第50話「死と再生を繰り返す君の脳は少しずつ壊れ始めた」
自分の脳は少しずつ壊れ始めた。
彼女とのおだやかな日々を続けたいと思えば思うほど、自分の意識は失われ始めた。
七つの日にちが回る刻。その刻限の訪れるたびに、自分は毒薬を服用し、仮死状態を繰り返した。
だから詰んでいるのだ。
自分は、これが、永遠ではないことを、しっていた。
クスリが尽きるのが先が、このアタマが壊れるのが先か、そもそも、この世界が終わるのが先なのか。
あるいは、底からみた井戸の天井の真円を思わせる天蓋の孔から、救いの《シシャ》が伝書鳩に導かれて、奇跡的に自分たちを連れだしてくれるのが、先なのか。
わからない。
だが、そんな予測不能の絶望的な状況のなかで――だが一方で、それは生命というものの、何か本質なのではないかと、思うのだ――自分は、できることを、考えていた。
失われてゆく心とは反対に、からだを、肉体を、徹底的に、逞しく鍛え上げた。
それは、いざという時の、白兵戦のための準備である。だが、最大の目的は、いずれきたる勝負の時に、自分の殺戮の本能を、最大限解放する、母体をつくることだった。
両手をつき、上腕二頭筋の筋力トレーニングに励みながら、考える。
汗の滴がポトポトと化粧煉瓦に落ちていく。
自分の殺人の方法は、声帯から奏でられる、死神の楽の音だ。
運動力学的には、たいして肉体を酷使するわけではないのに、トレーニングに励むのは、それが《館》に息を潜めていた頃からの習慣であるという理由のほかに、もう一つ、生理学的な、理由がある。
自分の能力は、ある意味で、非常に体力を要するのだ。
ある意味で、といったのは、例えば、一般的な殺人の武器は、攻撃という動作を必要とする。
自分以外の他者への、能動的な働きかけが不可欠となる。ボクシングなら、腕を振り上げる。
剣術なら、刀を振り下ろす。弓矢なら、手前に引きこんで矢を放つ。
だが自分の武器は、ひたすら防御に徹することで、繰り出される。
世界のどこかから、衝動として浮上してくる攻撃を一身に引き受け、ひたすら受け身に徹することで、逆に弾力に富むバネのようにエネルギーをカウンターで爆発させるのだ。
自分の武器は、嘔吐だった。
それが己の才能だった。
この世界に漂う負のエネルギーを体内にとりこみ――空っぽになった胃の底から液体を逆流させるように――殺戮の言葉としてのどで変換させ、摩訶不思議な黒いカタマリとして、世界に飛散させる。
不幸を、悪意を、世界に降らせる。
彼女とはまるで反対の性質をもつ声である。
人を、幸福にさせるのではなく、不幸をもたらすのだから。
悪意をもたらすのだから。
殺意を、攻撃衝動を、狂気を――魂に受肉させるのだから。
いわば胃の底から口頭蓋に至る消化器系統の空洞が、異世界とつながるダークホールの出口となって、悪意を吐き出すように。
嘔吐するのだ。
ただ、それでも、耳元の心地良さは同じかもしれない、と思う。
他者の感じ方を追体験することは難しいが、自分の声は、おそらくヒトにとってとても耳なじみの良い音の波動で構成されていて、声を聴いたヒトの脳内に、麻薬にも似た物質をつくりだす作用がある。
そしてそれは、意識の世界を突破して、無意識の領域にまで、浸透するのだ。
囁きは、他人の生理レベルにまで達し――、やさしく命じれば、自律的な呼吸を奪うことさえ可能になる。
とても心地の良い、耳なじみの良い音となって、はらはらと空から雪のように降り注ぎ、体内にとりこまれた瞬間に、ヒトのからだに触れた瞬間に――それを悪魔の器官へと変貌させる。
いわば、この声は、
発すれば、吐き出せば、ヒトを、傷つける。
ヒトを、悲しませる。
ヒトを、暴走させる。
ヒトを、
そんな自分の声が麻薬だとしたら、彼女の声は、体温だ。
心地よく、あたたかく、どこまでも自分を包んでくれる。
誰よりも近くにいる。体液のように流れている。
そんな声だ。
