キミの雨傘
人夢木瞬
キミの雨傘
放課後の教室はとても静かだった。普段なら遠くの方から運動部のかけ声や吹奏楽部の演奏が聞こえてくるのだろう。けれど今日は生憎の雨だった。すべてを雨音がかき消してしまった。
窓の外は暗い。まだ日が昇っているはずの時間なのだけれど、真っ黒な雨雲が空を覆い尽くしていた。だからなのだろうか。蛍光灯の明かりがやけにまぶしく思えた。
「まだまだかかりそうだね、委員長」
不意に目の前に座る黒川さんが言葉を漏らした。その声には諦めや落胆の感情が見て取れた。
僕は作業の手を止めて顔を上げる。プリントの山の向こう側にはにかんだ顔の黒川さんがいた。僕はそれに苦笑いを返すしかなかった。
「ごめんね。付き合わせちゃって」
全ての原因は僕にあった。事の発端は僕が体調を崩して休んでしまったことだった。僕が休んでいる間に各委員会に生徒総会用の資料のホチキス止めが依頼されていたのだ。当然僕はそんなこと露ほど知らず、生徒総会前日である今日、生徒会に催促されてようやく気づいたのだ。
慌てて作業できる人間を探し回ったのだけれど時既に遅し。副委員長である黒川さんだけが捕まった。
「ううん。元はといえば副委員長の私もしっかりしてなかったのが悪いんだから」
「いやいや。僕さえきちんとしていれば黒川さんの手を煩わせることはなかったわけだし」
お互いに責任を押し付けあうのではなく、奪い合う僕ら。しかし黒川さんは実際のところどう思っているのだろうか。僕は本当にすまないと思っていっているが、黒川さんは僕を慰めるつもりで言っているだけなのかもしれない。
そんな邪推が嫌になって僕は再び顔を伏せて作業に戻る。少し遅れて黒川さんも作業に戻る気配が感じられた。
ガチャン、ガチャンとホチキスが閉じられる音と雨音だけが響く時間が始まった。けれども段々とペースが落ち始める。作業は思うように進まなかった。
「雨、凄いね」
気分転換のつもりでそんな事を口にする。よりにもよって天気の話題だが、それくらいしか思い当たらなかった。
「そうだね。朝は晴れてたから、私ったら傘持ってきてないんだよね」
「天気予報見てなかったの? 今日は午後から雨の予報だったけど」
「実は今朝、寝坊しちゃって急いで出てきたから」
「なるほどね。まあ、かく言う僕も傘ないんだけど」
「天気予報見てたのに?」
「チェックしたのがバスに乗ってる最中だったからさ」
ちらりと顔を上げて窓の外を見やる。やはり雨足は強く、しばらく止みそうにない。釣られるようにして黒川さんも窓の外を見た。
「真っ赤な傘」
黒川さんがぽつりとつぶやいた。空から少し視線を下げると、一人の女子生徒が赤い傘を差して歩いているのが目に入った。
「だいぶ目立つね」
「委員長は赤い傘は嫌い?」
「いや、女の子が差してる分にはいいんじゃないかな。僕自身が差すとなるとちょっと恥ずかしいけど」
「ふふっ。そっかぁ」
黒川さんは意味ありげに笑って見せた。
「近くのコンビニでビニール傘でも買わなきゃなぁ」
「バス通学なんじゃないの?」
「そうか、バス使わなくちゃ分からないか。学校からバス停まで結構距離あるんだよ」
「最寄りのバス停ってどこなの?」
「市民病院前」
「うわっ、私の家より遠いんだ」
「それに僕の場合、家とバス停との距離も遠くってね」
「だったら傘買わなくちゃね」
ここまででようやく半分のプリントをまとめきったところだろうか。まだまだ時間がかかりそうだ。だというのにホチキスの針がそろそろ尽きそうでもある。
「でも私はビニール傘って嫌いだなぁ」
「どうして?」
「え? ええっと……だって、家に帰ったらもっとちゃんとした傘があるわけでしょ。なのに買うのも、一回使ったきりになっちゃうのももったいないじゃない」
「そういうものかなぁ。僕はそれこそ使い捨てるつもりで割り切ってるから抵抗ないんだけれど。黒川さんって結構傘にこだわるタイプ?」
「う、うん。そうかな。……多分そう」
今度は何だか歯切れが悪い。今までも黒川さんと話をする機会は少なからずあったわけだけれど、こんな不思議な人だっただろうか。
「でもそもそも傘ってどこにこだわるの? 大きさとか骨の数とかかな」
「私の場合は……その、色とか柄とかだけれど」
「なるほどね。女の子なら傘でもそういうの気にするものか。ちなみに黒川さんはどういう傘が好きなの」
「えっと……その、それは……」
やはりどこか様子がおかしい。多分だけれど黒川さんの傘の話題になってからだろうか。思い切って聞いてみるべきか。
「黒川さん、どうかした? 具合が悪いなら先に帰っても大丈夫だけれど」
「ううん。そういうことじゃなくてね。あー、うん。委員長は知らないで話してるみたいだからいいかな」
「?」
「いや、心理テストみたいなものでね。傘の好みとその……下着の好みは大体一致するっていうのがあってね。これが正しいのかどうかはさておき、知ってからというもの、そういう風に考えてたから、その」
つまりアレだ。僕は無意識の内に黒川さんにセクハラをかましていたということらしい。無知は罪とは言うが、流石にこの類の心理テストを知らなかったから罰を受けるというのは勘弁願いたい。
「その……ごめん」
「こちらこそごめんなさい」
その後、作業が終わるまで僕らは終始無言だった。
ホチキスの針だって黙って取りに行った。
「これでラストだね。黒川さんもお疲れさま」
「うん、お疲れさま。結局雨は弱まりそうにないね」
日もすっかり沈んだであろう時間に、ようやく作業を終えることができた。あとはこれを生徒会室まで運ぶだけである。
「それじゃ黒川さんは先に帰っててもいいよ」
「うん。でもできるだけ雨に濡れたくないからなぁ。コンビニで傘買うんでしょ。入れてってよ」
「それじゃあ玄関で待っててくれる」
黒川さんがこくりと頷いたのを確認すると、僕は肩に鞄を提げ、両手にはプリントを抱えて教室を後にした。部活動は既に終わっているようで、どれだけ進めど聞こえてくるのは雨音だけだった。
生徒会室にプリントを届け、その足で玄関へと向かう。そこには顔を真っ赤にした黒川さんが立っていた。
「……置き傘してたの忘れてた」
彼女の手には一本の傘が握られていた。水色のベースに白のドット、裾には瀟洒な白いレースが施されていて、柄の部分もまた白い。
僕は思わず、まじまじと見つめてしまったのだった。
キミの雨傘 人夢木瞬 @hakanagi
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