第3話 スーツ
彰があのチラシを見てから、二週間程が経っていた。
『パンドラ』を利用するには、思ったよりもあれこれと手続きが必要だった。
名前や連絡先は勿論としても、身分証明の提出、更には利用の前に説明会に参加した上で、健康診断などを含めた審査に通って初めて利用可能となるのだそうだ。
少し気持ちが尻込みしかかったが、彰はぐっと息を詰め、「申込」のボタンを押した。一体どれだけの人がやってくるのかは知らないが、事前にきちんと説明を聞ける、というのはむしろ助かることだ、そう自分に言い聞かせる。
『パンドラ』の仮想空間、更にはその根本の仮想市街のあるサーバーが日本のどこにあるのか、ということは機密事項で判らなかったが、『パンドラ』に接続する為のアクセスポイントは政令指定都市を中心に、日本の各地に点在していた。
説明会はアクセスポイントとは別に、更に多くの地点で開催されているようで、彰は家から一番近かった星付きホテルのそれを選ぶ。
当日の前の晩は、薬を飲んでいたのに殆ど眠れなかった。
ここ数ヶ月、いや、もう何年も感じたことのない、気持ちの激しい高ぶりを覚える。
服を着替えながら、緊張で心臓がどくどく波打っているのが自分で判った。この感じ、就活の面接の前以来だ、と一瞬思って、いや、違う、と思い直す。
皐月にプロポーズするんだ、そう自分で決めた、その日の朝も、こんな風だった。
ずきり、と胸に直接的な痛みが響いて、その感覚があまりに久しぶり過ぎて、妙な懐かしさすら感じる。
彰は大きく深呼吸して、ネクタイを首に巻いた。
アトラクションの説明会にスーツ、というのもどうかと思ったけれど、あれからいろいろネットを検索するに、利用する為の審査にはあれこれ条件がある、という噂を読んだのだ。
『パンドラ』で一般の人々に仮想空間を提供しているのには二つの大きな理由があって、一つはそもそもの仮想市街空間の研究費用の捻出、そしてもう一つは『パンドラ』内での人々の行動や反応を研究に利用する為だった。
無論、本当に遠い将来的には、どんな人でも無条件に利用できるような仮想空間を維持していく必要がある。だが今の段階で、あまりイレギュラーな要素を空間内に取り込みたくない、と機関は考えているようだった。
また、仮想空間を利用することによって、利用した人間側にも何がしかの影響が出る可能性はゼロではなく、肉体的に健康かは当然のこととして、精神的に問題があっても許可が下りない、そんな噂がネットではまことしやかに囁かれていた。
そういう意味では、精神的に病みかけて休職している自分は審査に通る可能性がかなり低い気がして、せめて身なりだけでもきっちりしておこう、そう思ったのだ。
ジャケットを羽織ると、彰はもう一度深呼吸して、家を出た。
会場はそれ程広くないホテルの会議室だった。
入り口で端末の申込画面を見せると、名札とパンフレットを渡される。
「会場内では端末はご使用いただけませんのでご了承ください」
受付のスーツの女性にそう言われ、うなずいて耳のリモコンと手の中の端末を鞄にしまい込む。コンサートや映画館でも、端末の撮影機能やネット接続がジャミングされるのは今時普通のことだった。
開始時刻の十分前だったが、二十数名程の席の大半はもう埋まっていた。
座る場所はどこでも構わない、と言われたので、まだ空いていた真ん中の後ろに近い席に腰をおろす。
そもそも未成年は申し込めないこともあって、座っている多くは三十代、それからもう少し上の世代ばかりだった。意外なことに、カップルらしき男女や友達同士で来ているらしき人も多く、一人なのは彰を含めても半数以下だ。スーツを着ているのは彰しかいない。
さすがにスーツは大げさだったかな、そう思いながらひとつ息をついてパンフレットをぱらぱらとめくってみる。
末尾のページに、「以下のような方にはご体験をお断りしております」という但し書きがあるのを見て、軽く身を乗り出した。
・二十歳未満の方
・妊婦の方
・生理中の方
・心臓疾患をお持ちの方
・血圧に異常のある方
・重篤な呼吸器疾患をお持ちの方
・体内に精密機械を埋め込まれている方
・閉所恐怖症の方
・その他、特定の持病をお持ちの方
・健康診断の基準値を満たされなかった方
・前回『パンドラ』を利用されて後、七日未満の方
・以前に『パンドラ』内にて行動規範に違反する行動をとられた方
――その十二項目を見返しながら、この「特定の持病」に精神的なものも含まれるのか、「健康診断」の中に性格テストも入っているのか、そんなことを彰は考える。それ以外については自分は特に問題はないのだが。
それにしても、「行動規範」とは果たしてどのようなものなのか、そう思って他のページにも目を走らせようとすると、辺りが少しざわっとして、はっと目を上げると明るい薄めのグリーンのスーツを着た背の高い女性と、落ち着いた深い紺色のスーツの男性とが壇上に上がってきていた。
「皆さん、本日は『パンドラ』説明会にお越しいただきありがとうございます」
「本日は約三十分程をかけまして、『パンドラ』について説明をいたします。その後、ご体験を希望される方には残っていただき、ご登録と健康診断のご予約をお願いいたします。すべてが終了するのは午後二時頃となる予定です」
彰を含め、全員が小さくうなずくのを見渡して確認すると、箕輪は会場の後ろにいた女性に向けて軽く手を挙げる。
すると会場が暗くなって、正面に映像が映し出された。
