花弁ひとひら、原稿用紙

宮島奈落

第1話

手綱を捉えて手離さないで。

凍てつく花弁に触れないで。

飲み込まれて、しまう前に。



四畳半一間から窓を見やると、一面の桜並木が見える。

貧乏な文学青年が住むこの家の、唯一のセールスポイントだ。

乱雑に置かれた大量の本、そして原稿用紙。

それらに囲まれて使い古された机に、メモを書き殴る途中で突っ伏している、髪を乱した青年が「宮内幸太郎」である。

彼の目指す職業は、言わずもがな。

「小説家」だ。


しかし、そんな宮内の小説はというと驚くほど鳴かず飛ばずであり、彼が出版社に送った原稿がやけに丁寧な文面の手紙を同封して返送されてくる度、下戸の宮内は安い日本酒を一杯だけ傾けて窓から桜を眺めるのだった。

「今夜も月が綺麗ですね、と言いたいところなのですが」

コクリ、と嚥下し独りごちた。

「今夜も月は雲に翳っているようで」

誰も居ない、しんと静まり返った部屋の中で、彼のたてる物音だけがいやに大きく響く。

しばらくして日本酒で酔いが回り、くらりくらりと回らない頭のまま、宮内は文机に出しっ放しだった原稿用紙に万年筆を滑らせた。


思いつくまま、並べていく。

話の筋も構成もない、ただの言葉の寄せ集め。

万年筆のインクを滲ませながら、書き連ねた。


「はは、…はは」

乾いた笑いを吐き出して、机に倒れこんだ。

東に傾いた月が照らし出す中、宮内はそのまま眠りに落ちた。




冷たい風が吹き込んで、目を覚ました。

インクの入った壺に桜の花弁が一つ、入り込んでいた。

風に運ばれてきたのだろう。

空は薄っすらと白んじている、明け方だった。

起きるにはまだ早すぎる、ともう一眠りしようとしたその時。

ふと、窓の外に目をやった。

目を覚ました風は止み、木々の揺らぎもない。

その静けさに吸い寄せられるように、草履を引っ掛けてふらりと外へ出てしまった。

ざらっ、ざらっ、と草履の音だけが辺りを震わせる。

しばらく行くと、窓から見えるあの並木に辿り着いた。

やはり、目の前で見ると圧巻である。

宮内は白い息を長々と吐いた。


明け方の白んだ空の下、満開の桜並木。

風もなく、まだ春の陽気には少し遠い気温の中、凍てつくように咲いている。


並木道をゆるゆると歩いて行くと、ぽつんと置いてあるベンチが見えた。

更にその付近にぼんやりと見えるのは、人影だ。

昼下がりには花見の客で賑わうこの通りは、高齢者の散歩や若者のランニングコースとしても利用されているため、人がいること自体は珍しくはない。

しかし、この時間帯に自分以外の人がいるとは。


その時。

またしても大きく風が吹いて、花弁を散らした。

ざあぁ、と揺れる音が響いて消えていく。


その先に見えたのは、一人の女だった。


ゆるりとベンチから立ち上がった女は、風に黒髪を靡かせながら、上品な微笑みを浮かべて口を開いた。

「あら、こんな時間に人にお会いするなんて」

「いや、こちらこそ、こんな時間に」

宮内はひどく狼狽した。

女が美しいこともあるが、何しろ人と話をすることが得意ではなかったからだ。

「貴方、お酒の匂いがするわ…駄目よ、夜更かしと深酒は」

そう言いながら半歩、宮内に近づいた。

「それにしてもこの時間帯に外をうろつけるなんて、貴方男性にしては珍しいのね」

「はぁ、僕は、小説を書いていますので…まぁ、少しばかりは、暇があるかと、はい」

「小説?」

女の目が、宮内をしっかりと捉えた。

「私、小説読むの、好きよ」

何を書いてらっしゃるの、と続けて女は尋ねた。

店頭に製本されて並ぶ本など一つも無い宮内はおろおろと小説家志望であるというだけだという旨を説明し、懐に入れっぱなしだった返送された没原稿を女に見せた。

「紹介できるような本があればよかったのですが、生憎こんな有様で」