ここにも不思議があふれていた。
同じ心地よさから生まれた音の響きが、まったく反対の性質をとるのは、自分にとって、とても不思議だった。
だから、その理由を、しりたいと思った。
思ってしまった。
理由を、しりたいと思った。
同じ声なのに、こんなにも正反対に突き抜けてしまう、逆転現象の由来を。
だが、そのためには、書棚に並ぶ膨大な書物を、開く必要があった。
最低限、文字を読み、また書くことのできる能力を必要とした。
そのために残された短い時間が、どれだけ自分の新しい責務を遂行しうるかは、自分にも、誰にも、わからなかった。
<おまえにはわからない>
そういった彼女の言葉の意味を理解できるまで、成長を遂げることができるかどうか、確信がもてない。
そこで、思わず、声がこぼれる。
「う、う、う……」
自分は、まだ完璧な書き文字で文章を操ることができない。
数千回の腹筋をこなしながら、思う。
発声することと文字を読むことのあいだに横たわる断絶は何だろう。
――思考をさえぎるように、手首に巻きつけていたタオルで、汗を拭う。
ゆっくりと息を吐き出しながら、入念にストレッチする。
乳酸の溜まった筋肉に、疲労を溜めないためだ。
最後に、思い出したように、コンクリートの地面に腹ばいになる。
突き刺さった鉄塔の瓦礫の隙間からのぞく、遥かなる地階の円周状の底辺。
自分の置かれている一望監視装置の外の回廊の、数セクト下方に見下ろせる地階に、追っ手の人影がないか確認した。
それが、日課だった。
だが地上の景色に対する憧憬は、しだいに確固とした夢というよりは、かたちのない、漠然とした、曖昧な望みのようなものに変わり始めていた。
邸内を脱出して、地上の光を目にするという夢は、言葉もろとも瓦解して、液状化した望みの薄い希望のようになり始めた。
だが夢が力強さを失っていくのとは反対に、おだやかな日常に対する愛着あ、控えめな諦観とともに、胸に生まれ始めていた。
狭苦しい広場と隠れ家。
追っ手の目を逃れた、地下の監獄のなかの、ささやかなエアポケット。
その場所でさえ、新たな見通しやすい
そこで育まれるトワノ・アリカとの生活に、不思議な居心地の良さを感じ始めていた。
こんな時間が続けばいいと、鳩に餌を与えながら、思った。
勿論、こんな時間が永久に続くわけがないことはわかっていた。
だが、できるだけ長く、この日常を続けたいと、思った。
彼女と、一緒にいたい、と思った。
それにもし、今、この瞬間、自分の命が終わっても、かまわないのではないか。
それでいい、と、思うのではないか。
そして気付く。
あの、雨の日。土砂降りの雨に打たれて、邸内から抜け出して通路を彷徨い歩き、ついに、この監視の目のエアポケットを見つけたとき。
自分は、はじめて、自分の家をみつけた、と思った。
だがそれは、別の意味をもっていたのではないだろうか。
きっと、あのとき自分は、休むための場所を手にしたという安堵の裏で――、
死に場所を見つけた気がしたのだ。
それからさらに十日が過ぎ、二十日が過ぎ、三十日が過ぎた。
しだいに自分の心境も、変わり始めた。
このままここで息絶えてもいいかもしれない、と思った。
自分は、地上の光をみて、命を絶とうと思っていた。
だが地上に出ることは叶わなくても、このまま彼女と二人でささやかな暮らしを続けて、息絶えるのも、悪くないのではないかと思った。
否、もうすでに、そう思うようになっていた。
文鳥からの便りは、なかった。
「もう大体、この世界のことは教え尽くしたね」
だから、ある日、朝食の席で彼女が目玉焼きを箸の先端で潰しながら、何か覚えたいことはあるかと訊いたとき、自分の答えは決まっていた。
「何をしたい?」
その問いかけに、自分は、こたえた。
字を 覚えたい。
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