第72話「ボロボロにひしゃげた手が君の頬を撫で続けて」
――、
……、
…………、
誰か、が泣いている。
生まれ落ちた瞬間のように、意味もなく泣いている。
なんで、泣いているんだろう。泣いているのは、いったい、誰だろう。
何もかも失われた白い世界。
ぼんやりとした疑問が宙に浮かんで、泡のように弾けていく。
目覚めると爆音は消えていた。何もかも消えていた。本当に目覚めたのかさえわからない。
真っ白い世界。真っ白い闇が、どこまでも続いていた。
これが終わりか、と僕は思った。
肉体の感覚のない世界。
一切の苦痛のない世界。
耳も目も口も手もなくなり、あらゆる五感が閉じた爆発の源。
生命の根源。すべての情報の行き着く場所。それが、この真っ白い世界なのか。
だがそれは、錯覚だった。過剰な光量を浴びて収縮した瞳孔が、ゆっくりと元の視覚を取り戻す。
ただ真っ白いだけの世界が終わって、最初に痛覚がやってくる。
何かが、頬を撫でていた。
自分がただちに感じることができたのは、音ではなく、景色でもなく、匂いでもない、ただ自分の頬をなでる優しい痛みだった。
ささくれだらけの何かに涙のあとをなぞられるような――少しだけ渇いていて、どこかゴツゴツしていて、でもとても優しい触覚だった。
これは、なんだろう。
いったい、どうしてこんなことをしているんだろう。
五感が、少しずつ戻ってくる。
だんだん、痛覚の正体がはっきりしてくる。
そうしてその痛みが、皮膚から受け取る単純な知覚の刺激ではなくて、自分の心とどこかでつながっていることを、無意識のうちに僕はしる。
少しずつ景色があたりに戻ってきて、僕と、僕以外の何かとをつなぐ、橋のようにのばされた物体の正体があきらかになる。
それは、醜い、ボロボロの、爆炎にひしゃげて石灰化した触手だった。
闇にのみこまれ、蛇の化け物のような姿のまま爆破された、奇怪な化け物の残骸だった。
そこで白い空が割れて、星が見えた。
白い世界は、化け物の胎内だった。
天蓋のような覆いで自分を包んでいたものはたくさんの触手でつくられた、防壁の殻だったのだ。
だがそれは凄まじい爆撃をモロに受けて崩れそうになっている。
もはや自分の腕の重ささえ支えきれなくなっている。
醜い蛇か、人間の臓器みたいな代物で――、
だがそれが僕のからだをドーム状に覆っていた。
繭だ。
繭に包まれて、僕は無傷だった。
無傷なのに、無事なのに、なぜかどことなく心がふるえて、眼球からは涙がぽたぽたと流れていた。
そんな僕の頬をボロボロの触手がゆっくりと撫で続けていたのだ。
化け物が、身を挺して僕を守ってくれていた。だがそのせいで怪物のからだは原型を留めないほどガタガタで、もはやあまりうまく動かせないのか、触手はしだいに頬に触れることすらできなくなって、瞳のあたりをゆらゆらと彷徨う。
ガタン、
音が鳴って、ひとつ、またひとつと崩れ落ちる。
からだの周囲で蠢いていた化け物の腕も、だんだん動かなくなる。
どんどん空が覗いていく。
蛇の頭部が触手の根元から取れて、体表を転がり落ちていった。
蟲の目のような化け物の眼球から光が消え、生命が閉じていくのがわかる。
触手がだらりと力を無くして、呼吸を止める。
彼女は僕を守るために化け物の姿になったのだ、
とはっきりと自覚したのは、触手が完全に動きをやめてしまってからだった。
爆撃の最中の声。
存在が消失する間際の優しい少女の声が、闇に飲みこまれていく彼女の意識がまだ残っていたことを、ようやく動き出した自分の頭が、認識した。
もう手遅れになってしまってから。
僕は、彼女を探して、必死で瞳を動かした。
からだはもうほとんど動かなかった。
そのまましばらくそうしていた。そして、ついにみつけたのだ。
崩れ落ちた触手の根元、こちらにわずかにのばされた腕の先。
そこに、彼女の痕跡がいた。
核エネルギーにひしゃげた本体の割れ目の中心に、蛇の鱗の姿のまま爆破されてもはや原型を留めなくなっている、タツノオトシゴのような姿があった。
変わり果てた彼女を手のひらにのせると、止まったはずの涙が再び溢れだして、ポタポタと腕にくすぐったい感触が落ちていく。
だがそこで、なぜかいつもの悪態が、口をついてこぼれでた。
早まったな、エレナ。そんな自分のカオはみられたくないって。
みられたくないっていってたのに。
触手は次々に爆発し、消し飛んだ。
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