「あら、持っていたのね」

さらりと流し読んだ女は悪戯っぽく微笑みながら原稿用紙を宮内に返した。

「これじゃあ駄目だわ」

ーこの漢字、間違えているもの。

そう言って、細く白い指でそっとXを付けた。

「貴方…いいえ、宮内さんとお呼びした方が宜しいかしら。宮内さんはこの辺りにお住まいなの?」

「え、ああ、はい、まぁ」

「そう、それならまたどこかでお会いできるかしらね」

そう言って女は少し視線を外し、宮内に背を向けようとした。

「っ、あ、待ってください、貴女の名前は」

「名前?」

女は少し考えるような素振りをして、宮内に言った。

「そうね、貴方がつけてくださる?私の名前を」

「え、僕が」

「お嫌かしら」

優しげな、そしてどこか挑発的な女の目に抗えず、宮内は考え込んだ。

満開の桜並木の下、道に散らばる桜の花弁、そして風で折られた枝々。

「……小枝」

「え?」

「小枝、と書いて、さえ、というのはどうでしょう」

女は一瞬驚いたように目を開いたが、すぐに元のような微笑みを携えた表情に戻った。

「そう、いい名前ね」

また会いましょう。

その言葉がまるで合図であるかのように、大きく風が吹いて、また花弁を辺りに散らした。

花弁と木々の騒めきで少し目を閉じたその刹那、目を開けた時には既に彼女の姿はなかった。


その後、宮内は何度も桜並木に通い、小枝に原稿を見せた。

その度小枝の白く細い指で、Xを付けられていくのだった。

「今日も駄目ですか」

「駄目ね、これじゃあ何が言いたいのかわからないわ」

不思議と小枝の意見は的確で、宮内の小説は段々と高尚なものになっていった。

「小枝さんは書かないのですか」

「私は読むほうが好きなのよ」



ある日、宮内は小枝をイメージした小説を書いた。

さすがに小枝には気恥ずかしくて見せられず、そのまま送ったのだが、何と人生で初めて入賞し、出版されることになったのだ。

これには当の本人である宮内が1番驚き、毎晩の晩酌も忘れて朝まで眠れず、ほとんど徹夜のような状態で桜並木へ向かった。

桜はあらかた散ってはいたが、まだ所々に残ってはいた。

「あら、今日は何だかご機嫌なのね」

「えぇ、実は、作品が出版されることになったのです」

「あら、本当?良かったじゃない」

小枝はやはりあの笑顔を向けて、宮内を見た。

「小枝さんのお陰です」

「私は何もしていないわ、貴方の努力よ。…ところで大作家さん」

ー花弁が付いているわ。

そう言って、彼女が白い手でそっと宮内の髪を払ったその時。

宮内は、あぁ、と嘆息した。


どうやら自分はこの女に惚れているようだ。



何がきっかけかはわからないが、件の入賞作品以後、宮内の小説は空前絶後の売れようを見せ、その人気を不動のものとした。

宮内は安い日本酒の晩酌もしなくなった。

四畳半から桜並木を眺めることもなくなり、窓からは雑踏が見えるようになった。

だがどれだけ忙しくても、あの並木に通うことだけは欠かさなかった。


桜が散っても。

緑の眩い葉が覆っても。

木枯らしに枯れた葉が音を立てても。

そして、澄み切った風に揺れる葉が無くなっても。


最早大作家となった宮内だったが、小枝はやはり悪戯っぽく微笑みながら本にXを付けていくのだった。


それで、良かった。

それが、良かった。


そうこうしているうち、宮内は新たな作品に取り掛かった。

明らかに、小枝を書いたものだった。

桜並木で出会う2人の物語。

何度も明け方の逢瀬を繰り返すうちに男は女に恋に落ちる。

この本を携えて、彼女に想いのうちを伝えよう。

宮内はそう決心していた。


その意気込みで書いた新作は、今まで以上の売り上げを見せた。

売れた時期も時期、丁度宮内と小枝が出会って1年ほどとなる春だったので連日のように桜並木に人が集まっていく、ちょっとした社会現象にすらなってしまうほどだった。