『――それでは「パンドラ」の中で皆さんがどんな体験ができるのかをご説明いたしましょう!』
明るい女性の声と音楽と共に、美しく夕陽に照らされた山や青く輝く湖の空撮映像が幾つも画面を流れていく。
その説明の多くは、先日チラシのコードから再生した動画のものと重なってはいたが、彰は改めて熱心にそれを聞いた。
『パンドラ』には三つのバカンスゾーンが用意されている。
一つは山のリゾート、そして空のリゾート、もう一つは夜のリゾートだ。
山のリゾートはアルプスをモデルとした登山や鉄道の旅が楽しめる。
空のリゾートは、ハンググライダー、パラグライダー、スカイダイビング、バンジージャンプなどのいわゆるスカイスポーツを楽しむことができる空間だ。
夜のリゾートは、カジノを中心とした、クラブやバーなどの夜の遊びが楽しめる街となっている。
『「パンドラ」でのご体験なら、高山病や悪天候、次の日の筋肉痛の心配も無ければ、空のスポーツでの事故の不安、カジノで大損をしたりバーで思いも寄らぬ高額料金の請求をされたり、ひどい二日酔いに苦しんだりすることもありません。すべてがリアルでそれでいてリアルなリスクはゼロ、それが「パンドラ」のリゾートの最大の利点です』
自信に満ちた笑顔を浮かべて、画面の中で女性は続ける。
『「パンドラ」にアクセスいただく際には、このような専用カプセルの中にお入りいただくこととなります』
画面の中には繭のような形をした大きなカプセルがあって、そこに全身にぴったりとした黒地に青いラインの入ったタイツをまとった別の女性が笑顔で横たわり、目元をコードの通ったアイマスクで覆い、口と鼻に薄く透明なマスクを装着した。髪はやはりぴったりとした水泳帽のようなもので覆われていて、耳にはヘッドホンのような機械、額と手首・足首には何かのコードが繋がれている。
蓋が閉まると、中の様子がCGで表示された。
『このカプセルはいわゆるフローティング・タンクとなっていて、当研究所が開発した安全な液体で満たされることにより、外部との感覚遮断を行い「パンドラ」へのアクセスをより快適なものにいたします。勿論、酸素マスクにより呼吸には全く問題はございませんのでご安心ください』
言葉と共に、カプセルの断面図の画像内に液体が満たされ、そこに描かれた女性の体がぷかりと浮いた。
『「パンドラ」でのご体験は、基本的に二時間弱となります。ですがその間、皆様が「パンドラ」内で体感される時間は約三倍の六時間。ゆっくりとリゾートをお楽しみいただけます』
彰は説明を聞きながらパンフレットをめくってみた。外部での実時間と『パンドラ』内での体感時間が異なることは、そこにも記載されている。
『「パンドラ」内でどんなことが可能か、それはぜひ皆様が実際にご体験ください。今後の研究が進むことで、「パンドラ」での楽しみ方はより広く、より深く広がっていくこととなるでしょう。その一歩にぜひ皆様のご参加とご協力を!』
音楽が終わって映像は消え、会場内が明るくなった。
ぱらぱら、と聴衆からまばらに拍手が起きたのに、彰も慌てて小さく手を叩いて。
「ありがとうございました」
箕輪と丹下が壇上に戻ってきてぺこりと頭を下げる。
「それでは、先程の映像をご覧になって、『パンドラ』ご体験を希望されるお客様は、このままお席にお残りください。なお、料金につきましてはサイトに記載された通りですが、お手元のパンフレットにも料金表の用紙が挟んでありますので今一度ご確認ください。ご体験を希望なさらない方はご退出いただいて結構です」
箕輪の淡々とした説明に、皆一斉にパンフレットをめくって。
既にサイトはチェック済だったが、彰も念の為もう一度それを見た。
一回の利用料金はちょっとしたレストランでお酒抜きでディナーを食べるくらいの値段で、初回はそれに保険金と装備代が上乗せされている。ただ、今回は一周年記念キャンペーンとかで、かなりの割引き価格となっていた。
二度目以降の利用には回数券を使用することもできる。三回セットで、本来の金額の二割引程度の価格のようで、それもキャンペーンで更に値引きになるらしい。
果たして自分は何回利用することになるのだろう、彰はそう考えて少し気が滅入るのを感じた。
会場には彰を含めて、七割程の人数が残った。それが主催者側が思っていたより多いのか少ないのか、彰には判らない。
「それでは、ただいまより配布します電子ペーパーに必要事項をご記入ください。末尾にアンケートがございますので、よろしければご協力お願いします」
手元に配られたそれに画面の指示通り名札を当てると、説明会の申し込みの時に申告していた名前や連絡先や生年月日が自動入力される。彰はそれに、付属のペンで健康診断の受診場所や日付の希望、アクセスポイント場所の希望などについて記入していった。
すべての項目を埋めて右下の端の『次へ』ボタンをペン先でクリックすると、アンケートが現れる。
性別や職業、それから独身か既婚かの問いに、彰は一瞬ペンを止め、少し考えてから「独身」をクリックする。
『パンドラ』のことをどこで知ったか、三つの中で最も体験してみたいゾーンはどれか、などの一般的なアンケートによくある問いに答えていって、最後の問いでまた手が止まった。
息の音が深くなるのを耳の裏で感じながら、彰はじっとその質問を見つめる。
――七年前に実施された『仮想都市開発プロジェクト』の実験に
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