○ちがいじゃが仕方がない『獄門島』横溝正史 著

『獄門島』プレビュー

「こんにちは……」


 開店していた谷藤屋たにとうやのドアを開けた僕は、そのままの姿勢で固まってしまった。


「いらっしゃいませ」


 と谷藤ふうさんが声を掛けてくれたのはいつものことだが、今日は、そこに、今までに見たことのない風景が加わっていたのだ。

 書棚の前にいた人物が、読んでいた本から顔を上げて僕に視線を向ける。……客? この谷藤屋に、僕以外に客が? 初めて見た。しかも、若い男だ。いや、若い男が本屋に来て悪いという理由など微塵もないのだけれど。僕だって若い男だし。それにしても、結構いい男だ。身長も高く、百八十センチに届くくらいある。


「君が永城源えいじょうげんくんだね」

「えっ?」


 そのもうひとりのお客は、本に目を戻すでなく、僕のことをじっと見たまま、あろうことか名前を呼んできた。どうして知っている? 困惑している僕をよそに、男は手にしていた本を閉じて棚に戻すと、「ふーん……」と僕の頭のてっぺんからつま先までを物珍しそうに眺め回してくる。何だこいつ……。


「ちょっと、失礼よ、鋭一えいいち


 谷藤さんが男の行動を諫めた。何? 今、何て? 「えいいち」だと?


「はは、ごめん」と男は僕に向き直って、「ああ、鋭一って、俺の名前。〈鋭い〉に数の〈一〉で、鋭一」


 さらに、鋭一なる男は目を細めて笑みを浮かべると、


「風から聞いているよ。ミステリが好きなんだってね」


 何? 今、何て? 「風」だと? すると、谷藤さんも笑顔を見せて、


「そうなの。永城さん、もうすっかりミステリファンになってくれましたから」

「そうなんだ。それは嬉しいね」


 二人は、にこにこと笑みを湛えた顔で僕を見てくる。


「ところで、風」と、鋭一は谷藤さんを向いて、「今まで永城くんに勧めたミステリって、どんなものなんだい?」

「えっと、それはね……」


 谷藤さんの口から、今まで僕がお勧めされてきたミステリ小説のタイトルが連呼されていく。鋭一は、ふんふんと頷きながらそれを聞いて、


「うーん……。片寄っている、とまでは言わないけれど、ちょっと癖のある作品が多いね。倉阪鬼一郎くらさかきいちろう、勧めちゃったんだ……」

「何を言ってるの、鋭一! 永城さんは面白いって絶賛してくれましたよ! ですよね?」

「……え? は、はいっ!」


 反射的に返事をしてしまった。

 ふむ、と鋭一は、さっきまで自分が向いていた書棚に向かうと、


「それじゃあ、風、今度、永城くんにお勧めするミステリは、俺が選んでもいいかな?」

「何? 永城さんに駄作を読ませたりしたら、承知しないわよ」


 谷藤さんは眉を釣り上げながら言った。それを聞いた鋭一は、口元に笑みを浮かべて、


「甘いな、風。ミステリに駄作なんてないんだよ。〈謎〉は、全てが魅力的なものなのさ」


 などと、わけの分からないことを口にしながら、書棚から一冊の文庫本を抜くと、僕の前に差し出した。


横溝正史よこみぞせいし 著『獄門島ごくもんとう』永城くんも、たまには古典に挑戦してみてほしいな」


~あらすじ~

 太平洋戦争終結から一年後の、昭和二十一年九月下旬。金田一耕助きんだいちこうすけは巡航船に乗り、瀬戸内海に浮かぶ孤島〈獄門島〉を目指していた。復員船の中で病魔に倒れた親友、鬼頭千万太きとうちまたの死を実家である鬼頭家に伝えるべく。だが、金田一が獄門島を訪れる理由はそれだけではなかった。「おれがかえってやらないと、三人の妹たちが殺される。金田一君、おれの代わりに獄門島へいってくれ」今際の際に発した友の遺言を果たすために。

 そして、金田一が島に上陸して数日後、三姉妹のひとり花子はなこが死体となって発見される。梅の木に着物の帯で逆さまに吊されるという無残な〈見立て〉となって。さらに、金田一の思惑を嘲笑うかのように、残る姉妹、雪枝ゆきえ月代つきよにも死の影が迫り……。


「『獄門島』ですか……」

「もしかして永城くん、映画やドラマで観たことがあるかな?」

「あ、あると思いますけれど、すいぶん昔のことだから、ほとんど内容は忘れちゃってますね」

「だったら、ちょうど良かった」


 鋭一は微笑んだ。


「やっぱりミステリは原作小説ですよ。私も、永城さんから『獄門島』の感想を聞きたいです」


 谷藤さんから、満面の笑みを浮かべてそんなことを言われたら読まないわけにはいかない。


「わっ、わかりました! 読んでみます!」


 ことさら気合いを込めた声で答えた。


「毎度ありがとうございます」


 谷藤さんは鋭一から本を受け取ると、変わらぬ手さばきでカバーを掛けていく。僕はレジを済ませて、そのままいつものように店を出てしまった。


「あの『鋭一』とかいう男、何者なんだ? 谷藤さんとやけに親しげに話してたな。ただの客じゃないな。しかも、谷藤さんも、あいつも、お互いのことを名前で呼んで……も、もしかして、谷藤さんの……」


 今さら戻れるわけがない。もう一度僕が〈谷藤屋〉に行くためには……。


「くそっ!」


 一刻も早く『獄門島』を読み終えるため、僕は帰り道を駆けた。

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