賢者の尿路結石
「ん、ん、んんんぅぅぅあぁぁ!」
薄暗い書斎の片隅で、一人の男が、
部屋には、棚に収まり切らない古書の類が、そこかしこに積み上げられている。
もがき苦しむ男は、呼吸も荒く、ふらふらと、部屋を歩きまわった。
「ぬぅぅぅぅん、ふ、ふうぅぅぅぅ……」
痛苦に耐えかね、助けを求めて手を伸ばした。手は救いの天使ではなく、本の塔に触れた。塔が、ばたり、ばたり、と、音を立てて崩れた。
羊皮紙が、床一面に散らばった。
落ちた拍子に、綴じ紐が切れてしまったらしい。紙片の左端に、切れた紐が引っ掛っている。
色鮮やかな文様が躍る紙片には『テオフラストゥス手稿』と、記されていた。先人の英知の結晶であり、神聖ローマ皇帝フェルディナント一世も欲する記録である。
賢者の石についての、記録であった。
「ふぅぅぅう、ふぅぅぅぅ……ふっ、うぁ、ああああああ!」
男は絶叫し、散った手稿の上に、倒れ込んだ。
波のように引いては押し寄せる痛み。悪魔の所業とも思える痛みであった。しかし絶後の痛みは、男が、自ら望んだ、産みの苦しみである。
男の名はマティアス。
医師だ。
スイスの医師、パラケルススの弟子である。そしてパラケルススがそうであったように、錬金術師としての顔をもつ。
フェルディナント一世より密命を受けている。賢者の石を創出せよ、と。
先帝、カール五世のためだ。
カール五世は長年痛風の痛みに苦しんでいた。心労も重なり、退位の折には涙まで流していたという。現在は、スペインで療養しているという。
密命は、先帝の救済だけを目的としているのではない。
痛風の予防も含まれている。遺伝するのだ。古代ギリシアの医聖、ヒポクラテスが、そう記録している。
皇帝フェルディナント一世は、先帝を退位に追い込んだ痛風を、恐れているのである。それゆえ、マティアスに、賢者の石を作り出せ、と命じた。秘密裏にだ。
命を受けたのは、半年ほど前のことである。
半信半疑であった。
錬金術を学んだことは、絶対の秘密であった。特に、師、パラケルススの書斎から盗み出した手稿は、誰にも知られてはならなかった。しかし、またとない好機であることも事実で、マティアスは命を請け負ったのだ。
「ひ、ひ、ふぅぅぅぅ。ひ、ひ、ふうぅぅぅぅ、うぅうううううん!!」
身を捩ったマティアスの躰の下で、ぐしゃり、と、ひん曲がった手稿である。
手稿の存在は、皇帝にも、隠しておかねばならなかった。賢者の石の作り方が、書かれているのである。錬金術の秘術である。手稿にしたがえば、一二五〇年、マンスーラの戦いで、ムーア人共から奪った術だという。
「ふぅぅぅぅぅん……っ!」
痛みの間隔が、短くなっていた。
マティアスは足を踏ん張り、生まれたての小鹿のような足取りで、青銅で作られた脚長の机に、手をついた。
錬金台である。
赤、青、緑……様々な色の薬瓶が、並べられている。その中に一つ、奇妙なものが紛れ込んでいる。ジョッキである。元は北方の蛮族が使っていたものだという。
中には、土留色をした液体が、入っている。賢者の石を作り出すための、秘薬だ。
マティアスは取っ手を掴み、呷った。
顔をしかめた。
「うぅ、うぉぇ、ぶぉろっ! ぶぇろろ、ぶっ、ぐっ、うぇっ、ぐぅ……」
すごく不味いのだ。鉄臭く、青臭く、生臭く、粉っぽく、苦く、吐き気を催す。
しかし、マティアスは、喉をごくごくと鳴らして、一息で飲み切った。
だがぁん、と、飲み切った空のジョッキを、錬金台に落とすように置いた。今日だけで、十六杯目の、秘薬であった。この半年では、優に千杯を超えている。
賢者の石を作るためには、毎日飲み続けなければならないのだ。
パラケルススの残した手稿によれば、賢者の石の作り方は、至極、単純であった。
英知を得たものが、秘薬をすすり、儀式を執り行う。それだけだ。
まず英知を頭に詰め込む。
これはマティアスにとっては、すでに十分に思えた。パラケルススの元で、十年に渡り、医術のみならず、錬金術の教えも受けた。ハンガリーに帰国してからも、知識の集積には、時間を惜しむことはなかった。本だらけの錬金部屋は、マティアスが十二分に知識を頭に入れた証拠である。
