第3章 ハルジオン
第11話
――諦め悪く開け放った窓から吹く風は、少しの涼しさも僕に齎してはくれなかった。
それは排気ガスと生ゴミが混ざったような悪臭を微かに運んで来るだけで、気分は益々悪くなるばかりだ。
今の時代にエアコンすら無いというのもどうかと思うが、贅沢は言ってられない。
本来であれば家賃の半分はバイトでもして自分が負担しなければならないのに、親の脛を干し肉か何かと勘違いしている僕はそれに何時までも嚙り付いていた。
文句の一つでも溢せば即勘当だろう。
「……ワ"レ"ワ"レ"ハ"〜"未"来"人"ダ"ア"ア"」
「宇宙人ではないんですか……」
肩を露出した淡いピンク色のシャツに、水色のホットパンツという涼しげな格好の先輩はダルそうに扇風機に向かって話し掛けている。
僕のツッコミに眉を顰めてこちらを見た先輩は、ポケットからガラケーを取り出すと何やら打ち始めた。
少しの間も無く、僕のスマホが振動する。
『宇宙人は、声帯の退化した未来人』
……呼吸をするように皮肉を撒き散らす人だな。
そのメールを読んだ僕の反応に満足した様子で、先輩はツインテールに結んだ栗色の長い髪を再び風にそよがせた。
「どうして家に来たんですか」
「暇だったから」
その何度目かになるやり取りを繰り返して、僕は溜息を吐く。
先輩の考えている事は未だによくわからない。
それはまるで、燦然と降り注ぐ日射しに隠された真昼の星の如くだった。
「もういいです、わかりました」
諦めて台所へ向かう。
洗ったばかりの二つのコップに、冷蔵庫から取り出した紙パックのコーヒーを注いだ。
もちろん、砂糖など入れずに。
無言で差し出したそれを見て先輩は分かりやすく顔を顰めると、それでもチビチビと口を付けて僕を睨んだ。
「まだこの間の事を気にしているの?」
「……別に、そんな事ないですよ」
先輩は「ふーん」とだけ言うと、コップをテーブルの上に置いて胡座をかく。
その表情は、何が面白いのかニヨニヨとした気持ちの悪い笑顔だった。
――これは、何かを企んでいるな……。
冷や汗を流し、次に彼女の口から何が飛び出して来るのかと警戒する。
「気晴らしに、散歩にでもいきましょう」
それは案の定、僕の不安を煽るような発言だった。
おばけを見る事以外に行動を起こそうとしない先輩が率先してこう言う時は、決まって恐ろしい目に合うと相場が決まっている。
「嫌ですよ」
「場所はそうね……、涼しくて人気の無い所が良いわ」
僕の発言は即座にスルーされ、口元を綻ばせたまま目を瞑る先輩。
その小柄な頭の中に、どんな恐ろしい光景が広がっているのかと思うと首筋が冷やりとする。
おばけ研究部員は本来進んで怖い場所へと飛び込むのが仕事なのだろうが、心霊写真の一件でそれが億劫になっていた。
先輩もそれを分かっている筈だが、どうしてこうも僕を見放さずに構うのだろうか。
自由奔放な彼女なら、こんな時間も惜しんで一人心霊スポットにでも特攻しそうなのに。
そんな事を考えていると、先輩は急に立ち上がって出掛ける準備を始める。
「帰るんですか?」
彼女は大きな麦藁帽子を被ると、「何を言っているの?」といった様子で首を傾げる。
「今話したじゃない、散歩に行くわよ」
「――はぁ、わかりましたよ」
こうなったら何を言っても無駄だろう。
まだ短い付き合いだが、それくらいの事は理解出来るようになった。
諦めて麻生地のジャケットをシャツの上から羽織ると、急かす先輩の元へと向かう。
――見上げると、何処までも続く群青の空に浮かぶ入道雲。
その雲の落とす影が、僕の心にまで延びているかのように錯覚してしまった。
※※※※※※
クラクションの音と、大勢の話し声が入り乱れる雑踏をすり抜けて先輩の後を追う。
小柄な先輩はそんな人混みが気にならないかのように、すいすいと先へ進んで行く。
見失わないようにするだけで精一杯だ。
「どこまで行くんですか?」
猛暑で滲む汗をハンカチで拭う。
既に散歩という域を超えて歩き続けていた僕らは、家から離れた大きな駅に辿り着いていた。
先輩は何処へ行こうかとまだ思案している様子だったが、やがて一人頷く。
「――まぁ、いいか。適当に電車に乗りましょう」
何がまぁいいのだろうか。
しかし、てっきり目星の付いた心霊スポットにでも連れて行かれるのかと構えていたぼくは、今の発言に少し肩の荷が軽くなった気がした。
先輩はそれだけ呟くと駅の改札へ向かい、僕は乗ったことのない路線の電車に乗る。
行き先も決めずに電車に乗るのもまた、彼女らしい。
電車が走り出して少しすると、都会の喧騒から置き去りにされたような緑豊かな景色が広がる。
――――先輩は車窓を開け、流れ込んでくる新鮮な風を受けると気持ち良さそうに目を細めた。
微かに鼻腔を掠めるのは夏の緑々しい匂いと、彼女の香り。
その何処か懐かしい香りに、自然と僕の顔は緩んでいく。
――線路は続く、何処までも
その先に待ち受けているものが、どうか楽しいものでありますようにと心の中で静かに思うのだった。
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