思いつき短編供養

λμ

『モモの缶詰


 2024年某日。Webジャーナルに提出された一本の論文によって、世界が揺れた。

 タイトルは『ニホンザルが小説の執筆を開始するまでの記録』だ。

 味も素っ気もない、およそ文章としての魅力がないタイトルだった。

 日本から発信された研究成果である。

 報告者は狂人大学霊長類研究所のチーム。

 

 元より霊長類に関連の研究を網羅している施設ではある。特に名を知らしめたのはチンパンジーの研究で、得られた知見はインパクトファクターという点で、他の追随を許さなかった。


 近年は目立った成果――といってもマスコミ受けしないという意味だが――を上げられていなかった。しかし、またしても霊長類研究の新時代を彼らが作った。

 世間の評価は大したことが無くても、少なくとも世界はそう認識した。


 報告によれば、小説を書いたサルは、メスのニホンザル、モモちゃん。四歳。

 人間の年齢に換算すると、およそ25歳程度といったところか。

 まずはモモの話をしよう。


 モモは上野動物園から遥々京都まで連れてこられたサルだ。ただそこに居るだけで猿山のコミュニティを崩壊させるため、原因を調べようとして運び込まれたという。


 モモは通常の逸脱したサルと違い、明らかにグループの中で独立していた。

 決して孤立していたのではなかった。 

 当初、動物園の飼育員たちは、モモがリーダー格になった、と考えていた。

 通常ニホンザルでボスになるのはオスだけで、珍しい現象だからと放置された。

 

 モモは群れ構造に参加せず、一匹だけ単独の社会構造を有していた。

 ハーレムには加わらず、マウンティングなどの力関係の把握も拒否する。

 にも拘わらず、群れのサルたちは、モモ一匹だけを別の群れとして認識し、対等な文化的交流をしていた。


 飼育員たちの常識から外れた存在であるモモは、一般的な群れに影響を及ぼすようになっていく。元からあった群れが徐々に解体され、より少さな小集団を形成しはじめたのだ。


 一連の群れの解体がモモの行動によると推定されたのには、理由がある。

 群れから離れて生活するモモの元にサルが近寄る。マウテンィングをするでもなく、毛づくろいといったスキンシップを図るでもなく、ただ傍によるだけだ。

 

 通常の群れと同じようにモモを中心として群れが形成されれば、リーダー格だと推定できる。しかしモモの元に訪れたサルは、クー・コールを交わして離れていく。

 モモが一匹になったのを見計らい、また別の個体がモモの前に腰を下ろす。するとまたクー・コールを鳴き交わし、別れる。

 そうして離れた個体は、モモと同じように、また別の独立集団へと変わっていく。


 飼育員たちが道理を理解できぬままに、事態は進行していった。

 いよいよ猿山が機能を停止してしまうかというとき、頭を抱えた動物園側が、狂人大学霊長類研究所の研究員を呼んだ。

 訪れた研究員は、猿山の記録映像を見て、奇妙な推論を述べた。


「モモは多言語を扱っている。そして個体ごとに鳴き分けて教育することで、その個体を群れから分離しているのかもしれない」


「そんなバカな」と、飼育員たちが言ったかどうかは知らないが、この一連の異常事態から、モモは特別な個体として研究対象になり運ばれた。

 報告書には、そう記されていた。

 

 運び込まれたモモは、他の実験用サルに悪影響を与える可能性があるため、個別のケージに移された。


 しばらくのあいだ、モモは、じっと座り込み、研究たちを眺めるばかりだった。たった一言の鳴き声さえもあげなかった。


 モモがパソコンの置かれた部屋に放り込まれることになったのは、移送してから二週間が経過したころだった。

 いつものように座り込み研究員たちを眺めていたモモは、床の上に指先を滑らせて、一心不乱に書きだしたのだ。


 モモは書く指を止めたとき、ほとんど必ず頭を撫でた。そして目元を抑えたり、あるいは床の上の、さきほどまで書いていた場所を、手の平で払ったりした。

 モモの様子を見ていた研究員たちの一人が、


「まるで文章を書きなおしているみたいだ」


 と、言った。


 場所が動物園ならば、写真なり動画なりを撮って終わりにされただろう。

 しかし霊長類研では別だ。

 言語を介するサルの研究など、もっとも得意とすることの一つだった。

 

 最初の研究ではペンと紙を、モモに渡した。

 モモは受け取ったペンを壁に投げ捨て、紙を引きちぎり、床に指を滑らせた。

 次にカメラで録画しようとした。モモはカメラを気にして、書くのを止めた。

 あまつさえ躰を掻きむしるようになってしまった。


 原因がカメラにあることは明白で、研究者たちは別の方法を考え始めた。

 提案された方法はごく単純なもので、実験室にワープロソフトを起動したパソコンを一台設置し、同じテーブル上に紙とペンを置いておく。

 モモを入れる。

 モモは寝食さえも、常に実験室の中で行う。

 