次に、毎日、秘薬をすする。
秘薬は、ほうれん草、豆類、茶葉などを、塩とともに、多量に、煮詰めることで得られる。指定されている豆類は、特殊なものばかりで、茶葉も非常な高級品である。そうして作った秘薬を、日毎に十数杯も飲まねばならない。フェルディナント一世が資金を用立ててくれたことで、ようやく目途が立ったのだった。
「ふぉ、ふうぉぉおおぁっ! ……ああああぁぁぁぁぁ……ぁぁぁあぁあああ!!」
マティアスの絶叫が、床の上に並べられた燭台の火を、揺らした。
奇妙な並べられ方であった。床に描かれた、崩れた五芒星の頂点に、燭台が置かれているのである。儀式を執り行うための、魔法陣だ。
中心には、獣の肉塊が、置かれている。蝋燭の火に照らされ、ぬめった、赤黒い光を返している。牛や豚や鹿の、肝臓である。生だ。鳥の肝臓も、混ざっていた。
肉塊の前には、銀の盆が、置いてある。盆の上には、海老、蟹、魚卵などが、盛られている。これら全て、儀式に使われるものだ。
儀式として、すべて食すのである。
マティアスは、右の脇腹と、背中を、手で押さえた。酷く痛むのだ。惨たらしい痛みであった。
視野が狭窄するのである。視界の端が、赤く明滅するほどの、痛みである。
足から力が抜けるのである。膝が上がらず、腰砕けになるほどの、苦しみである。
しかし、マティアスは、汚泥のようにまとわりつく痛苦の中であっても、儀式を執り行わなければならないのだ。
「うぅ、ぶっ、ぐふぅっ! ふぅ、ふ、うおぉえ!」
マティアスは、えづきながらも、肉を咀嚼し、食べた。生の肝臓である。蟲がついていることもある。それでも、食す。この儀式もまた、毎日執り行う必要がある。
一連の作業を、半年間、毎日、続けてきた。
マティアスを襲い続ける痛みは、儀式が結実した証左である。
賢者の石が、躰の中に、創り出されたのだ。
あとは賢者の石を、体外に出す儀式を、執行するのみであった。
マティアスは、強くなり続ける痛みに耐えて、重くなった腰を上げた。
瞳が、薄暗い部屋の中で、赤く輝いた。狂喜に塗れている。痛みに耐えること、実に五時間あまり。いよいよ排出の儀を、実行に移す時であった。
片膝を腰の高さまで挙げ、跳ねる。錬金術の頂点に手をかけているのだ、という喜びは、煉獄を思わせる痛みすら、忘れさせるほどだった。
跳ねる。背中の、腰骨の少し上の辺りを、叩く。そして跳ねる。これを繰り返す。
パラケルススの手稿には、そのように書いてあったのだ。
賢者の石は、生命の石とも呼ばれる。躰の中で作られた賢者の石は、男根から排出されてしかるべきだと、書かれていたのである。なぜなら、生命の種は、そこから出るのであるから、と。
ゆえに、マティアスは、跳ねた。偉大なる師を信じ、飛び跳ねたのだった。
「ふぁ、は、はぁぁぁぅ、ぅん、うん! ぬぅぁああ、ふぅ……っ!?」
痛みが消えた。ほぼ同時に、尿意を感じた。
猛烈な、尿意であった。
我を忘れて、今すぐにでも、小水に行きたい。そう思わせる、尿意であった。
しかし、ここで仕損じてしまえば、ただの尿路結石になってしまう。
もう一つ、仕上げが必要だった。
子種である。賢者の石が通る道――尿道に、子種を用意しておかねばならない。
マティアスは尿意を堪え、心を静めた。
書によれば、必要とするのは、術士の子種だ。しかし、女との性交渉によって得た子種を、別の用途で使用すうなど、教会の意に反する。禁忌の所業となる。
また無暗に快楽に溺れたとあれば、これも教会の意に反するところ。
すなわち、マテイアスに許された子種を得る方法は、
無我の境地で行われる、自慰のみであった。
一心不乱であった。
決して、想像を逞しくしてはならないのである。女を思うことも、男を思うことも、快楽におぼれることも、許されない。ただ純粋な刺激のみで、子種を男根に残す必要があった。
しかし。
「! ……ふぅ」
造作もないことであった。
