第13話
――夜の森は、月明かりさえ届かない漆黒に包まれた世界だった。
その暗闇は僕の心をじわりじわりと恐怖に染め上げ、言い様の無い不安に押し潰されそうになる。
電灯代わりに手にしたスマホの明かりも頼りなく、足元を僅かに照らすだけで一寸先すら伺えない。
先を行く、微かに聞こえる先輩の息遣いだけが唯一頼れる確かな存在だった。
「も、もう帰りましょうよ」
日は完全に落ち、足元の覚束ない獣道を僕らは歩き続けていた。
そんな僕の声が聞こえていないかの様子で、彼女は何かに魅入られたように森の奥へと進んで行く。
その先に待ち受けている物が、どれだけ恐ろしいモノなのか。
考える度に、今すぐにでも逃げ出したくなった。
「痛ッ!」
ふいに、前方から小さな悲鳴が上がる。
「大丈夫ですか?!」
すぐに駆け寄ると、彼女は尻餅をついていた。
剥き出しになっている足の先からは僅かに流血しているのが見える。
何かに引っ掛けたのだろうか。
「――っ!大丈夫よ。先へ行きましょう」
誤魔化すように言って立ち上がると、痛そうに足を引き摺りながらも尚進もうとする。
そんな先輩の腕を、僕は引き止めた。
「――いい加減にして下さい」
「な、なによ」
彼女はバツの悪そうに目線を合せようとせず、そっぽを向いたままだ。
その態度に、僕は思わず語気を荒げてしまう。
「何なんですか、何でそこまでするんですか?!」
限界だった。
僕じゃない、彼女がだ。
掴んだ腕は酷く傷だらけで、衣服も所々が破れ土に塗れている。
こんな軽装で山道を歩き続けるなんて、自殺行為だ。
叫んだ僕の声が森に木霊する。
その音が消えるのを待って、先輩はゆっくりと口を開いた。
「――うるさい」
「は?」
彼女が溢した声は上手く聞き取れなかった。
腕は僅かに震え、俯きながら口の中で何かを反芻している。
「な、なんですか」
再び尋ねると、彼女は突然勢いよく首を上げた。
「う"るさい五月蝿ぁああああいいッ!!!」
眦を吊り上げ、絶叫する先輩。
その裂帛の声が、僕の鼓膜を容赦無く劈く。
「何なんだって、それはこっちのセリフでしょうがッ!!勝手に入部してきて、勝手に絶望してっ!それなら最初から関わらなければ良かったじゃない!!」
至近距離からの糾弾に、思わず目を瞑った僕へと先輩は更に畳み掛かる。
「たった数回でお化けの本質を決めつけて、目を逸らして、挙句一人で落ち込んで!!あんたが私と同じものを好きだと思ったから、こうして連れ回してあげてるのに!何でいつも文句ばっかり言うのっ!?」
――その言葉に、僕はハッとさせられた。
そうだ、僕は自ら進んでお化け研究部に入ったんじゃないのか?
得体の知れない存在に真っ直ぐ向き合い、全力でぶつかり、問題を簡単に解決してしまう先輩に憧れて。
そんな彼女と行動を共にしたいと言い出したのは、他でもない僕じゃないか。
癇癪を起こすように感情をぶつけてきた先輩は、目尻に涙を湛えて歯を食い縛ったまま僕を睨んでいる。
その小さな身体は僅かに震え、何かを必死で伝えようとしていた。
――――僕はバカだ。大馬鹿だ。
先輩はただ、自分の好きなものを誰かと共有したかっただけなんだ。
大人びた発言が多いから勘違いしていた。
先輩だってまだ、僕と同じ子供なんだ。
そんな事にすら気付けなかった自分に殆呆れ果てる。
僕だって、"唯一同じモノが見える友人"が気落ちしていたら、元気を取り戻してほしいと思うに違いない。
彼女にしても、そう思っていただけなんだろう。
――結論に辿り着くと、今の状況が何だかおかしくなって思わず笑ってしまった。
「な、なに笑ってるのよ」
「いやっ、す、すみません」
場違いにもお腹を抱えて笑いだした僕に先輩は目を白黒とさせたが、やがて何かを察したように口元を綻ばせた。
――自由奔放で、賢くて、どこか子供っぽい。
それでいて根がとても優しい先輩に、僕はこれからも着いていこうと静かに心の中で誓った。
「先輩」
「……なに?」
そうして僕は、先程伝えられなかった言葉を彼女に贈る。
