえる気がする。
「明日の一限のテスト、絶対、落とせない。あの先生、試験出なきゃ絶対に単位くれないから。そしたら学費軽減、なくなっちゃうから」
彰は暗闇の中で目を見開いた。
うすぼんやりと、相手の輪郭が見えてくる。
「高校に入ってから、父さんしばらく、体壊してた時期があって。今はもうすっかりいいんだけど、その間お店は休まなくちゃいけなかったから。受験の時は、二人とももう大丈夫だから学費のことは心配しなくていい、て言ってたけど、それでもやっぱり、軽減の話した時にはほっとした顔してて」
暗さに慣れてきた視界の中で、長いため息をついて髪を耳にかける皐月の横顔。
「夜行バス、行きはあるけど、帰り、一限に間に合うのは無くて……だから、無理。帰れない」
一度きゅっと唇を噛み締めると、皐月は両膝の上に額を落とした。
「あんなに、待ってるのに、帰れない。……わたし、ひとでなしだ」
その言葉と同時に、彰はすくっと立ち上がった。
「行こう」
「……え?」
目の前に立った彰を、皐月はどこかぼんやりとした瞳で見上げる。
彰はさっと腕時計を見た。
「すぐ行こう。石川のどこ? 住所、判るよね?」
「え、え……」
「駅前のレンタカー屋で車借りて行こう。それで、一限に間に合うように帰ればいいよ」
「あの、御堂くん」
てきぱきと語る彰に、皐月は混乱しきったまなざしと声を向けて。
「何言って……無理だよ、そんな」
「え、どうして?」
一方、相手の言葉の意味が全く判らず、彰はきょとんと目を丸くする。
「今五時だから、石川のどこかにもよるけど、日付変わる前には着けるよ」
まるで当たり前のようにそう話す彰に、皐月は片手を振った。
「だって、そんな……そもそもわたし、免許持ってないもの」
「ああ」
なんだ、自分で行くつもりだったのか、と彰は得心して大きくうなずく。
「運転は俺がするから」
「……え?」
皐月の声が一オクターブは跳ね上がる。
その意味を、彰は自分の運転に対してだと取った。
「いや、大丈夫。大丈夫だから。免許取ったの高校の時だし、大学入ってからずっと、配達のバイトで運転してるし。それに最近の車の自動制御、すごく性能よくて。居眠りしたら起こしてくれるし、めったなことでは事故らないし、心配しないで」
「あの、そうじゃなくって」
「そうじゃなくって……どうして御堂くんが、そんなことしてくれるの」
「えっ?」
彰としては全く思ってもみなかった相手の言葉に、軽くのけぞる。どうして、て、そんなこと、当たり前なのに。
「だって、これが最適解でしょ?」
「え?」
「だって遠野さんは今夜中に絶対にその子に逢わなきゃ。で、絶対に明日の一限のテストも受ける。バスや電車では無理。車しかない。遠野さんは無免許だけど、俺は免許持ちで、運転も慣れてる。そしたらこれが、最適解じゃない?」
「だってそれじゃ、御堂くんにあんまり負担が」
「多分向こうに数時間はいられる。その間仮眠させて。俺、明日は試験、二限目からだから、遠野さん送った後も少し寝られるし。遠野さんは移動中に寝ればいいでしょ」
「…………」
もはやすっかり言葉を失った様子で、皐月はただただ、彰を見上げる。
その視線に気づかず、彰はもう一度時計に目をやった。
「ああもう、時間もったいないよ。早く」
焦る気持ちも手伝って、そう言いながら無意識に差し出した手を、皐月は数秒見つめて、そうっとそこに指を乗せる。
そのひいやりとした手触りに、彰ははっと我に返って一瞬で顔が熱くなるのを感じた。
ゆっくりと相手の指に力が入って、手が握られる。
更に爆発的に頬に血がのぼるのを感じながら、彰はそれを隠そうと、ぐい、と殊更に勢いよく相手の体を引っ張り上げて。
きちんと立ち上がったのを確認して、ぱっと手を離す。
「御堂くん」
恥ずかしくて相手の方を向けずにいると、皐月が腰から体を折って、深々と頭を下げた。