マティアスは、賢者の石を作るために、長く修練を積んできた。無我の内に果て、男根に子種を残す、修練である。いつか金を得たときのために、と、十数年に及び積み重ねてきた、達人の技術であった。
残るは、石を排出するだけだ。
マティアスは、特注で拵えたザルの前に立った。
ザルには、東方より持ち込まれた、紙が三枚、重ねてあった。明国ではない。明国の東方にある海を越えた先から持ち込まれた、厚い植物繊維の紙である。耐水性が高く、丈夫で、しなやかな紙であった。
表面には波上の皺がある。東方の王も使用するという、陸奥紙というものだ。
マティアスの巧みは、ここにあった。
賢者の石を受け止める方法を、考案したのだ。
尿管結石であれば、金属製のカテーテルを使う方法もある。しかしこれは賢者の石である。しかも、石は、非常に脆いらしいのである。
艱難辛苦を乗り越えて石を生み出したとて、石床に墜ち、砕けてしまえば――。
防ぐためには、柔らかい緩衝材が必要だったのである。しかし、獣皮を使ってはいけない。命あるものの、皮だからである。
また水を受け止める紙でもいけない。小水と混ざる。
東方より得られた陸奥紙は、美しさもさることながら、賢者の石を受け止めるに、ふさわしい紙であった。これをザルと合わせることで、小水を下に流し、石を、やさしく受け止められる。
マティアスは、いよいよ、排尿した。頭は、不思議と、冷え切っていた。
すごい尿であった。
真っ赤な尿である。血尿であった。
出し続ければ、失血死するのではないかという、夥しい量の、血尿であった。
痛みは、驚くほどなかった。先ほどまでの痛苦で、感覚がおかしくなっているのかもしれない。一月ほどの間、排尿の度に感じた痛みが、まるで無かったのだ。
かさり、と、陸奥紙の上で、紙擦れの音がした。
マティアスは排尿を終え、目を凝らした。
血に塗れた石があった。小指の先ほどの大きさである。黄金色に輝き、無数の鋭角をもっている。まるで松かさを凝縮したかのような、人を殺す悪鬼が扱う武具のような、命を摘み取るような形をしていた。
「なるほど。これが、賢者の石か……」
マティアスの賢者の石への興味は、驚くほど、失われていた。まるで感動しないのである。思考は冷静そのもので、なんと馬鹿らしい、空しい営為だ、という思いばかりが募る。
マティアスは、首を振って、部屋を見回した。
乱雑に積み上げられた、かび臭い本の山は、いまや無用のものである。床に引かれた薄気味悪い魔法陣も、そこにある蠅のたかる肉塊も、無用である。いまでは、地下室に漂う、尿と子種の臭いが、不快極まりない。
ふいに、マティアスは気付いた。
賢者になったのだ、と。
賢者の石を産み落とした者が、賢者でないはずがない。
――下らん。さっさと石を献上し、医術に戻ろう。
賢者そのものであった。
数日後、マティアスは、フェルディナント一世の使いの者に、賢者の石を渡した。
「これを。霊薬と併せ呑むことで、いずれ痛みは消え、病は消えまする」
「しかと受け取った。貴公の協力に感謝すると、陛下がおっしゃっておりました」
そう言って、使いの男は、賢者の石を、それを覆う小瓶ごと、懐にしまった。
次の瞬間には、通りの暗がり紛れ、姿を消していた。
一五五八年。先帝、カール五世は、隠棲したスペインは、ユステ修道院にて、痛苦に喘ぎ、息を引き取った。
賢者の石を、万霊の秘薬エリクサーに変え、飲んだのかは、誰も知らない。
賢者マティアスは、腎機能障害を起こし、人知れず死んだ。
晩年は、カール五世の死により、皇帝の手による暗殺を恐れて、常時、心労を抱えていたという。また、再び賢者の石を作ろうとしていた、ともいう。
賢者の石は、できたのか。できなかったのか。
できたとしても、それは霊薬にはならなかったのか。
事実は、誰も知らない。
ただ分かることは、マティアスの手記に、
『最近、尿から甘露の匂いがする。私の躰は、賢者の石へと、化しつつある』
と、書き残されていたこと。
それだけである。
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