 簡単に言えば、作家が人生で一度は経験するとされる、カンヅメというものだ。

 実験室に放り込まれてから時計の長針が一目盛りほど動くまで、モモは部屋の隅に座り込んでいた。急激に変化した住環境のせいもあり、恐怖に躰を震わせていた。


 研究者たちが一旦は実験の中断を思案した。しかし、実行されることはなかった。

 部屋の片隅でじっと床を見ていたモモが、PCに向かって歩き出したからだ。

 モモは、名前にちなんでピンク色のアルミパイプで作られた丸椅子の上に、ちょこなん、と膝を抱えて座った。


 研究者たちは現出した光景に目を奪われ、速やかに記録の再開と実験の続行を決定した。室内の八カ所に設置されたカメラ映像を、ハードディスクに転写していく。

 PCの斜め後ろに設置されたカメラは、モモが画面を睨むところを見た。


 腕が伸びる。指先が開かれる。そして、人差し指で『h』を打鍵した。

 モモが小説を書き始める様子を、カメラだけが冷静に見つめ続けていた。

 とうとうモモは、小説を書きだした。

 

 次に打たれたキーはa、次はj、i、m、e……。

 速度こそ遅くとも確実に打ち込まれていく文字列に、研究者たちは注目した。アルファベットの羅列に規則性があったのだ。子音の次に母音、子音、母音……。

 研究者たちの一人が呟いた。


「ローマ字だ! ローマ字入力してるんだ、あのサルは!」


 まず、観察室の中で衝撃が走った。しかし長くは続かなかった。

 もっと強い衝撃が、打たれた文字列によってもたらされたからだ。

 サルらしく不慣れな手つきで打たれた最初の一文は、


『はじめに言葉ありき。言葉は神とともにありき。言葉は神なりき』


 ヨハネの福音書からの引用だった。しかも日本語訳だ。


 続いて、猿山での生活、群れとモモ自身との対立、葛藤、そして和解……。

 誰がどう見ても、モモの私小説であった。

 少々エキセントリックな設定ではある。しかし内容自体は陳腐な代物だった。

 書いているのが、ニホンザルのモモちゃん(四歳)でなければ。


 一連の報告は世界を震撼させ、カメラは秘密裏にウェブカメラへと換装され、モモが書き始めた小説は、全世界でリアルタイムに監視され始めた。

 

 モモによって巻き起こった異常事態に、もちろんマスコミは反応した。

 取材の申し込みは連日、山のようにきた。

 しかし研究者たちは、


「先生はいま執筆中ですので」


 と、冗談を言って、すべて断った。

 世界の研究者たちは冗談を好意的に受け止めた。しかし世間は違った。


「フェイクだ」

「中に人が入っている」

「いやリモコンを脳内に埋め込んでいるに違いない」

「ただの偶然にすぎない」

「実際にニホンザルが打っているところを見せろ」


 無限の猿定理。

 まず発生しえないが、統計学的には生じる可能性がある、ということの代表だ。

 と、誤解されてきた現象が、日本国内で発生したのだから無理もない話だった。

 取材申し込みはクレームへと代わり、対応に苦慮した研究所は、とうとうモモの公開執筆を行わざるをえなくなった。


 公開執筆の場所に指定されたのは、東京国立展示場の西館だった。大規模な展示場を使用したのは、全世界からの研究達の来日を想定し、また何万という一般客が押し寄せることが予想されたからだ。


