特別編 谷藤屋と五十円玉二十枚の謎

 二十枚の五十円玉が置かれたレジカウンターを挟んで、謎の男と谷藤たにとうさんは向かい合っていた。

 谷藤さんの手が動いた。人差し指で五十円玉を押さえ、カウンターの上を滑らせていき、「いち、に、さん……」と声を出しながら硬貨の数をあらためていく。


「……はい、確かに」


 数え終えた谷藤さんは、レジから千円札を一枚取りだし、「はい、どうぞ」と、恭しい手つきで男に差し出した。

 男はといえば、谷藤さんが硬貨を数える間、なんとなくいらいらした様子で待っていて、差し出された千円札をほとんどひったくるように受け取ると、すぐにきびすを返した。

 僕はその間、呆気に取られて二人の動向を見つめているしかなかった。

 この男、まさに『五十円玉二十枚ごじゅうえんだまにじゅうまいなぞ』に登場した両替男そのものではないか? 本によると、この〈五十円玉両替〉のエピソードは実際に起きたことだという。その両替男が、この町に、ここ谷藤屋に現れたというのか? いや、しかし、若竹七海わかたけななみがその両替男と遭遇したのは、1980年頃。もう四十年近くも昔のことではないか。今になって、どうして? いや、もしかしたらこの男は、あれ以来(もしくは、それよりずっと昔から存在していたのかもしれないが)全国の書店に出没し、こうして二十枚の五十円玉を千円札に両替するという行為を延々と続けているとでもいうのだろうか? もし、そうだとしたら、この男が1980年当時三十歳であったならば、現在は七十近い年齢に達しているということになる。

 どうだ? 僕はまじまじと男の顔を観察する。……七十と言われても、三十だと言われても納得してしまう、年齢不詳という表現がぴたりと当てはまる。最近は外見から年齢を推察することが非常に困難な人が多い気がする。かく言う僕も、二十歳を超えているが、未だに高校生と間違われたりするし……。

 って、そんなことはどうでもいい。男は店の出入り口に向かって、つかつかと歩き続けている。若竹七海の体験談では、男は両替を済ませると、自動ドアに肩をぶつけながら店を出ていったという。だが谷藤屋のドアは自動ドアではない。男の手がドアに伸びる。手が触れると、男はそのままドアを押し開け、店を出ていってしまうだろう。

 どうする? 声を掛けるか? この男が〈五十円玉両替男〉本人であったなら、両替の秘密をまさに訊くことが出来る。十数名もの推理作家が寄せた「回答」の中に真実はあるのか? それとも……。

 逡巡している時間はない。僕は意を決して、男に掛ける声を出すべく息を吸い込んで――


「待って下さい」


 僕じゃない。僕よりも一瞬早く男に声を掛けたのは、谷藤さんだった。

 男はドアに触れかけていた手を止めた。ゆっくりと振り向いて、谷藤さんと目を合わせる。


「私の〈回答〉を、聞いてもらえますか」


 続けて掛けられた谷藤さんのその言葉を聞くと男は、振り向いたときと同じくらいの、ゆっくりとした動きで頷いて、レジ前に歩み寄った。谷藤さんはカウンター脇に置いてあるノートとペンを手にとって、


「私は、両替という行為、正確には〈二十枚の五十円玉〉と、それが姿を変える〈千円札〉に着目してみました」


 そう言いながら、ノートのページに何かを書き付けた。それは、〈五十円二十〉という五つの漢字。谷藤さんは続けて、


「これは、あなたが両替元とした硬貨、五十円玉とその数を表します。この〈五十〉を除いた〈円二十〉という漢字に注目して下さい。この三つの漢字を組み合わせると……こういうひとつの漢字が出来上がります」


 谷藤さんが新たに書き加えたのは、〈里〉という漢字だった。……なるほど、確かに〈円〉〈二〉〈十〉の三つを縦に重ねていくと〈里〉という漢字になる。


「これに、何も手を加えずに残した〈五十〉をそのまま繋げると、〈五十里〉という組み合わせが完成します。この漢字には、名字や地名などに使われる固有の読み方があります。それは〈いかり〉です」


 五十里いかりというわけか。


「そして、二十枚の五十円玉が両替された千円札。それをあなたは、引ったくるようにして受け取りました。その結果、お札がどうなるか」


 谷藤さんの視線は男の手に向いた。そこには、今しがた受け取った千円札が握られている。谷藤さんが言ったように、引ったくるようにして受け取ったため、その紙幣はしわくちゃに折れ曲がっている。


「曲がっていますね。あんな受け取り方をしたら、そうなってしまって当然です。で、ここに〈曲がった千円札〉が新たに生まれました」


 ここで、谷藤さんは再びノートに漢字を書き加える。それは〈千曲〉。谷藤さんは、視線を男の顔に戻して、


「これは〈ちくま〉と読めます。これも地名にある名称です。先ほどの五十里いかりと合わせると、ある場所が浮かび上がってきます。それは、長野県内に流れる千曲ちくま川沿いにある五十里いかり公園という名称の公園です」


 な、なんだってー!

