第10話「黒シリーズは背後の暗い森で爆発した」


 ――あなたには大切なものがありますか?

 

 少女は雪のなか微笑んでいた。

 その髪は透き通るように白かった。白銀の少女。

 その背中には羽根が生えていた。だが僕は非現実的な少女の容姿に、驚くことすらできなかった。息をするのも忘れて、ただ見惚みとれていた。

 その特殊な髪も、天使の羽根も、少女のあまりの非現実的な美しさになじんでみえた。違和感を感じさせるどころか、完璧に調和してみえた。長い髪。あかいくちびる。透き通るような白い肌。音が聞こえた。僕ははっとして言った。


「……あなたは何を言っているんですか?」


 そう言って、一歩、後ずさった。宗教の勧誘だろうか。

 だがそれは大抵の場合、人通りの多い場所で行われるはずだ。

 人気のない公園でやるには、あまりに非効率的だ。

「久しぶりね」

「初対面ですが」

 僕はさらに半歩後ずさった。警戒心が働いていた。

「そんな悲しいこと言わないでよ。

「……どうして僕の名前を知っているんですか?」

「学生証落としたでしょう?」

「ああ」

 僕はそれを受け取った。

「どうもありがとうございます」

 礼をを言うと、その場を立ち去る。立ち去ろうとした。

 だが足が動かなかった。

 その場を、離れたくなかった。

「あの、」

 振り向いて言った。

「そんなところにいたら凍死しますよ」

「お気遣いありがとう。でも大丈夫」

「震えているじゃないですか」少女の華奢な肩が小刻みに震えていた。

「寒さは一瞬。痛覚と同じ。こわくはないの」

「でも死んだら……」

 元も子もない。そう言おうとした瞬間、少女は言葉を制した。僕の手を握った。白磁の陶器のような手だった。寒さのせいで感覚の失われた、死人のような指だった。つないだ指が離れた。


「死はいなくなることじゃない」


 次の瞬間、突然彼女は僕を抱きしめた。

 僕は息をするのも忘れて、ただされるがままになっていた。


「死はいなくなることじゃない。失うことじゃない。憎むことじゃない」

「じゃあいったい何だって言うんだ?」

「そして――こわがることでもないんだよ」

「生きることなんてこわくない」冥土の土産にくれてやる。

「でもあなたはこわがってる」

 そう言って少女は強く僕を抱きしめた。

 彼女のからだはあたたかかった。髪からはひどく懐かしい香りがした。 

「大丈夫。あなたはすべてを変えられる」

 放心状態に陥った自分の耳に、優しい声が流れこんでくる。

「悲しみと憎しみの連鎖を断ち切れる」

 ここは一体どこなんだろうと思った。美少女に雪の深夜に突然抱きしめられるという意味不明な展開に、ついていけない自分がいる。

 だが肉体は頭脳を裏切る。僕はされるがままになっていた。全身の感覚が弛緩していた。波の音を聞いているような心地良さを……感じていた。

「あなたは、誰かを救える。大切な誰かを助けられる。運命を変えられる」

 脳裏に部屋の惨状が浮かんだ。父親の姿が浮かんだ。沙羅の声が蘇った。

「どうすれば……どうすればいい?」思わず目を閉じて呟いていた。少女はからだを放して言った。


「信じること」


 全身に、衝撃が走った。爆音が、鼓膜のうちがわで轟いた。ぐるぐると頭上を黒シリーズが旋回している。少女の言葉は続いている。

「自分を信じること。そして、未知の現象を否定しないこと。みえるものだけが世界のすべてじゃない。目にみえる光は目に映らない闇を映してくれる」そう言って彼女は微笑んだ。

「きみは一体……」

 声がうわずった。少女は答えなかった。だが沈黙は長くは続かなかった。

 轟音が静寂を切り裂いて飛来した。僕は顔を上げた、

 

 ――黒シリーズ

 

 黒々としたギアの群れが雪原の向こうを横切っていく。

 その機体を背にたたずむ少女の姿を見たとき、僕は本能的に直観した。

 彼女はこの世界の人間じゃない。 


「きみは一体、何者なんだ」


 少女はこちらを真っ直ぐに見つめたまま答えなかった。

 そのまましばらく見つめあった。

 なんだか胸が痛くなった。


「カグヤ・ノゾミ」


 遅れて、少女は名前を言った。「私は、あなたの――……」小さなくちびるが動いて、何かを告げようとしている。だが声は掻き消された。

 黒シリーズの爆音がうなりを上げる。

 ぐるぐると旋回しながら戻ってくる。機体が安定していない。落ちる。彼女の言葉が発されるたびに、頭上の機動兵器のギアの鳥が軌道を逸脱していく。

「私はあなたに使命を与えにきたの」

「それは何ですか?」


使調


 天使狩り――それはこの街の暗部だった。

 僕らが秘密にしている――連続少女失踪事件だった。

 その瞬間、僕は唐突に理解した。

 この少女とは関わらなくてはならないのだと。

 この少女と出会うことは、定められていたことなのだと。

 

 ゴッ、

 

 突風が吹いた。

 僕は目をつむった。

 竜巻のように雪の粉塵が舞い上がった。

 

 目を開けると、雪原だけがあった。いつのまにか少女の姿は跡形もなく消え失せていた。ただゆらゆらと舞い踊る雪だけが――誰もいない丘に上映後のエンドロールのように、流れ続けていた。

 

 僕は一人だった。あたりには誰もいなかった。

 自分は夢をみていたのだろうか。だがそんな疑問を突き詰める暇もなく、凄まじい音が頭蓋を揺さぶる。

 黒シリーズが向かってくる。

 こちらに一直線に向かってくる。

 僕は絶句した。目を閉じた。目を開けた。その動作を何度か繰り返した。

 しかし夢ではなかった。

 僕は何もできなかった。ただ呆然と立ちつくしながら、鼓膜が、視覚が、触覚が、五感が――凄まじい衝撃に飲み込まれていく様を目の当たりにする。

 雪原がめくれあがる。雪の壁が衝撃波のように連なる。視界が白くなって、一拍後に闇に染まった。

 機動兵器の巨大な機体が、目の前にあった。

 それは黒煙をあげながらどんどんこちらへ近づいてくる。

 凄まじい風圧に、からだが吹き飛んだ。

 自分が後ろ向きに倒れて、瞳孔が収縮して、世界がサイレント映画のようにスローモーションで再生される。

 雪が舞い上がり、黒い機体が迫り、白と黒が点滅して、バラバラと白紙に紡がれる図形のように自分の鞄の中身がこぼれてペンが、教科書が、ノートが、弁当箱が、一切が舞い上がりながら流れていき、巨大な機体が通過して。

 僕は意識を失い、雪原に倒れこんだ。

 

 墜落してきた黒シリーズは、背後の暗い森で爆発した。

 

 


 

                             〈第一章・了〉

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