 モモに最も近い席には、研究者たちが座る。遠巻きに作られた観察スペースを通って、一般客が観覧するという計画が立てられた。

 実際に公開執筆の開始が決まるまでに、さらに3か月を要した。


 かくして、モモに試練の日が訪れたとき、モモの小説はすでに佳境に入っていた。

 当日までに書かれた分量は、原稿用紙にしておよそ700枚分に達する。執筆にかけられた時間は、実に7か月に及ぶ。しかしその内容は、どこまでも陳腐だった。

 ニホンザルが書いてさえいなければ。


 口さがない一般客たちは、口の端を上げて言い合った。


「人類史上、最も長くて下らないカンヅメじゃね?」

「いや、サルなんだから人類史ではないでしょ」

「観察してんのは俺らだし、人類史っしょ」

「つか小説って言えんの? 単に偶然そうなっただけじゃね?」

「偶然だったらもっとすごいわボケ」

「あのサルに俺のスマホ渡してガチャ回させれば人類に貢献したことにならね?」

「バカどもが。そんなことに使うくらいなら俺は馬券のマークシート渡すね」

「w」


 誰一人として、モモが小説を書いているとは認識していなかった。

 研究たちも例外ではない。

 一般客より好意的に見ている割合が多いというだけで、批判的な見解も多かった。


「チンパンジーならともかく、ニホンザルはないよな」

「ニホンらしいじゃないか。小説を書くサルとか」

「おいおい、差別主義者は来るなよ。国に帰ってワインでも飲んでろ」

「よくいうぜ。『猿の惑星』を映画化したのは、どこの国だっけ?」

「原作はお前らの国じゃねぇか!」

「うるせぇ! ピザでも食ってろ!」

「君たち、喧嘩はやめろ。研究者らしく、紅茶でも飲みながら見ようじゃないか」

「スターバックスに行く方がマシだ」「エスプレッソ以外は胃袋が受け付けない」

「なんだと、貴様ら」

 

 会場に漂う険悪な雰囲気は、モモの入場によって吹き消された。

 どれほど蔑もうと、嘲笑おうと、人々は、サルが小説を書くところを見たかった。

 研究者たちに連れられてきたモモは、やつれきっていた。数ヶ月に及び寝食以外のすべての時間を、執筆に費やしてきたからだ。

 

 モモはピンク色の椅子に座らせられた。モモは会場を睥睨して、俯いた。

 いま思い出してみても、会場は恐ろしくなるほどの静寂に満ちていた。何万という観衆の視線が、モモの一挙手一投足を見逃すまいと注視する。

 

 ゆっくりと腕をあげたモモは、全ての観衆の前で、続きに取り掛かった。

 会場にの誰もが目を見張り、ため息にも似た吐息をついた。

 そして、会議室では、猛烈な議論が開始された。


 宗教学者が叫んだ。

「サルが小説を書くはずがない。ましてやヨハネの福音書の引用をするなどありえない。しかも日本語訳だと? あれは神の啓示だ。人類に対する神からの警句なのだ」


 動物行動学者が手で席に着くよう促した。

「落ち着いてください。まだ小説を書いたと決まったわけではありません。なにしろ彼らの言語で書かれていないのですからね。ただのランダムな文字列かもしれない」


 学習心理学者が鼻を鳴らした。

「いや、私は霊長類研が仕込んだのだと見ているね。なにしろ日本には、えーと、なんだっけ? 猿の軍団とかいうのがあるだろう? あれと同じ。条件付けの延長だ」


 言語学者が、打たれていく文字列を見ながら言った。

「どう見てもあれば文章でしょう。しかも翻訳されたものだ。しかし訂正しておきたいのは、彼女は英語で書かれたものを日本語に訳しているのではないということだ」


 脳生理学者が苦笑いを浮かべた。

「つまり、猿語を日本語に訳しているって? 冗談にしても笑えんね。まぁ可能性を排除することはできんからな。脳波を測定するのはどうだい。言語野が働けば――」


 哲学者が言葉を遮った。

「人と猿の脳が全く同じ働き方をしていると誰が決めたんだね。たしかに構造的には同じかもしれない。しかし単にそういうことだと仮置きにしているだけではないか」


 哲学者以外の全ての研究者が、口を揃えて言った。

「話がややこしくなるから、お前たちは黙っててくれないか?」

 

 議論は紛糾を極め、対照的に観衆はキーボードを打ち続けるだけの猿に飽きた。

 モモの執筆作業が最後の数行に入ったことを、誰一人として気づいていなかった。

 一時間ほどが過ぎ、モモの小説は、最後の一文に差し掛かっていた。

 最後に打たれた一文は、


『かくてモモは言葉と共に生き、言葉を捨てた。』


 だった。


 打ち終えたモモは空を仰ぎ、観衆を睥睨した。モモは躰を椅子の上で揺らし、床に転がり落ちた。研究員たちが駆け寄り、すぐに救護室へと搬送された。

 公開執筆を終えたモモは、二度と打鍵することなく、上野動物園へと戻された。


 戻ってからのモモは、あいかわらず独立した猿だった。しかし、もう他の猿を独立個体へと変えるようなことはしなかった。

 ただ、黙して日々を過ごした。


 後に、モモの書いた小説は、無編集版と日本語変換版を併せて『猿の書いた小説』として出版された。

 モモは上野動物園に訪れた膨大な数の客を、静かに見つめるだけだった。


 ただ、一つだけ嬉しかったことがある。

 モモの本を手にもった少年が言ったのだ。


「モモちゃーん。お話、面白かったよー」

 

 モモの生涯で誇れるものがあるとしたら、

 彼がくれた、作品への感想だけだ。


                                  モモ』 



 

 上野動物園、猿山にて。

 一人の若い飼育員が、猿山に設けられた洞穴の壁を、感慨深げに撫でていた。

「そうかぁ、モモ。お前、一人称が自分の名前だったんだなぁ」


 そこには、ただたどしい字体で、上記『』内の文字列が書かれていた。

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