第42話「この感情の正体を君はまだ知らない」


  

 だが現実は計算通りにはならない。目の前で息をして、というか息をきらして、また時にはあはあして、全力でこちらに駆けてくる存在のよ

うに――実際の登場人物は、盤上の駒のようには動かないのだ。

 そこで聞こえたのは、またしても、あの、ドタバタとした足音だった。とても小さな足音が、窓の向こうから急速に近付いてきて、


「お兄ちゃん大変!」


 沙羅がドアをバターンとあけて入ってきて、一切の企みを粉々に潰してしまった。

 扉に潰されたゴ○○○様のように。


「お兄ちゃん……?」


 お、おとこの娘……そういって、九条マキは、両手で頬を覆った。

 って、なぜ目を潤ませるんですか。頬を赤らめるのですか。そういう趣味がおありなんですか。

 

 男であることがバレてしまった。沙羅の兄であることもバレてしまった。

 目論見が崩壊だ。これで僕は九条マキにとって、完全に部外者、少女だけの世界に侵入しようとする異物でしかなくなる。

 沙羅は、いつものように肩ではあはあと息をさせていた。彼女の大変コールは、全然大変じゃないことが多い。

 だが、――時々「本物」をつれてくる。


「おとうさんが、倒れた!」


 意識が、白くなる。

 沙羅のその言葉は、僕に企みの崩壊などといった、自分が直面している一切の日常の文脈を忘れさせるに十分だった。僕は、喫茶店のアンティーク調のランプの下に立てかけてあったバットを手に取って、握りしめた。


 チャンスだ。

 

 

 ――コッ、


 視界が液状化していく。

 エタノールの臭気があたりを流れる。

 リノリウムの床を打つ靴音が狭苦しい院内に響き渡る。


 ――コツ……コツ、


 歩行速度と心臓の鼓動が、次第に早まっていく。

 それは空炊きした湯沸かし器のように空転したエネルギーで自分を動かし、耳鳴りのような靴音となって静寂を刻む。夜の闇を刻む。個室ベッドの並ぶ病室の廊下は暗く、扉の向こうから、ペースメーカーの電子的な音がかすかにこぼれてくる。現実を嘆くように、現実に起きた出来事を拒絶するように、自分を否定するように、足早にからだを動かす自分の踵音とは反対に、穏やかな呼吸と呼吸の戯れが、回廊を包んでいる。


 ――コツ……コツ…コツ、


 廊下に散漫にこぼれる間接照明の朧な明かりは、眠りにつく老人たちの寝息の熱い体温のせいか、かすかにぼやけてみえる、そう思うのは、考えすぎだろうか。やけに蒸した、それでいて表面は乾いた、暖房の効きすぎた温かい誰かの膜、巨大な生物の体内をめぐる回廊のような夜の通路を抜けて、その場所にたどり着く。


 ――コツコツ、コツ、コツ、


 自分の靴音が大きくなる。

 静寂が深さを増したのだとわかる。

 だが反対に心臓の鼓動はさらに強くなる。呼吸が、圧迫されるほど苦しくなる。

 市営病院の二階のつきあたり。一番奥の部屋。眠りにつくその姿は、安らかな容態とは裏腹に、みるものに不穏さしか与えない。

 安定した寝息と寝息の吐息の間隔、酸素マスクのうちがわを鳴らす穏やかな咽頭音。それが自分のからだの奥深くまで入りこみ、呼吸のリズムすら支配して、自分がどれだけ自然に息を吸いそして吐いているのかわからなくなり、むしろ目の前で眠りにつきながら穏やかな呼吸を繰り返す危篤状態の重病人が、意識をからだから切り離されてゆらゆらと宙に漂い、息子である自分の口から入りこんで、代わりに酸素をとりこませているような、自分の手足を突き動かしているような、金属バットを振りかざすように仕向けているような、そんな妄念さえ浮んでくる。たった数日ですっかりこけた父親の頬を枕元で眺めるうちに、自分が酸素を取り込んでいるのかさえ不確かで、そう感じているのが本当に自分なのかもはっきりとせず、体内のバイオリズムを司る自律神経までも麻痺していく。ここでは自分の存在さえつかめない。死を前にした壮年の肉体を前にして、自分なのか、父親なのか、或いはまたそれ以外の別の何者かなのか、自分が、世界が、わからなくなる。


「……、…ぶつぶつ……ぶつぶつ……」


 そんな感想と呼応するように、いや空想と妄想と前後して、意識を奪われたはずの父親がやわらかく手の中で押し潰される雛のような声を発する。そのかすれた響きは、耳腔の内側で割れ、さらに分裂した波長の襞となって自分の体内にすべりこんで、胸の辺りで攪拌していく。広がっていく。波のように押し戻り、胃の腑のあたりでぶつかって、曖昧な悲鳴を、深い嘆きの囁きを、生まれ落ちまた始まりの場所へと還っていく希望でも絶望でも失望でもない長いため息を、くちびるの隙間からこぼれさせる。

 ――それは、存在しないはずの名前だ。


「……ぶつぶつ……、ぶつぶつ……、……」


 無意識状態の父親は、死んだはずの双子の兄の名前をつぶやいている。

 正確には、死ぬ前に死んでいたものの名だ。それは一番初めの子供になるはずだった。受胎した瞬間から使いきれないほどの赤子用グッズを買って待ち望み、胎児のまま生まれてこなかった水子の霊の名前を、うわごとのようにぶつぶつと呼び続けている。


「………、な…………、」


 危篤状態の、無意識状態の、或いは極度の譫妄状態の夢のなかで眠りについているはずの彼が――自分のこれから向かう先を暗示するように。

 僕は金属バットを握りしめたまま、手の平の感覚がなくなっても、いつまでもその場所に立ちつくしていた。

 自分を支えていた憎しみと怒りは、衰弱しきった父親の顔を目にした途端に、跡形もなく消えてしまった。

 とめどなく涙がこぼれてくる。


 この感情の正体を僕はまだしらない。

 この喪失の正体を僕はまだしらない。







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