 心の中で叫んだ僕をよそに、谷藤さんと男は、しばし無言のまま視線をぶつけ合っていた。


「……いかがですか」谷藤さんが沈黙を破って、「あなたは、何者かに暗号を出題された。それは、『二十枚の五十円玉を両替してもらい、出された千円札を引ったくるように受け取れ』というものだったのではないですか? その一連の行動によって、〈何か〉が浮かび上がってくる。それが何を指し示しているのかは分かりませんが、何か重要な物品の隠し場所とか、待ち合わせ場所だった可能性があります。あなたがかつて、その行動を起こしていたのが毎週土曜日の夕方に限られていたのは、そう指示されたか、忙しくてその日時しか時間が取れなかったからなのではありませんか?」


〈二十枚の五十円玉〉を両替して〈曲がった千円札〉を手に入れる。そこから導き出されるものが、千曲川沿いにある五十里公園だった、ということなのか?

 両者の間に沈黙が帰ってくる。


「ふふ……」今度は、わずかな笑みとともに男が先に口を開き、「なるほど。硬貨の入手経路や両替の目的ではなく、両替手段そのものを暗号として着目した点は面白かったですよ」


 再びきびすを返して出入り口に向かい、今度こそ店を出て行った。ドアの枠に肩をぶつけながら。

 しばしの間、呆然と店内に佇んでいた僕だったが、「あっ!」と叫ぶとドアに突進して店外へ出る。左右に伸びる商店街の道路に目をやったが、両替男の姿はもう、どこにも見えなかった。


「すみません、谷藤さん、見失ってしまいました。もっと早くに追いかけていたら……」

「……ありがとうございます、永城えいじょうさん」


 谷藤さんは、意外なほどすっきりとした表情で礼を言ってくれた。僕は、


「それにしても、あの男……」と未練がましくドアを見やりながら、「本物の〈両替男〉だったんでしょうか? それとも、ただの模倣犯? いえ、〈犯〉というのはおかしいですね。別に犯罪を犯しているわけじゃないんだから」

「確かに」谷藤さんも口を開き、「両替男の詳細は『五十円玉二十枚の謎』として世に出回っているわけですから、誰かが真似をすることは可能でしょうね」

「うーん……でも、僕は偽者だったんじゃないかという気がします」

「どうしてですか?」

「だって、あいつ、谷藤さんの推理を肯定も否定もしなかったじゃないですか。それは、あの男自身も〈正答〉を知らないからです。ということは本物ではない。あの男は、ただの〈五十円玉二十枚の謎〉に取り憑かれたマニアなんですよ。ああして両替男と同じ行動を各地の本屋で試して、両替男本人になりきることで謎に迫り、同時に谷藤さんのように謎の〈回答〉を持つ人から、色々な説を聞き出すことが目的なんですよ」 


 我ながら、あまりに荒唐無稽すぎる説だとは思う。謎に憑りつかれているというか、ただの凄まじい暇人だ。笑われるかな? と思い谷藤さんを見る。が、谷藤さんは男と対していたときの真面目な表情を崩さないまま、


「そうかもしれません……」


 そう言って、推理を披露するために使ったノートを閉じると、もとのようにレジ脇に追いやった。


「もしくは……」数瞬の沈黙を破って、また谷藤さんが、「さっきの人が、本物の両替男だったとしたら?」

「えっ? 四十年前に若竹七海わかたけななみが遭遇した、本人? いったい今いくつなんです? いや、そんなことよりも、あれが本人だったとして、未だに両替を続けている理由は何なんですか?」

「謎を解明されないため」

「えっ?」

「いえ、正確には、

「ど、どういうことですか?」

「永城さん、本物の両替男も、出版された『五十円玉二十枚の謎』を読んだ可能性は高いと思うんです」

「それは大いにありえますね」

「でも、あの本が出版されてから二十年以上になりますけれど、未だ『あの両替男は私でした』と名乗り出てくる人物はいません。どこかで『五十円玉二十枚の謎』のことを耳にした当人が、『あれは私で、こういう理由で両替をしていたんだよ』と知り合いか誰かに打ち明けたとしたら、これだけインターネットやSNSが定着した世の中です、その話がどこかに漏れ聞こえてもいいはずです」

「確かに」

「でも、そういった話は一切聞こえてこない。どうしてか。こうは考えられないでしょうか。〈五十円玉二十枚の謎は、すでに解かれている。出版された『五十円玉二十枚の謎』に収録された一遍に、まさに正答があった〉と」

「ええっ? それと、男が未だに両替を続けていることに、どんな関係が?」

「知られたくないのだとしたら?」

「知られたくないって、両替の本当の理由を、ですか?」

「そうです。だから、男はああして、今でも全国各地で同じことを繰り返している。『まだ謎は解かれていないんだ』と思わせるためにです」

「そ、それじゃあ、当然、あの両替は、人に知られたくない、つまり、おおっぴらにできない理由によって成されていた、ということですよね」

「もしくは、犯罪などに関係はないけれど、個人的な理由から明らかにしたくない、知る人が知ったら、即座に個人や周囲が特定されてしまう。それを嫌がって、ひた隠しにしているのかもしれません」

「そんなことって……。それに、さっきの男は確かに年齢不詳でしたけれど、両替男本人は、もうかなりの年齢に達しているのでは?」

「当人の意思を引き継いだ別人、という可能性もあります」

「二代目両替男、というわけですか……」

「すべては推測に過ぎませんけれど」


 谷藤さんの視線を追って、僕もドアに目をやった。あの男がこの谷藤屋に、この町に現れることは恐らくもう二度とないだろう。

 谷藤さんの推測が正しいとしたならば、両替男は謎を謎のままにしておくため、これからも書店を回って両替をし続けるのだろう。むき出しの、二十枚の五十円玉を握りしめて。

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