第5話
自分とよく似ている顔をした他人と遭遇する、なんて事は長い人生の中でもそうある事ではない。
ましてやそれが人間ですらない、怪異とも呼べる得体の知れない何かならば、それほど恐ろしい事は無いだろう。
人はそういった存在を"ドッペルゲンガー"と呼ぶ。
見れば死ぬとさえ言われている、古くからある都市伝説を僕は今目の前にしていた。
「な、なんだよこれ、何の冗談だよ……」
生気の無い土気色の顔。
鏡で何度も見た事のある顔。
それ以外は黒い影に覆われたままで、狭い四畳半の隅から僕らを見下ろしている。
「ドッペルゲンガー……いや、そんな大層なモノじゃないわね。こいつは他でも無い、あんたが生み出したモノなんだから」
僕が生み出した?
意味がわからない、何を言っているんだ。
「全く身に覚えがありません……」
「でしょうね。ここまで強い存在感を放つ"イマジナリーフレンド"を故意に生み出せたら、悪質にも程があるわ。もはや生霊ね」
そうしている間にも僕と同じ顔をしたその影は、薄らぐどころか益々瘴気を強く放ち始める。
まるでその続きを言うなとでも叫ぶように耳鳴りが激しくなり、思わず目を瞑ってしまった。
「本来イマジナリーフレンドっていうのは、親にも相手にされないような孤独な子供が強い思い込みによって生み出してしまう存在なの。信じる気持ちが大きければ大きいほど、その存在は確固としていく」
よっ、と小さな掛け声と共に僕の背中から飛び降りた先輩は、再び僕が生み出してしまったと言うイマジナリーフレンドへと近づく。
「だからこいつはあんた自身。まだ子供なのに、一人暮らしなんてするからよ」
そう言う先輩は、どこか懐かしげな表情を浮かべて小さく笑った。
「自分の心の深淵から這い出して来た存在なんて、怖いに決まっている。誰だって自分自身と向き合うのは怖いもの。忙しない現代を生きる私達が忘れてしまった大切な事の一つは、こういう存在とちゃんと向き合うという事」
一句一句紡ぐ声に反応するように、影はゆっくりと薄らいでいく。
もう一度よく見てみると、その姿からは怒りや怨念のような物は一切感じなかった。
そうか、と愚かな僕はそこで初めて気が付いた。
――恐ろしく見えたのは、その姿を僕自身だと認めたくなかったからなんだ。
そう思うと、今までずっと恐ろしいと思えた感情はもうどこにも無かった。
「だから、おかえり。あなたの居場所へ」
ビルの隙間から差し込む西日が部屋に舞う塵に反射して光る。
その粒子と共に、黒い影はもうほとんど見えなくなっていた。
あ、消えると思った瞬間、その口元が僅かに動いた。
『――――』
—ただいま。
言葉は聞こえなかったが、僕にはそう見えた。
そうして影は今度こそ本当に消えてしまったのだった。
先輩がそっと溢した言葉も、影が最期に残した言葉も、今の僕にとってはどこまでも温かくて、気が付けば頰に涙が伝っていた。
「って、何泣いてんのよ」
「……なんだ、悪いやつじゃなかったんですね」
「あんたにとっては、その逆ね。寂しそうにしているあんたを心配して、魂が勝手に生み出したんだから」
何か小難しい事を言った気がしてもう一度聞き直してみたが、「なんでもない」とだけ呟くと鞄を持ち上げて帰り仕度を始めた。
「駅まで送りますよ」
「別にいいわ。……どうしてもって言うなら着いて来てもいいけど」
そっぽを向いてそう言った先輩に、何だかんだ言って先輩も寂しがりじゃないかと思ったが、小さく笑うだけに留めた。
僕が数週間悩ませられた怪奇な現象は、先輩によっていとも簡単に解決された。
やはり凄い人だった、僕一人ではとても解決できなかっただろう。
――この日を境に、僕は先輩にある種の畏敬を持つようになったのは言うまでもあるまい。
※※※※※※
もうすぐ本格的な夏が来る。
最寄り駅まで先輩と並んで歩いていると、向こうからワイシャツを乱したサラリーマンが忙しそうに走って来た。その後ろには、全く同じ顔をした"何か"が陽炎のように揺らめきながらその背中を追っている。
「見えるようになったのね」
「薄気味悪いので極力見たくないですけど……」
僕らの側を通り過ぎたサラリーマンの後ろを追いかけるそいつは、どこか寂しそうな表情を浮かべていた。
「大人になっても気づけない人は可哀想ね。でも、今の世の中にはそんな人大勢いるわ」
「はぁ……、気になっていたんですけど、どうして僕には見えたんでしょうか?」
「さぁ?」
さぁって……。
でも、僕は昔から時々へんなモノを見る事があった。
今回のようにハッキリと見た訳じゃなかったからどこかでその存在を否定してきたけれど。
「見える人はそう多くないと思うけど、私やあんたみたいに時々居るんじゃない?幽霊や妖怪の類が見えてしまう人間が。その現象のどれもがバラバラだから一緒くたにしたくないけど、イマジナリーフレンドは幽霊の部類かな」
先輩はそう言うと、鞄から一冊のノートを取り出して何やら書き始めた。
「何ですか?それ」
「おば研の活動日誌」
確かに表紙にはそう書かれたラベルが貼ってある。
所々付箋が貼ってあり、結構な文章量がありそうだ。
そういえばこの人は、おばけ研究部なるよくわからない部活の部長だったな。
そこで、僕の脳裏に閃きが走る。
「先輩、僕をおばけ研究部に入れてください」
「はぁ?嫌よ」
即効でフラれた……。
しかし、この先輩と居れば何か面白いものが見れるかもしれない。
得体の知れない存在は未だに怖いけれど、あの身体の奥底から震え上がるような恐怖感に、僕は既にどこかで魅了されてしまっていた。
「雑用でもなんでもしますから!」
しつこく食い下がる僕に鬱陶しそうなジト目を向けた先輩だが、少し考える素ぶりを見せたかと思うと、あの意地悪そうな笑顔を浮かべて僕に向き直る。
「ふ〜ん、なんでも、ね。それならいいわ。雑用として散々こき使ってあげるから、覚悟しておきなさい」
これが甘いセリフだったなら、世の中の男性の9割は彼女に魅了されてしまうのではないかと思うほど可憐な上目遣いをされて、僕は思わず顔を逸らしてしまう。
「お、お手柔らかにお願いします」
「ふふ、もう遅いから」
楽しそうに笑いながら、先輩は改札をスキップで通り抜ける。
その背中を苦笑いで見送った僕だが、これから訪れるであろう楽しい日々を思い浮かべて一人静かに笑った。
もちろんそんなに世の中は甘くない。
この決断が英断で無かった事はこの数日後に思い知らされる事になるのだが、それは別の話だ。
一人になってもどこか満たされた気分のまま僕は帰路に戻る。
また部屋にあの影が現れても、もう恐ろしくない。
それは僕自身であって、僕自身じゃないけれど、
――――これまでもこれからも、一生涯寄り添う事になる何よりの友人のハズだから。
第1章 イマジナリーフレンド 完結
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