「ありがとう。……どうか、よろしくお願いします」
その姿にと胸を突かれて、彰はのぼった血が一瞬で下がるのを感じる。
それと同時に、さっと頭が切り替わった。
「うん、任せて。……行こう」
車を借りて、高速に乗る前にコンビニに寄って、運転しながらでも食べられるようなパンとかコーヒーを買い込むと、レジ前で皐月がカゴを奪うようにして「ここはわたしが払う」と言ってきた。
「え、いいのに」
財布を出そうとしていた彰が面食らって言うと、それを防ぐようにレジに立ちながら、皐月は強く首を振る。
「駄目。……あと、ごめん、レンタカーとか高速とかガソリン代とか、分割払いでもいいかな」
「ええ……別に、それもいいのに」
本当に何のてらいも無く、素でそう言うと、店員から袋を受け取って歩き出しながら皐月が大きな目を更にまん丸くして彰を見た。
「なんでそうなるの。そんなのおかしいでしょ」
「いや、だって……今俺、お金結構余裕あるし。年末年始、て荷物多い割に配達入りたがらない人多いから、手当、いつもより付くんだよ。かなり儲けたよ」
それにそもそも、学費以外にはいざという時しか手をつけない、と決めてある親の遺産があるし、と彰は内心で思う。どう考えても、間違いなく今は「いざ」と呼ぶべき時だ。
「いやだから、そういうことじゃなくって……」
どこか呆れたような口調で言いながら、ごくわずかにくすんと皐月の唇の端に笑みが漏れたのに、彰はほっと嬉しくなる。一体相手が何を気にしているのかはよく判らないが、今日初めて笑ってくれた、それがたまらなく嬉しかった。
「……まあもういいや。とにかく払うから」
「いいのになあ」
「御堂くん、変わってる」
車に乗って、袋から彰のコーヒーを出して手渡しながら、やはり呆れ声で皐月が言った。
「え? どこが?」
「全部。……大体年末年始、ずっとバイトって、家帰らなかったの?」
「ああ、俺、実家無いもの」
「え?」
「親死んだから。中学の時は叔父さんちにいたけど、叔父さん達、仕事でアメリカ行っちゃって」
エンジンをかけて車をスタートさせながら、彰は相手の様子に全く気づかないまま、何気無しに続けて。
「高校の時は寮だったから、年末年始は宏志の家にいたんだよ。……あ、宏志んち、知ってる? 飯屋なんだけど。まだ行ったことなかったよね、今度皆で行こうよ。どの定食にも豚汁付いてくるんだけど、それがすごく美味いんだよ」
「――ごめん」
すっかり陽気に話していたのに、突然隣からひどく重たい響きの声がして、彰は意表を突かれた。
運転しながらも急いでちらりと横目で見ると、膝の上に紅茶のボトルを置いたまま、皐月が硬い目をしてうつむいている。
「え、ええっ、何……あっ、もしかして遠野さん、豚汁嫌い?」
相手のその態度の理由が咄嗟には判らなくて、けれど次の瞬間、はたと思いついてそう言うと、皐月がばっと顔を上げてこちらを見た。
その瞳は、また先刻のようにまん丸に見開かれている。
そのまなざしに、彰は自分でも理由が判らないまま更に慌てた。
「あっ、やっぱり? ああ、あの、確かあるよ、普通のみそ汁とかお吸い物とか、そういうのも。……ああ、えーと、うん、確かに、若い女の子が行くような店じゃないけど……でもね、ほんと美味いんだよ、宏志んち」
必死に言葉を繋ぐと、皐月がぱちぱち、と音がしそうな程大きく瞬きをして、それから軽く背を折って吹き出した。
「ええっ……」
「……もう、ほんと……もう、御堂くんて、ほんと」
あたふたしている彰を尻目に、皐月はひとしきり声を上げて笑って。
顔を上げると指先で目尻の雫を拭って、にっこり、と、唇の端まではっきりとした笑みを浮かべる。
「ほんと、変わってる」
その泣き笑いのような笑顔に、彰は勝手に、頬にぱあっと血がのぼってくるのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます