降る雪、殺意は溶けて

伊藤正博(イトウマサヒロ)

降る雪、殺意は溶けて

 降り積もる殺意は雪にも似た冷たき視線、だった――

 僕の家柄はいわゆる大富豪ってやつで、祖父が石油を掘り当てたときから大金持ちになったと話に訊いている。僕と君はご主人様と奴隷の中だったね。本来ならこうして一緒に歩くことは許されないけれど今日は特別だった。

 屋敷の庭園をしばらく歩きまるで、そう僕たちはデートしているみたいに手をつないで歩いていた。庭園の広場に来たとき、さり気なく、なお夢中で隣にいる君に雪を投げつけた。雪の結晶はきめ細かく見えないが君からは殺意の結晶が感覚として伝わってきてきたので二メートルほど素早く後ろに離れた。雪が積もった木花からときおりドサッと雪の塊が地面におちた。

「君が、父と母を殺して五日たつね。気分はどうだい?」

「ご主人様。とってもいい気分です」

「そっか、それはよかった」、僕がそう言ったのも必然で、君は奴隷としてこの家に招き入れられて、奴隷として育ち、奴隷として父の格好の玩具にされていた。

 真冬の寒い日だったけど握りしめた手には汗がにじみ出ていて、その緊迫感が脳裏に伝わってくる。それはまるで巨大な蛇にでも睨まれた気分だった。

 自分の体内時間でそう感じていたかもしれない。正確には時間を計っていないけどそれは二・三秒ほどの事であって決して長くはない時間。けれども僕にはとても長い時間に思えて仕方がない。たった二・三秒で何ができたのだろうか――僕の腹部に尖った金属が刺さった。ナイフ、だ。僕は腹部を見下ろして額からは冷や汗がにじみ出ていた。

 案の定、君はナイフで僕を刺してきた。僕は、『いつか殺される』と、妙に確信めいていて君が誘う時はいつも服の下に本を隠し持っていた。

 雪は降りやまぬまま、積もった雪は深紅に染まっていくのが見てとれた。殺意が加速していく中で、降る雪、殺意は結晶という言葉が僕の心に浮かんでは消えていく。

 具体的には言えないけど、僕は昔から君の近くにいて当たり前のように接してきた。毎日顔を合わせるたびに憎悪が芽生えてきていたのかな。正直、僕は君のことを愛していたのだけれど、君は僕が憎くて仕方なかったんだね――そりゃあ奴隷として生まれて、奴隷として育てられて、奴隷として性的な虐待をされてきた君が僕を愛してくれるわけもないかな。こうやって殺す機会を伺っていたんだね。

「……最後に言うよ。君は僕の宝物だよ」

「……嘘つき。そうやってまたあたしをたぶらかして! 取って食おうなんてさせないんだから」

「信じてくれ、僕は君をお嫁さんにしてもいいくらいだ」

「嘘よ。嘘、嘘。みんなでたらめよ!」

 一面に銀世界が広がる中で君は両手を頭に添えて首を横に振った。ライトが僕たちを照らしてそこだけがまるで別の空間に足を踏み入れたかのように時間の流れが遅く感じられた。コートは着ているけれど北風が体を凍えさせた。僕は君の身体をそっと抱き寄せた。君は僕を押しのけようとしたけど男の力にかなうはずもなく、ギュッと僕の腕に抱かれたね。

「君の体はこんなにも柔らかかったんだ?」

「なんで、なんで死なないの?」

 君はナイフをさらに奥まで突き刺してきて本当に刃先が僕の腹部を貫いた。

 頬をくっ付け合って涙が伝うのがわかった。痛みなんて関係がない。今まで気がつかなかった君の本当の温もりが伝わってきて僕は嬉しい。天国にもいるわけじゃなく地獄にいるわけでもなく、嬉しさと苦痛を同時に味わっていた。僕は君の唇をそっと奪った。

 感じ取る君の甘酸っぱいもの。君も今この甘酸っぱいものを感じ取っているのかな。思えば君が屋敷に来たのは、僕がうーんと幼い頃だったね。君も幼かった。父に買われたんだね。小さい頃、君の泣き叫ぶ声に起きて父の部屋を覗いたとき、父が君にしていた性的な虐待を見ていたんだ。

「……ごめん。何もしてやれなかった」

「嘘つき。大嫌い」

 降る雪、殺意の結晶は解けていく。この日、君が初めて微笑んだ。だがそれもたった一秒程度で、またすぐに眉間にシワを寄せてその表情はまるで般若の面のように悲しかった。君がどれだけ苦しかったのかはわからないけど、今の僕が味わっている痛みに似たものだろうか?