当然、宮内の決心はさらに固まり、製本された本と元の原稿を持って明け方の逢瀬に向かった。

あの時と同じ、満開の桜が凍てつくように咲いていた。


「…何かしら、これは」

期待に反し宮内を待っていたのは、冷ややかな女の声だった。

「これは私のことでしょう。どういうこと」

呆然と立ち尽くす宮内に、小枝は少し目を伏せた。

「…いいえ、聞き方を間違えたわ」

ーどういうつもりで、書いたのかしら。


つまり、見抜かれていたということか。

宮内はごくりと生唾を飲んだ。

あからさまな拒否を感じ、宮内はなかなか口を開けないでいた。

しかし、見抜かれている以上もう言わざるをえない。

もう、どうにでもなるがいい。

「…僕は、貴女をお慕いしているのです」

どうか、考えてはくれませんか。

宮内はつっかえつっかえ、どうにか言葉にした。

小枝は長く息を吐き、小さく頭を振った。

「…駄目よ」

そう言って、Xを付けた。

ただし、原稿ではなく、宮内自身に。

白い指でそっと宮内の口を塞いだ。

「私を選んでは駄目よ、言葉と同じ。然るべきところに然るべき言葉を入れるの。私を貴方の隣に並べてはいけないのよ」

「……何を言っているのか、僕にはわかりません」

小枝の言うことは大抵正しかった。

だが、これはわからない。

わかりたくない、が正しいかもしれない。

「貴女は僕にとって必要なのです、それだけでは足りませんか。貴女にとって僕は必要でないのですか」

風もない、春の陽気には少し遠い気温の中、凍てつくように咲いている。

何処からともなく、はらり、と花弁が舞った。


「私は、貴方をきっと不幸にするわ」

「…え?」

「私は今まで相手にしてきた男性を皆不幸にしてきたわ。1人目は私と一緒になった途端豹変してしまった。2人目は私の頼み事を聞いて外に出て…そのまま帰ってこなかった」

唖然として宮内は聞いていた。

何事もないかのように話す小枝の話は普段の自分には到底縁のない遠い話に思えた。

「貴方を私の3人目の犠牲者にしたくないの」

ねぇ、とさらに小枝は畳み掛ける。

「私が何故あんな時間に1人でいるか、ご存知?」

「いえ、…」

「ふふ、そうよね。教えていないもの。…私の本名も」

見慣れたあの笑顔を向けて、小枝は口を開いた。

「紗詠、で、さえ、よ」

驚いて、宮内は目を大きく開いた。

「惜しかったわね、音が同じだったから少し驚いたの。…私は紗詠、不幸を連れてくるただの死にたがりの32歳」

夢と希望に溢れる若手大作家さんと一緒にはなれないのよ、と。

「っ、だったら、だったら何故僕にその話をしてくれたのですか、何故僕の原稿を読んでくれたのですか」

堰を切ったように言葉が溢れる。

「僕に興味を持ったから、僕の本に興味を持ってくれたからではないのですか」

彼女は黙ったままだ。

「それに貴女に会ってから、僕はここまでになれたのです。それが貴女の呼んだ不幸ですか」

それまで目を伏せていた彼女が、少し身動ぎをして目を上げた。

「貴女といることで僕に何があろうが、それは僕の責任です。貴女が不幸を呼ぶというならそれで構わない」

ー僕は貴女に、不幸にされたい。


「そう、だったら」

彼女の表情は、あの日と同じ。

悪戯っぽく微笑みながら、白く細い指を宮内の心臓に突き立てた。

「心中でも、しましょうか」

宮内…いいえ、幸太郎さん。

ー奈落の底まで、落としてあげる。


大きく風が吹き、満開の桜を揺らがせた。

それはすぐに止み、また、桜の花が白んだ空に凍てついた。



手綱を捉えて手離さないで。

凍てつく花弁に触れないで。

飲み込まれて、しまう前に。

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