――――ありがとうございます
その言葉を聞いて、涙で腫らした瞼を一度だけ擦ると、先輩は意地の悪そうな笑みを満面に浮かべたのだった。
※※※※※※
「ちょ、ちょっと。変な所触らないでよ」
「す、すみません!!」
先輩の腕を肩に回して、懲りない僕らは引き返す事をしなかった。
先程のやり取りがお互い気恥ずかしく、口数は少なかったが心は何か温かな物で満たされていた。
本音をぶつけ合って、心の擦り合わせが出来る。
そんな友人が出来た事が、本当に嬉しかったから。
全身泥まみれでボロボロになりながらも、僕らは支え合って先へと進む。
幸いスマホのGPSは機能しており、現在地は把握できた。
獣道とはいえ、微かに人の通った跡が残されているのもまた幸いだろう。
遭難するか否かを考えるのは、この先に待ち受けているであろう得体の知れない何かの正体を突き止めてからだ。
「先輩、見てください」
指した先からは一縷の光。
鬱蒼とした森の、その出口がついに現れた。
逸る気持ちを抑えて光の差す方へと進むと、僕らの視界は急に開かれる。
――――――――――――
すぐ隣で息を飲む音が聞こえた。
それは僕も同じだった。
――――視界一杯に広がったのは、満月の明かりに照らされて、幻想的な淡い光を放つ白い花の群生。
すぐ脇を通り抜けた心地よい風が、その穂を揺らす。
――崖の先まで続く儚い景色に、僕は暫くの間見惚れてしまった。
「先輩……」
「――シッ、」
呼び掛けた僕に向かって、彼女は口元に人差し指を当てる。
再び崖の先へ向けた先輩の視線を追うと、そこには森の入り口で見た何者かの人影が立っていた。
少し怯んだが、それは佇むだけで危害を加えてくる気配はない。
それどころか、まるでこちらの存在に気が付いていない様子だった。
「あれは、死の瞬間に肉体から放たれた記憶の残滓ね。生前に強く思い残す事があると、その思念が単体で此の世に留まり続ける事がある」
只それだけの存在よ、と先輩は何処か寂しげな表情で言う。
影は崖の淵までゆっくりと移動すると、再び停止する。
何をするのかと見守っていると、少し離れた場所からもう一体の人影がゆらりと現れた。
「――――っ!」
突然の出来事に軽く悲鳴を上げそうになって口元を抑える。
一体いつからそこに居たのか、姿を現わすその瞬間まで気が付かなかった。
現れたもう一体の影は、崖の淵に佇む人影に向かってゆっくりと浮遊して移動する。
そうして二つの影は、寄り添うようにして重なった。
それはまるで恋人同士の様に見えた。
もしかしたら生前、本当にそんな関係だったのかもしれない。
揺れる白い花畑の上で暫くそうしていた二つの影は、やがて満月の光に溶けるように薄らいでいく。
――――その最期には、崖の向こう側へと歩を進めて。
一連の流れを見守っていた僕らは、やがて同時に深い溜息を吐いてその場に座り込む。
この場所で何があったのか、二人はどうなったのか、僕らにそれを知る術は無い。
写真を切り抜いたような、哀しくも幻想的なその光景を僕は目に焼き付けるようにいつまでも眺めていた。
「綺麗な景色ね」
先輩は静かに呟く。
「そうですね」
僕はそれだけ返事をして、もう暫くの間余韻に浸っていたのだった。
※※※※※※
――後日。
いつも通り部室へとやって来た僕は、爆睡している先輩の脇に苺ミルクの缶を置いてPCデスクへと座る。
おば研の下っ端である僕は、そんな上司に文句を言う事もできずに今日も仕事に励むのだ。
内容はいつも通り、怖い話の蒐集だ。
作業を進めていると、ふいにこの間見た景色を思い出した。
――そういえば、あの花は何だったんだろう?
一度気になってしまったら、仕事は手につかない。
僕は誰に言い訳をするでもなく、キーボードを打って検索する。
――――――白くて、小さな、あの花の名前
―――そして、その花言葉は
『追想の愛』
第3章 ハルジオン 完結
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