 降り続く雪が君の頭や肩に振り舞うたびに僕の腹部から流れる血液は地面にぽたぽたと落ちていく。感覚は次第にしびれにもよく似たマヒ状態と化していく。君はもう一つの隠し持っていたナイフを自分の腹部に刺した。僕の一家を殺して自分も死ぬ気だったのだろう。憶測はゆるぎなく脳裏全体をオーラが包み込む感じだった。

 どっと地面に倒れ込み僕と君はしばらく、そう、しばらくほんの小さな微笑をうかべてお互いの手を取り合いゆるく握りしめた。性的に虐待されていた君を見て見ぬふりをしていた僕をどうして今まで殺さなかったのかと僕は君の横顔を見る。そして君も僕の顔を見つめて、

「……ご主人様一週間前の誕生パーティーのとき、なぜあたしを犯さなかったのですか? その為にあなたは旦那様から酷く暴行をうけて――」

「……君がかわいそうだった。でも僕のやったことは善意じゃなく、偽善なんだ」

「あたしが旦那様に酷く鞭打たれたときに助けに入ってこられたときもですか?」

「ああ、偽善だよ。愛という偽善なんだよ。いつしか、そう、君が僕に花束を持ってきたときから。君の香りがとてもよく、君のブロンドの髪がとても美しく、君の瞳はまるで海みたいにブルーで宝石みたいに輝いて、そう君が愛おしかった」

「あの時はお互いにまだ一三歳という年頃で、あたしは貴方に旦那さまの命令でしかお近づきになれなかった。貴方のそのブラウンの瞳も素敵です」

「ありがとう。僕たちはきっと地獄に行くんだろうね」

「いいえ、あたしは天国に行くんだともいます。『不幸の者は幸いである。彼らは皆、天に迎え入れられるだろう』聖書の言葉です」

「そうか、『裕福なものは災いである。彼らは皆、地獄に落とされるだろう』か――」

「はい。最後にわがままを聞いてくれますか?」

「いいよ、何でも言ってごらんなさい」

「では、あたしを奴隷、ではなく名前を付けてください、ボレス様」

「シンデレラ、かな?」

「ありがとうございます。私は奴隷で、灰かぶりです」

「シンデレラ。おとぎ話のように幸せになってくれよ。僕は地獄にいくよ」

 君は、にこにこしながら立ちあがったね。あらかじめ用意していたビックリナイフを使って、服の下の血のりをたらしてあたかも自分の腹を刺したかのようにみせかけたんだ。そして僕は目をつむり死んだふりをした。

「無駄ですよ、ボレス様。死んだふりなんておやめになってくださいな。知っています。あたしに殺されまいと服の下に本を隠していたのでしょう」

 目を開けると君は立ちあがって自分の胸を本物のナイフで突き刺した。流れる血は僕の顔にかかり生温かかった。口に入った血の味は美味しくなかったけど、君の血の味を深く味わった。愛が故になのかは自分でもわからずに、ね。

 ドサッと僕に覆いかぶさるようにして倒れ込んできた。僕は君の体を抱きしめ何度も君の名を呼んだんだ。でも、もう目を開けてくれることはなかった。君の復讐はこれで終わったのかな――僕は君の体をどけるとナイフにこれでもかと指紋を付けた。

 わかりきっている。こんなことしても僕が真犯人じゃないってこと警察は詳しく調査して、別の罪に問われるってことぐらい承知の上だった。でも、君の代わりになりたかった。父や母が殺害されたからって構やしない。そもそも僕は父や母を心底憎んでいたし。

 だって僕をしつけという体罰で虐待していた両親なんだ。自由はなかった。鞭で何回も叩かれたこともある。君は知らないだろうけどさ、僕の体はその時うけた傷の痕が残っているんだ。これをみたら君はおそらく耐え難いだろうからあのとき僕は君を抱くことはなかったんだ。ね、偽善だろう。

 お互いどこで人生をやり直したらいいのだろう。この先に待っているのは偽りでしかないのかもしれない。だからせめて地獄に行ったとき、降る雪、殺意の結晶は優しく溶けてほしい。

 それと本当に君を愛していた、「幸せにする」の一言がなかなかいえなかった。僕に勇気があったなら、僕に力があったなら君は僕の一家を殺害しなくてすんだのに。君は死ななくてもすんだのに。だから罪を償ったならば、またここに戻ってきてほしい。僕の愛しきシンデレラ――いつか生まれ変わったらその時は君をもう一度抱きしめたい。その時は、「必ず幸せにする」から、ね。

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降る雪、殺意は溶けて 伊藤正博(イトウマサヒロ) @ifuji-masa-0

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